Der Vorleser  3






 祖父は実業家だった。世間が言う所では一代で財を成した傑物だったが、ジョミーにはおおらかで厳しく茶目っ気のある、声と手の大きな人だという思い出があるばかりだ。既に故人である。自分とそう変わらない年齢に見える(少なくとも祖父との年齢差で考えるなら、ジョミーの方がずっと近い筈だ)ブルーが、五年前に逝った祖父を知っているというのだから、いい家柄の子息なのだろうと予想はしていた。していたが、予想の遙か上を行っていた。
 ミュウ財閥の総帥と言えば、世界の長者番付でベスト3から落ちたことがないと聞いたことがある。
「きみのお祖父様とはパーティで初めてお会いしたのだけれど、以来若輩のぼくを何かと気に掛けて下さってね」
 紅い瞳が僅かに細められ、薄い唇が柔らかな笑みを含んだ。
「きみのことも、よく聴かせて貰ったよ」
「ぼくの事?」
「うん。木に登って落ちたとか、泳ぐのに夢中になって外海に出そうになったとか」
「…うわー」
 ジョミーは片手で額を覆うと、ブルーは不思議そうに訊いてくる。
「あれ、違うかな」
 ジョミーは笑って、首を横に振る
「ううん、違ってない。そういう話、ここで聞くと思わなかったから」
 騒ぎを起こすと、祖父は拳骨を一発落としてそれからいつも大笑いをしていた。細かいことをあれこれ言うのは苦手だからと叱るのはジョミーの両親に任せていた。その後、とにかく自分の身は自分で守れと言って、木から落ちたら二度と落ちるなと木登りの特訓をし、岸から遠く離れれば遠泳をさせられた。相当な歳だった筈だが、教え方は自分が実例を示すのが基本で、木を登るのも泳ぐのも走るのも、易々とこなす人だった。
 懐かしさに気持ちが暖かくなる。
「そうか」
 ブルーは頷くと、ふわりと微笑んだ。
「偶然だけど、きみの助けになれて良かった」
「本当に、このままぼくを返す気なんですか?」
 半信半疑で訊ねると、ブルーは真剣に頷く。
「勿論だとも。一億が十億だって、きみの自由を買えるものではないよ」
 さらりと言われたが、ジョミーにはどすんと重く金額がのし掛かってきたように感じた。生活を維持するのに精一杯の人間には、生半可なことで返せる額ではない。
 だが、それは厚意として受け取るには巨大すぎる額、ということでもある。
 胆を決めて、顔を上げた。
「ぼくに何か、出来ることはありませんか」
「え?」
 紅い瞳がぱちりと瞬きをした。本気で一億をどぶに捨てる気だったらしい。
「きちんとお礼をしたいんです。お願いします」
 頭を下げると、ブルーは慌てて、止めてくれと言った。
「ぼくが勝手にしたことだ。その言葉だけで十分だよ。強いて言うなら、このまま夕食を付き合ってくれれば嬉しいな」
「…そう言って貰えるのは有り難いけど、恩を受けたらとことん返せっていうのがうちの家訓なんです。じいちゃんに怒られちゃうよ」
「それを言うなら、ぼくはきみのお祖父様に受けた恩を結局少しもお返しできなかった。その分を受け取ってくれないかな」
「それはそれで、これはこれです。じいちゃんは多分、別に返してもらうつもりでやった事じゃないって言うよ」
 ブルーは困り顔で唸る。
「…確かに言いそうだけど、ぼくとしても収まりがつかないんだ」
「じいちゃんにお金借りてたって言うなら分かるけど、あなたの助けになったのはぼくじゃないし、ぼくはあなたに助けられたから。ここは絶対譲りません」
 真っ直ぐに見詰めてくる翠の瞳に負けたように、ブルーは溜息をついた。
「頑固だな…」
 ジョミーはにっこりと笑った。
「血筋です」
 ブルーは苦笑した。
「…考えるよ。とにかく食事にしようか。メニューをもらおう」
 背後に控えていたギャルソンが恭しく革張りのメニューを差し出した。
「食前酒はどうする? 食べたい物はあるかい?」
 どうやらフルコースの料理を想定しているようだが、当たり前のように単品注文。コース料理は頼まない、らしい。メニューを見てみるが、値段は一切書いていない。ジョミーはメニューをギャルソンに返した。
「お任せします」
「そうか。白と赤はどっちが好きかな。軽めの物で構わないかい?」
「えと、じゃあ赤で」
「分かった」
 ブルーはギャルソンに本日のお勧めを訊き、話しながらてきぱきとメニューを決めた。
 程なく料理が運ばれてくる。彩りも美しく盛りつけられた前菜と、グラスに注がれた芳醇な香りのワインに、ジョミーは苦笑いをする。別世界にいるようだ。
「嫌いなものがあるかい?」
「いえ。なんていうか、美味しそうすぎて気後れしちゃうかなって」
「気後れ?」
 首を傾げるブルーには分からないだろう。店の様子や、見るからに手の込んでいる料理に、つい値段を想像してしまう。もっとも、想像しきれないので早々に諦めたが。
(ここまで来るともう、額の問題じゃないけど)
 ジョミーは内心で溜息をついた。
 そしてやはりそんなこととは思いもしないということを実証するように、ブルーは口を開いた。
「何に気後れすることがある? きみはどこにいてもきみだし、何と比べても見劣りなどしないよ。それどころか、誰と比べてもきみが秀でている」
 真顔で言うそのひとは、それこそジョミーが今まで見た誰よりも綺麗だ。白皙の肌に白銀の髪、すらりとした鼻梁、細い顎、薄く色付いた形のいい唇。何より意志を宿して強く輝く紅い瞳。天与の美貌なるものが実在するのだと、つくづく畏れ入る。
 そんなブルーに断言されて、ジョミーは赤面した。
「えー…と、そういう事じゃないんだけど…」
「それとも服のことかな? よく似合っていると思うけど」
「服…」
 ジョミーはげんなりと、肩を落として溜息をついた。
「似合ってるって、それ本気? こんなひらひらと無駄に色々付いちゃって…友達が見たら絶対大笑いだよ」
 肩を竦め、胸元の飾りのフリルをべろりと捲る。その手首にもレースが揺れていて取り敢えず笑うしかない。
 ブルーはそれには頷かなかった。
「何故笑うのかな。シャツだけというのは頂けないが礼装用の品だし、仕立てもきちんとしているよ」
 そう言ってから、顎に手を遣って考え込んだ。
「…そうだな、その格好で往来に出す訳にも行かないか。何か支度をさせよう」
 控えている人間に指示を出そうとするブルーを慌てて制止する。
「いや! もういいです!!」
「そう?」
「これで充分ですから!」
「分かった」
 話せば話す程墓穴を掘るような気がして、目の前の食事に目を向ける。ジョミーの前にあるのは生ハムとアスパラの薄切りにソースがかかっているものだ。それが円を描くように美しく配置されている。皿を置くときに料理名を言われたが、長くて覚えきれなかった。フォークを手に取ったものの、果たしてこの絵画のような調和を崩していいものかと迷ってしまう。
 眺めてばかりもいられないので、口に運ぶ。茹でたアスパラの青身の強い味に塩の利いたソースが絡まり、野菜の甘みを引き立てている。
「おいしい」
 純粋な感想を口にする。ここに至るまでの経緯が吹き飛んだ。
「良かった。遠慮しないで食べてくれ」
 ブルーはとても嬉しそうに笑った。