玻璃の器
 
 闇に梅の香りが漂ってくるようなしっとりとした庭を眺めて、その夜、藤壺女御と東宮を歓待する管弦楽の宴が催された。
 日が落ちる頃から酒やご馳走が東の対へ運ばれ、内裏の華やかさに勝るとも劣らないきらびやかさに、東宮惟彰は目を見張った。これが今をときめく藤原兼長の催す宴か。父上が頼りになさる訳だ。まだ幼いながらも背筋をピンと伸ばして集まった公達に混じって管弦を楽しんでいる惟彰を、御簾越しに見て絢子は目を細めた。
 その膝では、すでに疲れたのか水良が眠っている。
 水良は実の母の顔を覚えておらず、絢子を母同然に慕っている。それがまた不憫を誘った。権力者の娘とはいえ、作法のうるさい内裏に入内した絢子にとって、ただ一人、いつもおっとりと優しくはかなげに笑っていた水良の母宮だけが共にいて心安らげる友人だった。優しい所は母親に似たのね。産み月で腹の大きな絢子を子供ながらに何かと庇う水良を、絢子は我が子とも、そして惟彰の実弟とも思っていた。
 理知的で落ち着いた惟彰と、優しくて誰からも好かれる水良、この二人が仲良く協力し合ってくれることが、絢子の望みだった。特に陰謀渦巻く内裏では、皆が便宜を図ろうと画策している。
「あら?」
 ふいにざわめきが消え、迦陵頻(かりょうびん)の装束を身につけた童が四人、雅な足取りで庭先へと出て来た。そのうちの一人は特に体が小さく、水良と同じほどにも見えた。可愛らしいわねえ。絢子が言うと、そばにいた女房の一人がゆったりと微笑みながら答えた。
「あの一番小柄でいらっしゃる方が、一の君さま、馨君さまでございます」
「そうなの!? まだ五歳でしょ、舞を舞うには年若すぎるんじゃないの?」
「どうぞご覧遊ばしませ。一の君さまの童舞は、さしずめ鳥が舞い降りたように軽やかでございますので」
 庭に作られた高台に、四人の鳥姿の童が上がった。遠目にも、一番小さなはずの馨君の舞姿が一番、ゆったりと優雅で、銅拍子を打つ手も力強かった。何て美しいのかしら。思わずほうとため息をもらすと、絢子はそばにいた女房に後で姿を見せにここまで来るように言ってちょうだいと頼んでから、ふと廂に視線をやって思わず吹き出した。
「かあさま、なあに?」
 膝にしがみつくように眠っていた水良が、目を覚まして絢子を見上げた。
「いえ、何でもないのよ。宮、見てご覧なさいな。鳥の精が舞っているわよ。綺麗ね」
 絢子が水良を促すと、水良が立ち上がって絢子の肩にもたれながら廂の向こうに目を凝らした。それは子供の目にも息を飲むような美しさで、ホントだと感心したように呟いて水良は絢子に言った。
「もっと近くで見たい」
「いいわよ、兄宮さまの所へ行ってらっしゃい。ほら、あそこでポカンと口を開けて見てるでしょ」
 呆然と鳥の舞に見とれている惟彰の顔がおかしくて、絢子が笑いながら言うと、水良は小さな手で御簾を持ち上げて兄の元へ走った。トテトテと駆けて惟彰のそばに立つと、馨君の舞姿に吸いつくように視線を向けていた惟彰がようやく我に返って水良を見た。
「ああ、水良か。おいで」
 惟彰が水良の体を引き寄せると、水良は惟彰の肩に手を回してまた高台を見上げた。ろうそくの火の揺らめきの中、高台の上で舞を踊る馨君の大きな目と赤い唇は一際美しく、幼子のはずなのに芳しく色香を放っていた。将来、どんな公達にお育ちになるのでしょうな。ふいによく通る低い声が響いて惟彰が振り返ると、一人置いて向こうに座っていた、紫に淡青をかさねた壺菫の直衣(のうし)を身につけた年若い男が目を細めてこちらを見ていた。
「あ…」
 見たことのある顔に惟彰が反応すると、男はゆったりと頭を下げた。
「柾目でございます。お久しゅうございます」
 柾目は式部卿宮の一の宮で、今は主上の侍従をしていて惟彰とも内裏でよく顔を合わせた。元服を済ませたばかりだというのに、柾目は大人が着る直衣をすでに上手く着こなしていた。確か父上の年の離れた従弟だったかな…思い出して惟彰も頭を下げると、水良もそれを真似てペコリと頭を下げた。
「一番小さな童は、権大納言どのの姫ですか?」
 惟彰がゆったりとした仕草で扇を向けると、柾目は笑みを浮かべてああと答えた。
「あの愛らしさでは、姫と言ってもみな信じるでしょうね。あれはおそらく、この家の一の君、馨君どのですよ。先ほど女房たちが話しておりましたから」
「馨君? あの…それでは、この家の姫君は…妹御は、さぞかし馨君に似ていらっしゃるのでしょうね」
 昼間見た姿形そのままの馨君を見上げて惟彰が言うと、水良もつられてまた高台を見上げた。さあ、似ているという噂を聞いたこともありますがと呟いて、それから柾目はニヤリと笑って惟彰を見た。
「どちらも雛人形よりも愛らしいお顔立ちとか。本当に権大納言どののお種かと、みな噂しておりますよ。最も一の君は、祖母君の二条の方に似ておられると耳にしたことがありますが」
 柾目の言葉に惟彰が軽く息をつくと、柾目は扇を玩びながら終わりに近づいた童舞を眺めて口を開いた。
「まだ五歳と聞きましたが…次代の主上の覚えめでたき権大納言家の一の君とは。羨ましいほどの綺羅綺羅しさです。私もあやかりたいものだ」
「…柾目どのとて、お父上は式部卿宮。中納言行忠どのの一の姫とのご婚礼が決まっているのでしょう」
 会話にどことなくぎこちなさを感じて、惟彰が慎重に言葉を選んで答えると、柾目はふと惟彰から視線をそらした。
「春宮さまは耳聡い方ですな。ありがたいことに、一の姫とは石山詣でのご縁がありましたのでね」
 素っ気なく言うと、柾目は手に持っていた扇を開いたり閉じたりしながら横目で惟彰を見た。何を考えているのか分かりにくい人だな…思わず水良を抱き寄せて惟彰が眉をひそめると、舞が終わったようですよと呟いて柾目は高台から降りてくる童たちに視線を向けた。
 
(c)渡辺キリ