Der Vorleser 2
今日の何が悪かったかと言えば、運が悪かった以外の何物でもない。
休日だからと街を歩いていたら、知り合いの女の子があからさまに人相の悪い男数人に取り囲まれていた。
「何の用? 迷惑だから止めろよな」
割って入り、彼女を背に庇う。
「カリナ。大丈夫?」
彼女は頷いたが、口元できつく握った指先は小さく震えていた。
「大丈夫。だけどジョミー…」
青ざめた顔のカリナに笑ってみせると、ジョミーは相手に向き直った。
「女の子こんなに怖がらせてさ。ナンパだったら鏡見直して来いっての」
「何だとテメェ!」
「あれ、聞こえてないの。耳悪いんじゃない。おっさん」
翠の瞳が鋭く相手を睨む。
「さっさと消えろよ」
あっさり引き下がる筈もなく、男たちの表情に険悪さが増す。
「消えるのはお前の方だ!」
唸りを上げて飛んでくる拳を避ける。ジョミーの感覚ではそれほど素早い動きではないが、後ろにカリナを庇っているため、どうしても動きが制限される。囲まれたら終わりだ。
「カリナ!」
手首を掴んで走り出す。不幸中の幸いと言おうか、この辺りはよく知っている。裏道に入った。
「待ちやがれ!」
声は追いつくが遠い。距離は稼げている。予想通りガタイの大きな連中には、細くて雑多なものが積まれている路地は通りにくいようだ。
曲がり角を次々に曲がる。迂回して行き先を眩ませる。けれど、少しずつ目的地には近付いている。声は次第に小さくなる。それを繰り返し、見慣れた路地に差し掛かる。
「こっち!」
ドアを開け、中に飛び込んだ。止まった途端に汗がぶわっと吹き出した。肩でぜいぜいと息をしていると、呆れたような声が掛けられる。
「なんで裏口から入ってくんだよ、お前」
「悪い」
額を拭いながら顔を上げる。善良な人柄が滲み出ている、そばかすの浮いた顔の友人は腰に両手を当てて溜息をついていた。
「でも、サムの店がここで助かった」
「またか!」
サムは自分の額をぴしゃりと叩いて天井を仰いだ。
「言っとくけどなジョミー、この辺治安いい方だぞ。何でお前はそうトラブルばっかり拾ってくるんだ。俺の寿命は毎回縮む」
「ごめん」
「笑って誤魔化すな。ったく。しょうがねえなあ、お前そういう奴だしな。ほんと、気を付けろよ」
サムは苦笑すると、所在なげに立っていたカリナに声を掛けた。
「お嬢さん、飲み物でもどう? 走り回って疲れたろ」
「あの、でも…ご迷惑じゃ…」
「いいよ、こいつの所為で慣れてるんだ。冷たい物の方がいい?」
サムの人好きのする笑顔に、カリナはほっとして微笑んだ。
「…有り難うございます」
カリナにレモネードを、ジョミーにオレンジスカッシュを出し、サムは自分用にコーヒーを淹れて座った。
「で? どうすんだ、この後」
「もうちょっとしてからぼくだけ外に出るよ。大丈夫そうなら電話するから、カリナは帰って。電話しなかったら、サム、タクシー呼んで」
「そりゃいいけどよ。お前が大丈夫じゃなくね?」
「ぼくは大丈夫だって。あんなチンピラ、なんてことないよ」
ストローをざくりと氷の真ん中に刺すと、ジョミーは音を立ててオレンジスカッシュを吸い上げる。カリナは表情を曇らせた。
「ジョミー、相手は大勢だもの、危ないわ。タクシー呼んで二人で帰りましょう」
「俺もそっちに賛成」
「ほとぼり冷めるまでこの辺来れないの、困るんだよ。稽古場にも行けやしない」
二人は心配したが大丈夫だと笑って、ジョミーは一時間後、表口から堂々とサムの店を出た。
大通りを歩いていると、剣呑な気配がした。後ろに一人、ぴったりとついてくる足音がある。それが一つずつ増えてゆく。ジョミーは小さくため息をつき、足を止めた。くるりと振り返る。
「随分増えてるけど、何の用だ」
三人だったのが六人になっている。
「さっきの礼をさせて貰おう」
ジョミーは肩を竦めて鼻で笑う。
「陳腐な台詞。オリジナリティーで減点」
どうやら、この辺では滅多にお目にかからない、タチの悪い連中だったらしい。カリナの危機に間に合って良かったと、今更ながらにほっとした。
男の内の一人が、無言で路地を指さした。
「嫌だと言ったら?」
じりっと距離を詰められる。背後を取られる前に動く。建物を背にして、拳を握る。
先頭の男が気勢を上げて殴りかかってきた。身を沈めてパンチを避け、素早く身を起こすと懐に飛び込み、腹に膝蹴りを叩き込む。呻き声がして大柄な身体が倒れた。それを見下ろし、怯んで足を止めた連中に視線を流す。
「さっさと仲間を連れて帰ったら? こんな事もうしないでよね。追いかける程暇じゃないし」
「こっちの方が人数が多いんだ!」
「ああそう」
十分後、男達はアスファルトを枕に気を失っていた。
「ったく、しつこい。風邪引かないうちに帰りなよ、おじさん達」
人集りを掻き分けて、さっさとその場を離れる。十字路を曲がってから来た方向を覗くと、警察官が到着していた。
「あっぶなー」
取り敢えず片付いたかと、ポケットから携帯電話を取り出す。が、すぐに仕舞った。こちらに近付いてくる、似た風体の男達に気が付いたからだ。
「…暇人暴力集団かなあ」
呆れ顔でジョミーは溜息をつき、さして変わらない遣り取りにうんざりし、今度はきちんと人目のない路地に入ってから、殴りかかってきた連中を叩きのめした。
それだけで終わらず、道を行けば明らかに同系統の男達が目の前に立ち塞がる。そのうち馬鹿らしくなって人数や回数を数えるのを止めた。
「これ、何てゲームだ」
呟くと、呻いている男の襟首を掴んで引き上げる。
「ねえ、誰に言えばこれ止めてくれるのかな」
男の唇が痙攣したように震え、白目を剥いてがくりと首が仰け反った。気絶してしまったらしい。
「あ! ちょっと待てー!!」
がくがくと揺さぶってみたが、男は何だかトリップしたような微妙な笑みを浮かべて口をはくはくと開けるだけだ。
「ちょ…これじゃうちに帰れない…」
ジョミーは顔を覆って、がっくりと項垂れた。ここまで徹底的に抗戦した後で警察に駆け込む訳にも行かない。後ろを振り返れば、激闘の跡がそこかしこに残っている。横スクロールの格闘アクションを地でやらかしてしまった。
手を離されて、男が勢いよく地面に激突したが気が付かないことにする。今更だ。
「もーほんとどうしよう…」
その時、後頭部にがつんと何かが叩きつけられた。
「が…っ」
目の前が昏くなる。反射的に後ろ回し蹴りを放った。手応えはあったが、意識がそこで途切れた。
次に目を覚ました時には、椅子に座らされていた。身体と、後ろ手に回された手首にがっちり荒縄が食い込んでいる。
「うわ、変な趣味の人みたい」
げんなりとした気分で呟く。
「お気に召さないか。だが、流石に野放しにも出来ないのでね」
顔を上げると、浅黒い肌の恰幅の良すぎる男が、たっぷりした腹を揺らして笑っていた。その向こうには重厚なアンティークの書斎机があり、敷き詰められている絨毯は毛が長い。歩けばふかふかとした感触がするだろう。この男が自分で掃除をしているとも思えない。
「おっさんが元締め?」
男は目を細めた。
「肝も据わっているようだな」
じろじろと無遠慮な視線に嫌悪を感じ、男の顔を睨んだ。
「言っとくけど、手を出してきたのはそっちだ」
「まあ、そうだな」
男は含み笑いを浮かべる。
「ぼくに何の用だ。やられた部下の仕返し?」
「小僧一人にやられるような情けない部下どもの仕返しなどする筋合いはない。だが、派手にやられてそのままにもしておけん。我々にとって面子というのは商売道具でな」
「知るか、そんなの」
ジョミーが吐き捨てると、男は鷹揚に笑った。
「小僧。私の部下になれ。お前は見込みがある」
「あのねえ。ぼくは喧嘩が好きなんじゃないよ。あんた達みたいなのの仲間なんて死んでもごめんだ」
「どうしてもか」
「当たり前だろ」
暫し睨み合い、男は大袈裟に溜息をついた。
「本当に死ぬまで気が変わらんだろうな。たまにいる、厄介なタイプだ」
「分かったらさっさと解いてよ」
「そうはいかん」
ソーセージのような指がぬっと伸びて、ジョミーの顎を掴む。
「綺麗な顔をしている。見目のいい人間は見慣れているが、水準以上だな。商品としては十二分以上と言ったところか」
首を振って振り払うと、男は低く笑った。
「人生、程々のところで折れることも大事だと思い知ることになるだろう。精々可愛がってくれる主人に買われることを祈るんだな」
「…で、薬かがされて、目が覚めたら商品控え室? みたいなとこで。無理矢理こんな格好に着替えさせられて、あんなとこで値段を付けられる羽目になった訳です」
一通り話して、ジョミーはコップの水をごくりと飲んだ。聴き入っていたブルーは拍手をする。ぺこりと金色の頭が下がる。
「ご静聴、有り難うございました」
「いや、つい引き込まれてしまったよ。映画のような顛末だ」
「いいとこB級アクションだけどね。しかもバッドエンドの確率高かったかも」
苦笑すると、ジョミーは目の前に座るひとをじっと見た。レストランの個室で食事を待っており、それまでの時間潰しになるかと、ここまでの経緯を訊かれるままに話していた所だ。
連れてこられた店は、立派な内装で広いのに席が少ない。少なく見積もっても、高級店なのは間違いなかった。予約をしていた筈もないのに、恭しい態度の店員はブルーを個室に通した。馴染みの店なのだろうが、その上VIP待遇を受けている。
どういうひとなんだろうという疑問はますます大きくなる。
「あの、」
「なんだい?」
こうして差し向かいで話すと、柔らかな声は優しく響く。場を圧していたあの声と同じだが、まるで別物のようにも感じられる。
その落差が、面白いと思った。
「失礼じゃなければ、あなたのことも訊いていいですか? じいちゃんの知り合いなんですよね」
「…そうだな」
細い指が白い顎を撫でた。
「ミュウ財閥という名を、聞いたことがあるかな?」
「聞いたことがあるも何も」
ジョミーは首を傾げた。このひとの話し方は飛び方が独特だ。
ブルーの口にした財閥は、交通及び通信とITの複合企業を母体とし、古くからのもの造りの技術と、最先端の技術の両輪で様々な事業を展開している。飛行機から始まりコンピュータや時計など製造業を広く手がけ、ネットワーク網の構築と通信サービスの提供に軸足を置き、小売業や流通、金融などにも進出している。各分野でグループ企業が国際的な中核企業として知られており、世界最大規模の財閥の一つとして名が上がる財閥である。知る人ぞ知る、どころではない。また、社会福祉事業や社会貢献活動にも熱心で、一般的なイメージもいい。
「名前だけなら、聞いたことない人居ないんじゃない? ぼくの携帯も…って今持ってないけど」
「どうも有り難う」
ブルーはにこりと笑った。
「ぼくはミュウ財閥の当主だ。役職としては総帥、ということになる」
驚きの声は出なかった。あまりに驚きすぎて、頭の中が真っ白になっていたからだ。
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