10月も終盤に近づき、冷たく乾いた風がほんのりと、終わりかけの金木犀の優しい香りを運んでいた。

あれから綾太(りょうた)と悪魔の戦いは幾度となく続いていた。
最初の頃は嫌々ながらの出撃ではあったが、何度も人々の命を助け感謝されるたびに、徐々に使命感に燃え始めていた。
勿論、万事順調だったわけではない。
5日間ほど、悪魔に連日のように出てこられた後は、綾太の危ういほどの若さを以てしても、
エネルギーの消耗が激しすぎて2日間ほど寝込んだ。
また、悪魔の攻撃で受けたダメージをバイオアーマーが吸収しきれず、白く細い肢体を血で赤く染めたこともあった。
傷ついて帰るたび、「もしや、いじめられているのでは?」と、母に余計なを心配させた。

だがその繊細なイメージとは裏腹に、その肉体の何処から湧き起こるのか分からぬ生命力と情熱で、
子役タレントとして引き受けた仕事を休むことなく両立していた。
ただ、悪魔との闘いがいつまで続くのか? それだけが漠然とした不安だった。

ある日からぴたりと悪魔の出現が止まった。
災いも起こらず、平穏な日常が戻ってきたかのように見えた。
一部メディアには、『既に兜童子が悪魔をやっつけてくれたのではないか』という話まで出る始末だ。
けれど綾太だけは知っていた・・・悪魔は隠れて息を潜めているだけで、決して死んでなどいないということを。

ただ、少しばかり安息の時間を与えられたという意味では貴重だった。
先日、新斗の小学生最後の試合を見に行く余裕ができたのも、そのお陰だったのだから。






職員室前の廊下には八重歯を見せ、見る者に微笑みかける都築綾太の顔が並んでいた。

『みんな仲間 いじめを根絶しよう!』

県教育委員会が全県下の各学校に配布しているポスターだ。

親しみやすい中にも落ち着いたイメージが受けて、官公庁のポスター、大企業のコマーシャルなど通し、知名度も上昇中の綾太。
去る体育祭では、体操着姿の綾太とその身体能力を見ようと、記録的な数の見物人やマスコミが押しかけた。
衆目の被曝に晒され続けるのも楽ではない。
視線は八方にあるから、うっかりトイレにも行けない。



紺の制服ブレザーに黒いズボン。左手首には銀色に輝くリストバンド。
特段変わった格好をしているわけではないのだが、綾太が廊下を歩いているだけで誰もが振り返る。
初めて見る顔に手を振られたり、触られたり、握手を求められたり・・・まるで綾太と古い付き合いであるかのように。
中には、知人親戚に「【自称】都築綾太の友達」として申告している輩がかなり含まれているに違いない。


「綾太ー、これ、たまったプリント」

帰りの学活が終わり教室から出ようとすると、クラス委員の宮脇千尋(みやわき ちひろ)が駆け寄ってくる。
2学期に入り、学校を早退したり、休んだりが増えている綾太。
仕事に加え、悪魔との戦いに駆りだされるため・・・その場合も大抵、体調不良や急な仕事を口実にしているのだが・・・
どうしても学校にいる時間は短くなる。
綾太が学校にあまり来ないことは、先生たちも黙認する公然の秘密となりつつあり、
所属しているはずの陸上部も事実上、免除され幽霊部員と化している。
それは授業に出なくても定期テストや実力テストで高得点を維持している綾太の努力の賜物だが、
たまには日頃の罪滅ぼしに、頼まれれば啓発ポスターにノーギャラで登場してみたりもする。

ともあれ綾太が学校に来る時間が少なくなると、その連絡役は千尋に回ってくる。
千尋と綾太の付き合いは古い。
3歳の頃、綾太がこの町に移り住んでから近所同士、同い年の千尋との縁が始まった。
つまり子役デビューする前からの仲だから、気心も知れている。


「・・・ったく、またお仕事?」

「うん、またお仕事」


千尋は小学生の頃は大して目立たなかったが、中学生になり、急に綺麗になった気がする。
真面目な少女ではあるが流行に敏感で、早速、首都で流行り始めた「ルーズソックス」を履いている。


綾太が千尋から伝達事項を聞いていると、1年生ではない影が二人、教室に入ってきた。

「あー、いたいた。都築綾太!」

先日の生徒会役員選で改選された、1コ上の先輩で生徒会長の西城輝久と、副会長の富岡信子だ。
富岡は千尋の、同じバドミントン部の先輩でもある。

「僕に何か御用ですか?」

早退や欠席が多いことについて、何か言われるのではないかと身構える綾太。


西城から出たのは意外な言葉だった。

「都築君、生徒会やらない?」

「役員に立候補しろとは言わないわよ? ただ、広告塔になってほしいなーって」

富岡がポスターを指差す。


思わず千尋の顔を見る綾太。
「や・め・と・き」と、目で語る千尋。
ただでさえ人手のない生徒会だ。
ヘタに首を突っ込んだら手伝わされるのは目に見えている。
あわよくば都築と近づいてコネをつくりたい。そんなところだろう。


だが、面と向かって「イヤです」と断ることには躊躇してしまう綾太。
人気商売だから相手に悪印象を与えたくないという意識もあるが、
波風立てず穏便に事を収めようとする性格は、明晰な頭脳とともに父親から受け継いだ部分でもある。



(あんたって本当、変なところで生真面目よねえー。はっきりと断っちゃいなさいよ)

鬼の腕輪が言う。

(そうだね。あっさり断れるなら今頃、僕は君といないだろうね)

無言でリストバンドを外そうとする綾太。

(・・・ちょっ・・・それは困ります。・・・あ〜〜〜待って〜〜)


二人が綾太の返答を待っている。
綾太は両先輩のほうに向き直った。


「お仕事のご依頼でしたら、事務所を通してください」


八重歯を見せて悩殺モノの笑顔爆弾を落とすと、宮脇の手を引いて教室を飛び出した。


「あっ、こら!廊下は静かに・・・」

「待って〜〜!都築く〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん」

制止しようとする生徒会の二人。
床にばさっと舞い散らばるプリントにも目もくれず、駆けていく綾太と千尋。

「ちょっと綾太!どこへ行くのよ?」

「まだ君との話が済んでなかっただろ?邪魔の入らないところへ行こう」


千尋を連れてきたのは、共犯に仕立て上げることで生徒会の手先化しないようにするための、
とっさの綾太なりの判断だったのだが、手を引かれる千尋はまんざらでもない様子だ。

みんなの憧れの綾太が・・・あたしをさらって走ってくの!
みんな見てるみんな見てるみんな見てる・・・ああ夢のよう!


何とか逃げ切った二人が亡命先として辿り着いたのは、4階建ての校舎の屋上だった。

ちょっと・・・こんなところで二人っきりって・・・綾太、なんのつもり?
どきどきどき。


綾太が金網に掴まってグラウンドを見下ろすと、部活が始まっていた。
冷たい風に髪を靡(なび)かせ、細い背中の後ろに佇む千尋。

綾太のおしり、小さいんだ・・・。
おち◎ちんはどうなってるんだろ・・・・。
エッチのときはどんな顔するのかな?

乙女の審美眼が、キュートに締まった腰の当たりを見定めている。
保健の授業で見た男性器の構造図が浮かぶ。


「ねえ、宮脇?」

はい?なぁに、綾太。

「こうして二人っきりになるのも久しぶりだね」

何が言いたいの?

赤い夕日に染まる白い顔が振り返った。

「ねえ、僕たちが小さい頃さ、宮脇、僕に『結婚したい』って言ってたの覚えてる?」


そんな昔のこと覚えててくれたの?



・・・え??結婚???



二人見つめ合ったまま、時間が止まる。
澄んだ栗色の瞳の中に、沈む夕日が赤々と燃えていた。


千尋の手を両手で握りしめる綾太。

まっ・・・大胆・・・!


「宮脇!いつもありがとう!」

「なっ・・・何よ、いきなり」

戸惑う千尋。顔が赤いのは夕日のせいだろうか?それとも、高鳴る胸のせいだろうか?

「いつ言えるかどうかも分からないから。もう2度と言えないかも知れないから。」

「はぁ?意味が分からないわ」


勿体振らずに聞かせてよ・・・ね?


「言いたかったのはそれだけ。じゃ! 今夜も仕事があるから」


え?チューは?抱擁は???


千尋を置いて急いで去ろうとする綾太。


「待って!」

いつもそうだ。私を本気にさせといて肩透かし。
許さないわ。どこまでも追いかけてってやる、綾太!

けれど、運動神経の良い男の子の足に追いつくのは不可能な話だった。
千尋は屋上に一人残された。


「綾太のばっかやろーーーーーーーー!!」


夕日に向かって大声で叫ぶと、涙が出てきた。


鈍感なんだから・・・ばか綾太。

あたしの本当の気持ち、10年前に初めて会ったときからずっと変わってないのに。

気づいてくれないんだから。

鈍感。アホまぬけ。






「う〜〜〜今日もギリギリだ〜〜〜遅れちゃう〜〜〜」

急ぎ階段を駆け下りる綾太。


(ねえ綾太?あれでよかったの?彼女の・・・千尋さんの気持ち、分かってんでしょ?)

鬼の腕輪が質した。

(知ってるさ。けど、僕が悪魔に殺されたとき、彼女を不幸にするわけにはいかないよ)

(ちょっ・・・あんた、死ぬ気!?死なれても困るけど、それなら尚更今のうちに言っておかなくていいの!?)

(死なないよう頑張る。恐らく次に悪魔が出たときが最後の戦いになる予感がする。
 宮脇に伝えるのは、悪魔に勝ってからでいい)





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