玻璃の器
 
 何してるんだ、水良のヤツ。
 庭に白いヒラヒラとした布が見えて、惟彰は眉を寄せて目を凝らした。脱いだ半尻(はんじり)で鳥でもつかまえるつもりかな。そばにいた女房に庭に降りられるかと尋ねると、女房はこちらでございますと惟彰を先導した。
「ここにいて、水良を連れて来るから!」
 重そうな袿を重ねて身につけた女房を連れていては、身軽な弟宮を捕まえられないと判断したのか、庭に降りるとそう言って惟彰は裸足のまま駆け出した。春宮さま! 焦った女房を置いて庭の木々の間を抜けると、キャッという高い声が聞こえて惟彰は振り向いた。転んだかな。考えて、それからツツジの茂みをかき分ける。
「水良! いい加減に…」
 言いかけて、惟彰は口をつぐんだ。
 緑色の葉の影に、桜のかさねの汗衫を着た童女が見事にすっ転んでいた。泥だらけの裸足が、美しい桜色の汗衫に似合わなかった。担いでいた白い袿は転んだ拍子に手から離れて、くしゃくしゃの髪に絡みついていた。
「あ…」
 振り向いた童女の顔を見て、惟彰は真っ赤になった。まるで雛人形…いや、それよりも愛らしい顔立ちをしていた。この家の姫だろうか。確か芳姫という水良と同じ年の姫君がいたはずだ。それにしては少し大きい気がするけど…考えながら、惟彰は手を差し伸べて馨君の身を起こした。軽い。何て軽さだ。立ち上がると思ったよりもすらりとした体つきで、大きな目で自分を見上げる童女をまともに見つめ返すこともできずに目をそらして惟彰は尋ねた。
「あの…男の子を見ませんでしたか。四歳の、小狩衣姿の」
 見たこともない男の子をジッと見上げて、馨君はポカンとした表情で首を横に振った。それからあっと高い声を上げて振り返ると、あっちにと言って馨君は小さな手で指し示した。
「あっちで魚を見てた子がいた」
 それだ。動く物があるとすぐに寄って行くんだから。ホッと息をついて童女が指し示した方向を見ると、惟彰はその小さな手を優しく取って握りしめた。柔らかい手だ。すっぽりと自分の手の中に収まった白い小さな手を見ると、惟彰は目を細めて笑った。
「一緒に水良を探してもらえませんか? 私は惟彰、怪しい者ではない」
「惟彰…」
「春宮です」
 はるのみや? 東宮を東が表す季節の春と掛けて春宮と呼ぶことを知らない馨君は、ますますきょとんとして惟彰を見上げた。知らないか。考えてそれから笑うと、惟彰は足下に落ちた白い袿を拾い、馨君の小さな手を引いて歩き出した。
 可愛いな。
 若葉から逃げ回っていたせいでそろそろ腹も空いてきて、しかもいつもなら昼寝をしている時間で、歩きながらうつらうつらと寝ている馨君をそっと見下ろすと、惟彰は思わず頬を緩めた。このまま内裏へ連れ去りたいぐらいの可愛さだ。抱いてあげましょうと身を屈めると、自身も少年らしい小さな手で馨君をだっこして惟彰は歩き出した。桜の衣からは珍しい香の匂いがして、やっぱりこの家の姫君だと考えながら惟彰は庭を歩いた。
「…あ、水良!」
 ふいに向こうから女童に手を引かれて来た水良に気づいて、惟彰が声を上げた。惟彰の肩に頬を乗せてうとうとしていた馨君が目を覚ました。まあ! 惟彰の声に気づいて若葉が声を上げ、その声にギョッとして馨君は真っ赤になった。
「若葉!」
「兄上!」
 馨君と水良の声が重なって、水良が惟彰に向かって駆け出した。同時に逃げようとジタバタした馨君をギュッと抱きしめると、惟彰はその耳元でゆったりと囁いた。
「いずれまた…お目にかかると思います。私のことを忘れないで下さい」
「え?」
 驚いた馨君を下ろすと、駆けて来た水良を抱きとめて惟彰は笑った。母上が心配してるから行こう。そう言って水良の手を握ると、ようやく追いついた若葉が逃げようとした馨君の袖をしっかりとつかんだ。
「失礼をつかまつりました。東宮さまでいらっしゃいますね」
「そうだ。水良を連れて来てくれてありがとう。そちらの姫は…」
 惟彰の脇にまとわりついている水良の頭をなで、馨君の袖をつかんだまま器用にその場に平伏した若葉を見て惟彰はにこりと笑った。東宮? ポカンとした馨君の体を引き寄せると、どこからどう見ても姫君の格好に気づいて若葉はマズイ所を見られたなと顔をしかめた。
 これがウチの自慢の若君なのです、などとは口が裂けても言えない。幸い、姫と勘違いしているようだし…と若葉は腹をくくってもう一度平伏しながら答えた。
「こちらは、兼長さまの一の姫さまでございます」
 ふああと大きな欠伸をした馨君を見て、やっぱり…と惟彰は頬を緩ませた。水良も庭を走り回って眠くなったのか、惟彰の袖をつかんでうつらうつらしている。
「ありがとう、芳姫。またいずれ」
 それだけ言うと、惟彰は今度は手に持っていた芳姫の白い袿ごと水良をだっこして歩き出した。まだ元服(げんぷく)前の角髪結いなのに、男前の上がった後ろ姿に惚れ惚れしてから惟彰の姿が見えなくなるのを確認して若葉は振り向いた。
「馨君さま!! 東宮さまは、あなたさまと二歳しかお変わりになられませんのにっ!」
「え、そうなの?」
 若葉の大声で目が覚めたのか、それでも何が起こったのかも分からないまま返事をすると、土で汚れた袴と汗衫をたくし上げてから馨君はあっと声を上げた。何ですか。馨君の手を逃げないようにガッチリつかんで若葉が尋ねると、馨君は若葉を見上げて情けない声を上げた。
「袿、持ってかれちゃった。さっきのヤツに」
「ホントですか? ヤだわ、どうしましょう」
 その格好、どうなさったんですか。呆れたように尋ねた若葉に馨君は若葉の手を握りしめて、姫と交換したとあどけなく答えた。え!? 青ざめた若葉を見上げてきょとんとした馨君の手を引くと、若葉はヤバイ!と自分の袿をたくし上げて寝殿へ向かって駆け出した。
 
(c)渡辺キリ