玻璃の器
 
 次の日、太陽が高く上がってから、水良が廂で遊ぶ声で惟彰は目を覚ました。
「兄上、ほら」
 水良にだっこされてだらんと後ろ足が下がった子猫が、もう諦めたのかされるがまま観念したように目を細めていた。女房に手伝ってもらいながら着替えていた惟彰は、ブッと吹き出して笑った。
「鈴がついてる。ここの猫かな」
 また水良の手からするりと抜けて、一目散に駆け出した子猫を水良が待て!と言って追いかけていった。寝殿で飼っている猫、鳥辺でございます。朝食の準備をしていた女房が膳を運びながら声をかけた。猫なのに鳥…食い合わせじゃないだろうか。まだ半分寝ぼけながら朝食を済ませると、惟彰はまず、内裏へ出かけた兼長の代わりに北の方に挨拶をしようと寝殿へ向かった。
「兼長どののおかげで、楽しい一夜を過ごせました。ありがとうございます」
 惟彰が夕べの礼を簡潔に述べると、几帳からはみ出している衣がズズズと動いた。ボソボソと小声で何か言う気配がして、北の方付きの女房が声も高らかに返事をした。
「北の方さまは、それはようございました、東宮さまにお目通りいただいて光栄至極にございますと仰せです」
 うわあ、普通の貴族の姫君だ。破天荒な母の藤壺女御とはあまりにも違う、絵巻物に出てくるしとやかな姫のような兼長の北の方に、惟彰は感動して目を潤ませた。母上もこのようになさって下さったら、私がお小言を言わずとも済むのに。夕べの管弦の宴の素晴らしさを褒めちぎった後、お泊め頂きありがとうございましたとにこやかに言ってから、ふと気づいて惟彰は尋ねた。
「あの、東の対屋で猫を見かけたのですが…北の方さまの猫ですか? 鈴をつけた、鳥辺という名の」
「あれはアタシの猫よ!」
 ふいにかん高い声が響いた。ドキッとして惟彰が腰を浮かすと、姫は殿方と直接しゃべっちゃダメ!と叱る声が続いて聞こえた。
「姫? 芳姫ですか?」
 真っ赤になって惟彰が尋ねると、小さな手が几帳の隙間からギュッと布の端をつかんだ。初めから潜んでいたのか。何かおかしなことは言わなかっただろうか。珍しく慌てふためいて惟彰が固まっていると、その小さな手を引っ込めさせ、ジタバタする姫を抱きかかえて若い女房が隣の間に駆け込んだ。昨日の桜のかさねの正装とは違い、山吹の細長(ほそなが)を着ているのがちらりと見えた。バクバクする胸を押さえて、惟彰がようやくほっと腰を下ろすと、北の方がまた扇を開いてそばにいた女房に耳打ちした。
「北の方さまは、お恥ずかしい所をお見せいたしました、今のが一の姫でございますと仰せです」
やっぱり、あれは芳姫だったんだ。思わず頬をほころばせて、垣間見た後ろ姿をしっかりと記憶に焼きつけながら、可愛らしい姫ですねと言って惟彰は目を細めた。いつかまた会えるだろうか。四歳じゃ返事は無理だろうけど、内裏に帰ったら文を書こう…。ませたことを考えながらニコニコと笑うと、惟彰は兼長どのによろしくと付け加えた。
 
(c)渡辺キリ