特にアクシデントもなく収録が終わり、綾太が局から出ようとすると雨になっていた。
玄関まで、父が自家用車で迎えに来てくれていた。
結婚が遅かった父は50歳近く白髪交じりで、母親似の美少年兄弟とはかけ離れた、小太りの丸い顔をしている。
その車は観音像を模したと言われる、優雅なルーフラインを描いた3ナンバー車だった。
FY31型シーマ。バブル絶頂期、爆発的に売れた高級車である。
地方銀行に勤めるサラリーマンの父がこんな高い車を買ったのも、バブル期だったからこそと言えようが、
団塊世代特有の、車とマイホームに対する思い入れの強さが、さらに購買意欲を後押ししたのかも知れぬ。
電動パワーシートの広い助手席に、小さなお尻が腰かけた。
綾太の華奢な身体には、この車の椅子は立派すぎる。
道路は夕方の事故処理と交通規制で、ひどく渋滞していた。
「うわー、すごいな。・・・綾太は『事件』に巻き込まれなかったか」
口を開く父に、一瞬間を置いて答える綾太。
「うん。交通規制で回り道して、テレビ局に着くのがギリギリだったけど」
実の父親とはいえ、本当のことを言うわけにはいかない。父に余計な心配をかけたくなかった。
カセットデッキつきのレシーバーは、AMラジオがついていた。
運転と会話を邪魔しない程度に小さいボリュームで、工藤静香の「慟哭」が流れていた。
午後8時半を回っていた。
店じまいした町並みの闇の中、ローソンの明るい看板だけがゆっくりと、
ピラーレスハードトップの車窓を流れていく。
綾太の細い手首につけられた銀の輪が、その光を浴びて静かに輝く。
「綾太、学校のほうはどうだ? ここんところ仕事も増えてきたが、夏休み明けでバテてないだろうな?」
うっすら上品な笑顔を浮かべる父。
「うん、今日はちょっと疲れたけど平気。お父さんはお仕事、順調?」
「ああ、だけどいきなりどうしてだ?」
クスクスと笑う綾太。
「だって今日のお父さん、とっても嬉しそうなんだもん」
「ああ・・・分かるか?こんど部長に昇進することが内定したんだ」
「えっ、やったね、お父さん! 今夜はお祝いだね!」
父の肩にぶら下がる綾太。
「あっ、こら運転中だぞ? はっはっはっ。けど、母さんにはまだ言うんじゃないぞ? びっくりさせたいんだ」
その地方銀行が6年後に経営破綻することになろうとは、この時誰が予想できただろうか?
いつしかカーラジオから流れる民放は、夕方の事故のことを取り上げていた。
「今日の事件は本当に恐ろしいと思いました。ですが、悪魔と戦ってくれる人も現れたと聞き、一筋の希望を見た思いです。
私には『がんばって』としか言えないけれど、応援しています。恐い悪魔をやっつけてください。
T市 ペンネーム『シャドーキャット大好き』さんから頂きました」
いつもはおどけたトークが持ち味のDJが、今夜はやけに深刻に視聴者のFAXを読んでいる。
「では一曲、音楽いきます。リクエストをいただいたのはTHE 虎舞竜で、「ロード」
この年1月に発表された同曲はミリオンセラーを記録した。
雪が出てくる曲だから季節はずれではあるが、秋の夜の切なさに染み入らなくもない。
AMラジオの落ちついた中音が、語るように歌っていた。
初めてリストバンドをつけた夜。
僕はあの晩、2度と戻れない扉を開けてしまったのだ。
そしていつか、何でもないようなことが幸せだったのだ、と思い返す日が来るのだろうか?
・・・そういえばこれ、交通事故で亡くした恋人のことを歌った曲だったっけ?
夕方事故から救い出した、母子の顔を思い出した。
色んな思考を頭に巡らせながら大きなシートに身を沈めていると、
やがて瞼はまどろみ始め、意識は安らぎの中へ落ちていった。
うつら、うつらと寝息を立てる綾太。
シートに腰掛けたショートパンツの隙間には、可愛らしくこぼれたおち◎ちんが息づいていた。
信号待ちの父はそれに気付くと、小皺の刻まれた優しい眼差しで、成長した我が子を見つめた。
かけがえのない息子を乗せた高級車が渋滞路を抜けた頃には、雨は小止みになっていた。
目指すは小高い丘の上に整然と、星のような点が無数にきらめく住宅地だ。
あと一息。
V6ターボエンジンはいっそう唸りを上げ、夜霧の中を横一文字のテールランプが走り去った。
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