玻璃の器
 
「水良の母宮さまがお亡くなりになった時」
 自分の大きな腹をなでると、目を伏せて絢子は扇を開いたり閉じたりしながら兼長へ視線を移した。二人を隔てていた几帳は、小声で話せるようにすでに王命婦によって取り払われていた。
 水良さまの母宮というと、先々帝の五の宮さまか。頭を巡らせて、兼長はふむと顎をなでた。母方の権力が物を言うこの時代だが、やはり一番よい血筋は帝直系の宮腹で、特に今の主上と後見のしっかりとした先々帝の宮姫の子である水良は、本来ならば惟彰よりも東宮にふさわしいと言えた。しかし、子を産んだ後すぐに死んだ水良の母と懇意にしていた絢子が水良を引き取り、そのまま後見人となると、水良の祖父に当たる先帝、現在の白梅院の希望もあり、惟彰を東宮として立太子することになったのだった。
 義母を後見人とする水良が、年上の惟彰を差し置いて東宮となった場合、反対に惟彰を擁立しようという動きがあるかもしれない。二分した権力は、世の平穏のためにならないというのが白梅院の考えだった。
 そうして、惟彰が東宮になってから、一年余りが過ぎた。
 絢子の二度目の懐妊が分かり、里下がりが決まった頃。
「私が内裏を留守にする間、私と兄上が立場を利用して惟彰を強引に東宮に立てたと噂を流し、水良を東宮として改めて立てようとする動きがあると分かったのです」
「バカな…惟彰さまが東宮に立ったのは、他ならぬ主上のご尊意でもあらせられるのに」
「そのようなことは、後から何とでも言えます」
「…誰が中心なのか、女御さまは」
 低い声で静かに問う兼長に、バラリと扇を開いて絢子はしばらく黙り込んだ。
 目を伏せて、それから長いため息をつく。
「…今はまだはっきりとは分かりません。けれど私が内裏にいない今、水良を一人にしたくないのです」
「それでは」
「惟彰も連れてくれば、ただのお忍びとして警戒されずに内裏を出られましょう。兄上、お願いでございます…水良をここに、せめて私が内裏に戻るまでは水良も共にここで見守らせていただけませんか。一時の別れは辛くとも、それが惟彰と水良のためと主上も仰せでございます」
 伏して…伏して頼みます。そう言って、絢子は扇を床に置いて頭を下げた。女御さま! あわててその産み月の体を支えると、兼長は一歩下がって平伏した。
「女御さまの願いは私の願い。ましてや主上のご尊意とあれば、何を拒む理由がありましょう。この兼長、春宮さま同様、実の甥とも思って喜んで水良さまをお迎えいたしますぞ」
「…ありがとう、兄上」
 伏せていた目を上げると、絢子は心底ホッとしたように息をついて顔をほころばせた。その時、先触れの女房が衣擦れの音をたてて廂に現れた。兼長さま。落ち着いた声に兼長が平静を装って何だと尋ねると、一の君さまが藤壺さまにお目通りしたいといらしておられますと女房が答えた。
「あら、やっとお顔拝見?」
 笑って言った絢子を見て、兼長もホッとしたように円座に座り直した。王も楽しみにしておりました。絢子のそばに控えていた王命婦が笑うと、本当にと答えて絢子は扇を拾って広げた。
「一の君さまにござります」
「お初にお目にかかります。藤壺さま」
 あどけない声が響いた。ん?と兼長が驚いて振り向いた。名乗る声も高く澄んでいて、きちんと着込んだ淡青の童直衣(わらわのうし)姿で、総角(あげまき)に結った結び目に花を飾った芳姫は御簾ごしに平伏した。まだ五歳なのに、しっかりしてるわねえ。感心したようにそう言うと、絢子は目元を緩ませてお入りなさいと声をかけた。
「ちょ! ちょっと待…」
「失礼つかまつります」
 あわてた兼長の制止も聞かず、女房が開けた御簾の隙間から中へ入ると、チラリと視線を走らせてから芳姫は円座に腰を下ろした。小さな足がよいしょとあぐらを組んだ。それも普段はやらない仕草で、後ろにひっくり返りそうになってあわてて後ろにいた女房が支える。
「お、お前、何で…」
 異変に気づいた兼長が、芳姫を見て真っ青になった。ニコリとあどけない笑みを浮かべて、芳姫は絢子を見上げた。この方が、藤壺さま? 何て綺麗な人…まるで天上の方のよう。赤くなってうっとりと絢子に見とれている芳姫を、兼長があたふたと立ち上がって後ろから抱き上げた。
「ちょっとこちらへ来なさい!」
「やあん、父上! 離してえ!!」
「一の君はどうした! 姫にこんな格好をさせて…呉竹! 誰か呉竹を!!」
 ジタバタと足を動かしている芳姫を後ろから抱き上げ、御簾をめくって兼長は馨君付きの女房の名を呼んだ。だって東宮さまのお顔を見たかったの! 半べそをかきながら顔を真っ赤にして言った芳姫を見て、目を丸くして驚いていた絢子がふいにクッと笑った。
「あ…はは! あははは! 兄上、よろしいじゃございませんか。姫の童直衣もよくお似合いだわ」
「お戯れを、藤壺さま。このような姿を春宮さまにお見せなど」
 呆れたように言うと、兼長はそばにいた女房に言いつけて芳姫を寝殿で着替えさせるよう指示した。誰も気づかないほど似ている訳でもなかろうに、誰がこんなバカなことを許したのか。独り言を呟いた兼長に、絢子はまだおかしいと腹を抱えて笑いながら涙の残る目で言った。
「可愛らしい姫だこと。姫さえよければ、惟彰の所へ来てほしいわ。お年も近いし」
「滅相もございません。あれはじゃじゃ馬で、とても内裏など」
「私もじゃじゃ馬ですわよ」
 ニヤリと笑って言うと、絢子はああおかしかったと言って袖で涙を拭った。
 
(c)渡辺キリ