第一幕「高度8,000メートルの魔女」
S-1 1943年3月 ドイツ第3帝国 ルール付近上空
その晩のルール上空は月夜が綺麗で、視界は良好だった。
ヒンメルベットレーダー基地より敵機来襲との通報を受け、予想される爆撃目標のルール地方上空へと迎撃に向かった夜間戦闘機隊が、英国爆撃隊を発見したのは午後11時過ぎのことだった。
一機の「メッサーシュミット」Bf110戦闘機が照準を双発爆撃機「ウェリントン」に定めた。
「パウケ!」(叩き落せ)
20mm機関砲が火を噴くと左翼からバーナーのような炎が上がり、軌道が逸れていく。
「お見事です、少佐」
後席のレーダー手がねぎらった直後、右後方から、爆撃機の前部に設置された機銃の掃射を浴びた。
「ちっ…トミー(英国兵)の野郎ッ…」
「すみませんッ、見落としました」
一発目の銃弾は機に命中することなくわずかにそれたが、レーダー手が防御用の旋回機銃を向けたときには既に遅かった。
次は正確に死の照準を合わせられており、数珠のように連なる赤い弾筋がコクピットに吸い込まれるように向かってきたのだ。
「ゲビンメル(クソったれ)!」
レーダー手が死を覚悟したときだった。
赤い数珠は空中に浮かんだ見えない平板に跳ね返り、あさっての方角へと弾かれていった。
『おまたせ! 危なかったですね』
ヘッドフォンから聞こえてくる、少女のように朗らかな声。
『3時方向ですよ』
右に首を振ると、いつの間に追いついたか、箒に跨った小さく黒い影が手を振っている。
「エリクか!? ありがとう!!」
エリク・シュナイダー少尉、13歳。同じ夜戦航空隊に属する、魔法使いの少年であった。
顔面を黒い防毒ガスマスクのように、ゴーグルと一体化した酸素マスクで覆っており、皮製の飛行帽からストレートな二つ結びのお下げ髪をなびかせていた。
ほっそりした肉体を包む漆黒のタイツは空気抵抗を極少にするため、首から下をダイビングスーツのように、肉体にぴっちりと密着している。
背中に小さな酸素ボンベを背負い、タイツには小型バッテリーにより夜風の冷気から身体を守る電熱が仕込まれているが、真冬は役立たなかった。
ぽっこり窪んだおへその下、腰から短いスカートのように黒い布が垂れているが、その奥、股の付け根には男の子の象徴が控えめに膨らんでおり、
箒の柄を挟み込む小さく引き締まった腰つきが、健康的な艶かしさを醸している。
薄い胸板を防護する胸当ての左には"ルフトヴァッフェ"ドイツ空軍を示すバルケンクロイツ(黒十字)の下に、夜戦隊を示す「N」の文字が刻印されている。
また右胸にはハーケンクロイツ(鍵十字)を掴んで羽ばたく鷲をデザインした金の刺繍が施されていた。
華奢な肩には少尉の階級章、腰には小さな航空地図の入るポケットがついていた。
背中に背負った四角い、薄い軽量型の酸素タンクさえもシンプルながら細部までデザインに気を配られ、ダイバーのような不恰好ではなく、
細い腰に引き締まった脇腹から未発達な胸筋、鎖骨、裏側にくっきり浮き出た大きめの肩甲骨までのラインが尊重されており、
少年の均整の取れたプロポーションを誇張し、中世の少年騎士のように流麗な姿は、視線を引き寄せられると放さない力強さがあった。
このドイツ的な合理的機能美と、二次性徴を迎える年頃の少年のスレンダーな肉体のエロスが混じりあうかのような奇妙な取り合わせこそ、
戦乱の時代の産み落とした、先端科学と古典美の融合した魔女の姿であった。
メッサーシュミットBf110は高速で小回りの8の字を描きながら、自機に銃弾を放った4発の爆撃機「ハリファックス」の後ろに回り込んでいく。
「エリク、9時方向上方にハリファックスがもう一機いる。頼む」
『了解』
エリクもほぼ直角に急旋回すると、月明かりと敵機の排気炎を頼りに、捉えた目標へと向かっていく。
赤と白と青の三色により「蛇の目」がマーキングされた、全長20メートル強の機体を一周すると、後部につけた。
距離30メートルほどにまで接近したとき、ようやく少年に気付いた重爆撃機は慌てて回避行動を始めるが、
大空を自在に動くことのできる(空中に静止することもできる!)エリクにとって、追うのは全く難無きことであった。
後尾の銃撃手と目が合った。父親くらいの年齢だろうか?
その顔は恐怖と、驚愕と、恍惚の嘆息が入り混じったかのように引きつっていた。
機銃掃射を左に大きくバンクして避けると、飛びながら右腕で斜めに宙に印を切った。
「――エアリアル・ストライク」
圧縮された空気の弾丸が掌から打ち出され、魔力の微粒子の霧とともに尾翼が吹っ飛んだ。
エリクはもう一発放つと、左主翼の真下で爆発させた。
その衝撃で翼は折れ、エンジンの排気管から火の粉を散らし回転する2発のプロペラが、回ったまま落下していく。
片翼をもがれた機はそのまま視界からそれて見えなくなった。
やがて10キロほど先の地上で、オレンジ色の凄まじい火柱が上がった。
(…パラシュートで無事、脱出してりゃいいけど)
そう思って下に視線をやると、白く開花したパラシュートがいくつか、ゆっくり降下していくのが見えた。
(ま、生きてたところで捕虜だけどね)
飛行機を失った航空兵は攻撃せず、脱出を妨げないのが大空を駆ける騎士同士の、暗黙のルールだった。
エリクはブロンド髪をなびかせながら次の「獲物」を見つけるため上昇した。
地上では戦車で兵士を踏み潰すような、総力戦が行われるようになって久しい。
そのはるか8000メートル上空、雲の上だけが、いまだ一騎打ちの美学の生き残る最後の戦場だった。
『見事だ、エリク』
隊長機から無線が入った。
『まだ、魔力は残ってるか?』
「ああ、ぼくは平気」
『2時方向に何機かいる…爆弾を捨ててUターンしやがった。きっとお前さんを怖がったんだろう』
目を凝らすと、星明りにうっすら映える敵機を発見した。
「追撃する。あっ、9時方向上方にも敵機がいる!」
『そいつは俺に任せとけ』
エリクは長い髪毛を逆立て、靡かせながら横転した。
箒を挟む股にキュンッと一層力をこめて天地逆さまの姿勢をとると、二機の敵機を視界におさめた。
箒の魔女はその後も双発爆撃機「モスキート」を2機落とした。
この夜のドイツ軍戦闘機の損害はゼロに対し、英国空軍の失った爆撃機は30機に上った。