玻璃の器
 
 三条邸の小さな王女に、気に登らされたり踏み台にされたり池に突き落とされたりしている間に、世の中は競争社会だということを少しだけ理解した水良は、頭からずぶぬれになってくしゃみを連発し、慌てた女房たちから馨君の童水干(わらわすいかん)に着替えさせられた。
 東の対に戻るとすでに、兄惟彰の姿はなく、兄上は?と無邪気な表情で絢子に尋ねた水良に、絢子は困ったように兄上は内裏へお戻りになったのよと答えた。
「じゃあ、いつここに帰って来るの? ゆうげを食べたら来る?」
 水良が尋ねると、絢子は届いたばかりで手に持っていた馨君からの返歌を折ったり開いたりしながら答えた。
「兄上が次に来るのは、このお腹に入っている赤子が生まれてからなのよ、水良」
「え…だって、じゃあ水良はいつだいりに帰れるの?」
「…」
 絢子が口をつぐむと、水良は一瞬、くしゃりと顔を歪めた。頬がみるみる内に真っ赤になって、水良がふいにうああああんと声を上げて泣き出した。そばに控えていた女房たちが慌てて水良を抱き上げようとするのを制して、絢子は水良の手を優しくつかんだ。
「水良、兄上は内裏で、しなければいけないことがたくさんあるのよ」
「いやあだあ! じゃあ水良もだいりに帰るう!」
「水良には、私のそばにいてほしいの」
 諭すように言うと、絢子は泣き続けている水良を柔らかく抱き寄せた。水良は兄上のことが大好きだものね。ポンポンと背中を優しくあやしながら絢子が囁くと、わああんと泣きながら水良は絢子の肩に抱きついた。ごめんね、生まれてからずっと兄上と一緒にいたものね、心細いよね。水良が泣いている間、ずっと水良の背中をなでていると、しばらくして落ち着いたのかひっくひっくと声を上げて水良が絢子の袖を小さな手でつかんだ。
「いっ…いつになったら赤子はここから出て来るの?」
 水良が絢子の大きな腹をなでながら尋ねると、絢子はホッとしてもうすぐ出てくるわよと答えた。
「もうすぐって、明日?」
「明日はムリねえ。でも、桜が咲くまでには出てくると思うわ…そうだわ、水良も」
「ん?」
「ここにいる間に、水良も馨君みたいに、歌の練習や字の練習をしてみたらどう? ほら、さっき馨君からお文をいただいたのよ」
 淡青の紙に女房の機転で香を焚きしめ、下手くそな手で歌を書きつけた文を広げると、水良を抱いて絢子はそれを眺めた。馨君の字はどこか目を惹くような力強さがあって、泣くのも忘れて絢子につられて文を見ると、水良は怪訝そうに眉をひそめて尋ねた。
「何て書いてあるの?」
「これはね、昨日お手紙を下さってありがとうございます。主上の赤ちゃんが生まれて来るのを今から楽しみにしていますって書いてあるの。水良も字の勉強をしたら読めるようになるわよ」
 下手くそな歌を大幅解釈して、絢子が答えた。とてもそう書いてあるようには思えない絵文字のような筆蹟を眺め、水良は泣いた後の鼻水でベタベタの手で文をつかんだ。水良も兄上に書く。そう言ってようやくほがらかに笑うと、水良はまた不思議そうな表情で文をジッと見つめた。
 
(c)渡辺キリ