玻璃の器
 
 先に内裏へ戻ると知ったら水良が泣くだろうと、水良が猫と遊んでいるうちに惟彰は王命婦と共に牛車で三条邸を出た。
 そうとは知らず、必死の形相で逃げる猫を追っている間に寝殿へ入り込んだ水良は、聞いたことのある声に気づいてそろそろと廂から中を覗いた。そこでは昨日、庭で出会った女童が女房と共にそばにいる若君を叱り飛ばしていた。早く返歌なさいませんと、失礼ですよ。どうやら歌と手(て)が上手い女房が、馨君に字と歌の指導をしているらしかった。
「だって…思いつかないんだもん」
 絢子から歌をもらった嬉しさは一変し、返歌返歌とうるさい女房たちにげんなりして馨君は立ち上がった。昨日は女の子だったのに、何で今日は男の子なんだろう。怪訝そうに黙って馨君を見ている水良には気づかず、馨君はまた後で!と言ってバタバタと廂へ飛び出した。
「あ!」
 そこにいた水良が驚いて馨君を見上げると、馨君は水良に気づいて真っ赤になった。こいつ、昨日のヤツだ。惟彰と水良に会ってから、後で若葉から話を聞いた呉竹から、あれは東宮さまと弟宮さまですよとこってり怒られたのだ。おかげで今日の馨君はご機嫌ナナメだった。水良にしてみれば、とんだとばっちりなのだが。
「お前とは遊んであげない!」
 人生で初めて意地悪な言葉を投げかけられて、意味が分からずに驚いて水良は目をぱちくりとさせた。お待ち下さいませ! 兼長から馨君に返歌を書かせるよう言いつけられていた中年の女房が、お世辞にも美しいとは言いがたい形相で馨君を追いかけた。馨君に暴言を吐かれた上に、内裏ではあり得ない女房のドタバタぶりを見せられ、水良がうっと言葉を詰まらせていると、若葉が廂に出て来て水良の前に膝をついた。
「弟宮さまではありませんか。今日はいかがされたのですか?」
 ドタバタには慣れている若葉が平然とにこやかに笑いながら尋ねると、水良はやっと落ち着いておっとりと答えた。
「猫を追いかけて来たら、声がしたんだ」
「今日もお一人ですか? ここには殿上童(てんじょうわらわ)もおりませんものねえ…若君さまの乳兄弟も、なあんか小うるさいばっかりで、遊んで楽しい子とは言えないし。若葉が遊んで差し上げたいのですけれども、今、ちょっと手が離せなくて」
 今っていうか、ずうっとなんだけど。手のかかる若君を思うとため息をついて、若葉はそうだ!と言って立ち上がった。
「芳姫さまなら、弟宮さまと同じ年ですし、きっと遊んで下さりますわよ」
「女の子の遊びはつまんない」
「大丈夫大丈夫。芳姫さまは中身は女の子じゃありませんから。水良さまが追って来た猫も、多分、芳姫さまの鳥辺という猫ですわよ。さ、参りましょ」
 そう言って昨日と同じように水良の手を引くと、若葉は歩き出した。きっといい遊び友達になるわ。ちょっとおてんばすぎるのが玉にキズだけど。馨君が行ってしまった方を見ながらまだ怪訝そうな顔をしている水良を連れて、年上で背の高い若葉は小さな水良の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
 子供とはいえ高麗縁(こうらいべり)、芳姫の所へ来た水良に上座を譲った芳姫は、好奇心旺盛な表情でマジマジと水良を見つめた。さっき母上と一緒にかいま見た東宮さまとはちっとも似てないわ。ボーッとしてるし。幼子同士の遠慮のなさで几帳なしに対面している二人を見ると、若葉はそばにいた女房に、遊んだ後は東の対へ送って行くように、それから東の対の女房に水良がここにいることを伝えるように告げてから下がって行った。
 ポツンと知らない者の中に置かれても物怖じせず、物珍しそうに脇息の模様を見ている水良に、芳姫はニッと笑って立ち上がった。兄上は最近、勉強勉強でちっとも遊んでくれないし、ちょうどいいわ。そのまま表着を脱いでててっと走ると、単衣に袴姿で芳姫は水良の手を引っ張った。
「外行く? それとも中で遊ぶ?」
「外」
 芳姫を見上げて水良が答えると、芳姫は庭に出ようと笑って水良の手を引いたまま外へ飛び出した。お待ち下さりませ! お付きの女童の小霧と女房の数人が、慌てたように二人の後を追いかけた。
 
(c)渡辺キリ