玻璃の器
 
 確かこっちに来たと思ったのに。
 夢中で鳥を追いかけている内に、気がついたら広大な庭の真ん中まで来てしまっていた。見たこともない鳥だった。ガサガサと茂みをかき分けて歩くと、ふいに開けた所へ出て水良は目を細めた。
 川だ。
 庭に川が流れてる。小さな足を動かして嬉しそうに駆け寄ると、水良は水の流れを覗き込んだ。魚がいる。その流れを遡りながらずっと水の中を見ていると、ふいにパキンと枝の折れる音がして、水良は顔を上げた。
 誰?
 驚いて水良が立ち上がると、同じように水の中を覗き込んでいた桜かさねの汗衫姿が鏡のように立ち上がった。白い文の入った袿を担ぎ、その影から覗く赤い唇にドキッとして水良が後ずさった。どうしてこんな所に女の子が? 父上に見せてもらった絵巻物には、桜の衣を身につけた女の子はいつも几帳の奥でかしこまって座っているのに。
 桜の精…そんなバカな。赤くなって水良がもう一度その童女を見ると、童女は怪訝そうな表情で水良を見つめ返した。
 誰これ。
 この家で自分以外にこんなに砧(きぬた)で打った衣を着ている男の子は他にはいない。ひょっとして…馨君はさあっと青ざめて慌てて袿で顔を隠した。
 ひょっとして、これが芳姫の言ってた東宮!?
 今年七歳になる惟彰と四歳になる水良とでは見かけがかなり違うのだが、そんな予備知識もない馨君にそれが分かるはずもない。互いに大きな勘違いをしていることにも気づかずに、互いにジッと見つめ合っていると、ふいに若葉の声が聞こえてギョッとして馨君はまた袿を担ぎ直した。
「お前、ここに人がいたって言うなよ」
 姫君にしては乱暴な物言いで、馨君は水良の手をギュッとつかんだ。水良が思わず頷くと、馨君は声がした方と反対側に駆け出した。その後ろ姿を呆然と見送る水良の襟元をひっつかむと、若葉がはあはあと息をつきながら言った。
「馨君さま、やっと見つけましたよ…って、あれ!?」
 首根っこをつかまれ、驚いて振り向いた水良を見て、馨君よりも少し幼い顔立ちに若葉が声を上げた。馨って、今の姫のことだろうか。手を離した若葉をぼーっと見上げて、水良は尋ねた。
「馨って誰?」
「は…」
 物怖じしない態度と、光沢のある白絹に萌黄をかさねた小狩衣(こかりぎぬ)に気づいて若葉は思わずその場に伏した。ひょっとして女御さまと一緒においでになった東宮さま? そのわりには馨君よりも幼いようだけど…。
「馨君さまは、この家のご嫡男さまでございます」
 若葉が答えると、ごちゃくなんて何?と水良が尋ねた。その舌足らずな言い方に好感を持つと、若葉は思わず笑いながら答えた。
「ごちゃくなんというのは、藤原家をお継ぎになる男の子にございます。今年五歳になられる、それはもうお美しい玉のような若君ですわ」
 思わず胸を張って若葉が言うと、困ったように赤くなって水良は馨君が駆けて行った方を眺めた。じゃあ、さっきの子は誰なんだろう。やっぱり桜の精だったのかな…まだ桜は咲いてないけど。
「それよりも、あなたさまのお名前は? いずこへ行かれるおつもりだったのですか」
 立ち上がって若葉が手を差し伸べると、水良は黒い目で若葉を見上げてからその手をつかんだ。
「水良。みんなは弟宮と呼ぶ」
「弟宮さまでございますか。それでは春宮さまの弟君なのですね」
 ようやく合点がいって、若葉は水良の手を引いて歩き出した。となると、今日から藤壺女御が入る予定の東へ送って行くべきか。考えを巡らせて小さな手を引くと、若葉はこのような所で何をされていたのですかと水良に尋ねた。
「鳥を、見に」
 水良が答えると、若葉は思わず笑った。鳥など内裏にもおりましょう。そう言った若葉に首を横に振ると、水良は顔を赤くして若葉の手をギュッと握りしめた。
「見たこともない鳥だった。兄上に聞けば、何ていう鳥か分かるかもしれない」
 そう言った水良に、じゃあ兄上さまの所へ参りましょうと答えて若葉は水良の手を引いた。馨君よりも少しおっとりとした感じかな。こんな子も可愛いなあ。ふふっと笑って水良の歩調に合わせてゆっくりと歩くと、それにしても馨君はどこへおいでなのかしらと若葉は首を傾げた。
 
(c)渡辺キリ