玻璃の器
 

「お初に…めにあかります、藤壺さま」
 途中でセリフを忘れ、適当にごにょりと言葉をにごして馨君が大声で挨拶した。さっきまでの大人びた舞姿とは打って変わって、その姿はどこからどう見ても無邪気な子供で、あちゃあと額を押さえた兼長には構わず絢子はにこにこと目を細めて脇息にもたれた。
「素敵な舞をありがとう。お上手ね、誰に習ったの?」
「えっとー、舞は三篤と五尭に習ったの。三篤と五尭はうたりょうに勤めてるの」
「雅楽寮の源三篤どのと、紀五尭実頼どのでございます。私の方から特別にお願いして…」
「あのね、三篤には歌も習ったの」
 子供の話では分かるまいと兼長が口を挟むと、馨君はその説明も待てないとでも言いたげな急いた口調で話を続けた。
「まあ、もう歌も? すごいのね。それは漢籍かしら、それとも和歌?」
 絢子が尋ねると、まだ鳥の舞の衣装を身につけた馨君は、その重さによいしょとかけ声をかけて小さな足であぐらを組んだ。
「やまと歌。三篤は漢詩よりもやまと歌の方が好きなんだって」
「どんな歌を歌えるのか、聞かせてもらえる?」
「…今すぐはムリ」
 恥ずかしげに目を伏せて馨君が呟くと、絢子はあははと笑ってそれから扇で几帳の端をちょいと持ち上げた。自分の母親は決してしない…深窓の姫ならば絶対にしない行動に、馨君が驚いてポカンと口を開いて絢子を見上げた。目が合うと、艶やかに笑みを浮かべて、絢子は女房に何か囁いてから馨君を見つめた。
「母上!」
 さっきまで几帳のそばに座って馨君に見とれていた惟彰が、思わず腰を上げた。すごく綺麗な人。馨君が真っ赤になってうっとりと絢子に見とれていると、さっき絢子に何か言いつけられた女房が戻って来て、美しい鳥の蒔絵のついた硯箱と紅梅の枝を絢子の脇に置いた。
「このお歌はね、さっきの舞のお礼よ」
 そう言って、女房に墨をすらせ、絢子は大らかな筆蹟で紅梅の紙に歌をかきつけた。

  花馨る枝に羽音のたちにけり 鳴くや鶯 幾年の春

 しばらくして目の前に差し出された結び文と紅梅の枝は、馨君が初めてもらった文だった。お礼! 小さな声で父親らしく兼長が囁くと、弾かれたように驚いて馨君はありがとうございますと高い声で言った。それから、その場にいた皆の心をさらうような愛らしい笑顔を浮かべると、嬉しそうに梅の枝に結ばれた文を手に取った。

 
(c)渡辺キリ