薄ら氷



(1)


ざあざあと氷雨の降る中、道場から威勢のいい声が聞こえてくる。
その声を遠くに聞きながら、副長室にいるのは、その部屋の主・歳三と、出入り自由の総司である。
二人でいつものように茶を飲んでいる最中、小者が幾つか文を持ってきた内の一つを開けて、眼を通した途端、
「ちっ、なんで、あいつは帰ってこねぇ」
舌打ちしながら、歳三は罵るように吐き捨てた。
大津で療養をする山南に幾度となく、帰隊するようにとの文を送るが、返って来るのは『体調不良のため帰隊できず』との文面の文だけである。
「体調がやっぱり、本当に悪いんじゃないですか?」
のほほんと茶を啜りながら言う総司に、歳三の怒りは更に煽られる。
「そんな訳、あるかっ!」
その剣幕に、触らぬ神に祟りなしといった風情で、総司は首を竦めるだけだ。
山南は、以前浪士の捕縛の際に腕に怪我を負い、暫く療養をしていたことがある。
その後、ある時までは腕の傷は順調に回復していたのだが、折悪しく病に罹ってしまった。
病の名は知らぬが、腹部に激しい痛みがあり、手足も痺れ、剣を持つのもままならないらしい。
剣客としては、剣が持てぬというのは致命的である。
ましてや、新撰組であれば、尚のことであった。
総長であろうとも、事務だけをこなせば良いというものではなかった。
それが元で池田屋の際も、留守部隊に組み入れられ、他の隊士の華々しい活躍を、耳にするだけであった。
そうなると、参加していないだけに、次第に場に馴染まぬように、表に出なくなっていった。
その所為か、元々山南は勤皇の志が厚かったのだが、ますますその傾向が強くなっていた。
伊東が入隊して、誰より喜んだのは山南だろう。
伊東の勤皇の志の熱さは、江戸に居た頃から顕著だったらしいから、山南はその存在に勇気付けられたのだと思う。
池田屋の後、病のためもあり屯所の外に住まいを設けて遠ざかっていた山南が、伊東が江戸から上ってくると、屯所に頻繁に姿を見せるようになったのだ。
だが、伊東のその志が、自分と相容れぬものだと分かって、失望したのだろうか、山南は療養と称して、身請けした明里を連れ、大津へ引き篭もってしまった。
だから、山南の体調不良は、仮病だと、歳三は言うのだ。
「役立たずは、新撰組にいらねぇ!」
咄嗟に口に出た歳三の言葉。
「無駄飯食いを置いとく理由なんざねぇ」
はき捨てるように歳三は言い切った。
だが、その言葉に、さっと、総司の顔色が変わったのを、興奮している歳三は気づかなかった。
それを後悔することになろうとは、この時の歳三には知る術もなく。
叫んで立ち上がった歳三に、総司は変わった顔色を悟られなかったことに安堵して、穏やかに問い掛けた。
「何処に行くんです?」
「局長のとこだ。山南のことを、話してくる」
勢いよく障子を開けて、総司を一人残し、歳三は足音も高く部屋を後にした。



半月ほど後、総司は局長室に赴いた。
巡察を終えて屯所に戻ってくると、待ちかねたように、歳三の小者として従事している隊士から、局長の部屋まで来るようにとの、伝言があったのだ。
嫌な予感がしつつも、部屋へと行くと、案の定というか、歳三もいた。
ますます、総司の予感は悪いほうへと傾いていく。
「ただ今、戻りました」
部屋の外で一礼して、近藤から、
「おお、帰ったか。何してる、早くこっちへ入れ」
との言葉を貰ってから、総司は部屋に足を踏み入れて、末座に座った。
普段は、近藤に対しても、畏まった態度は取らないのだが、部屋の雰囲気が、いや歳三の雰囲気が、そうさせることを拒んでいた。
「巡察は滞りなく終わりました」
副長である歳三に向けて、総司は型どおりの報告をとりあえずした。
巡察を終えた組長の責務である。
「ご苦労」
歳三も、鷹揚に頷いた。
そして、そのまま沈黙が落ちそうになるのを、総司は遮るように近藤に問い掛けた。
「何か、ありましたか?」
多分、これからのことは、良い話ではないと判っているが、だが避けられないのなら、先延ばしにしても詮無いことだとの思いからである。
「いや、な……」
張り付いたようなにこやかな笑みを浮かべていた近藤は、言葉を濁したまま視線を歳三に移した。
その視線を感じた歳三は、ちらっと近藤を見遣り、その優柔不断な態度に、溜息を一つついてから、総司に向き直って言った。
「総司。山南を屯所まで連れて来い」
どこかで、そう言われることを、総司は覚悟していた。
「山南さんを?」
それでも、その後のことを考えると、問い返してしまう。
「そうだ。あいつが、病と称して大津へ引き篭もってから、一体どれ程経つ?」
「…………」
「しかも、再三再四の帰隊要請にも、首を立てに振らねぇ」
ばさりと、歳三が投げ捨てるように置いた文は、山南からのものだろうか。
歳三の言葉に、近藤も深く溜息を吐いた。
「病なら仕方がねぇ。除隊をすることもできるんだ、それを……」
「除隊させるんですか?」
「病ならな。それで、京を離れるなら、させる」
病なら。だが、山南が屯所に戻らぬ理由が、病だけでないなら、一体如何するつもりなのか。
総司の胸のうちを察したのか、
「が、そうでないなら、除隊はさせれん。皆の手前もある。幹部である以上、皆の模範になってもらわねばならん」
総司が近藤を伺い見ると、苦いものを飲み込んだような苦渋の表情であった。
それは、そうだろう。
歳三の言ったことは、病でなければ隊を脱することを許さず、山南が旧のように隊務に付くか、それが己の節によりできなければ、……という話だから。
確かに歳三の言うことには、一理ある。
新撰組の幹部が、隊を脱し敵方に走るようなことがあっては、一大事である。
隊の統率も何もあったことではない。
だが、そうはいっても、どうしても試衛館の頃からの仲間には、それだけでは割り切れないものを感じてしまうのだ。
これが、伊東であったなら、総司もなんの躊躇も感じられなくて済むのに。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
総司が瞑目していたその眼を開けて正面を見ると、白皙のといわれる鬼の顔をして、歳三は居た。
「もし、山南さんが拒めば如何します?」
「斬れ」
簡潔に何の情も感じさせぬ冷たい声音で、歳三は言い切った。
「歳っ!」
歳三の言葉に、近藤が思わず声をあげたが、総司はそれを意に介さず、
「判りました」
と頭を下げた。
「総司っ」
信じられぬといった態で、近藤は総司を見た。
その目には、お前はあれほど山南を慕っていたのに、という非難が見えるようだった。
近藤も甘いと思う。山南の処断を、歳三と図って決めたのだろうに。
だが、その非難を受け止め近藤に一礼して、出て行こうと腰を浮かした総司に、
「明日でいい」
と、歳三の声が掛けられた。
振り向くと、歳三の能面のような青白い顔が、総司の目に痛かった。
「では、明日。朝一番に、出立します」
この選択を辛いと感じているのは、感情を表に出すことを許されぬ副長である歳三であったろうか。



総司は一旦部屋に戻ったが、ある品を持って、賄いの立ち働く厨へと、その足を向けた。
夕餉の支度に忙しく幾人かが、動き回っていたが、その中の一人、儀助に総司は声を掛けた。
「儀助、ちょっといいかい?」
「沖田様。へぇ、少々お待ちを」
総司が厨に来るのは珍しくもなかったから、総司が新撰組の幹部であるといっても、誰もそこにいることに驚きはしない。
儀助も賄いをしていた手を止め、近くの者に煮込みの指示をしてから、勝手口を潜って外へ出てきた。
「なんぞ、御用でっか?」
「うん。頼みがあるんだが、いいかな?」
「へぇ、そりゃもう。沖田様のお頼みとあれば、何でも聞きまっせ」
儀助と総司は、江戸の頃からの知り合いである。
儀助は元掏摸であった。それが元で地回りに袋叩きにあっているところを、総司が助けたのである。
しかも、助けただけでなく、なにくれとなく世話を焼いた。
人に親切にしてもらった経験のない儀助は、最初は胡散臭いものと見るように総司に接していた。
何か裏でもあるのではと疑っていたようだ。
だが、次第に総司の表裏のない性質が判ってきたのだろう。
なにより、試衛館の連中が、総司を可愛がっている様を間近で見れば、それは疑いようもなく。
そうこうするうちに、総司は儀助が料理上手と知って、小料理屋での仕事の口も探してやったのである。
そんなことがあってから、儀助は総司に心酔し、「沖田様、沖田様」と下にも置かぬ扱いをしだした。
だから、総司が江戸を離れ京へ上がると知ったときは、人目も憚らず泣きじゃくったものだ。
池田屋での活躍で、総司の名が江戸に流れると、居ても立っても居られなくなったらしく、京へとやって来た。
ちょうど、総司の体調も思わしくない時で、江戸風の味付けのできる人間は、好都合とばかりに歳三は賄いとして、儀助を雇い入れた。
総司も儀助には、色々と用事を頼みやすいらしく、儀助は総司の専属の賄い人、兼小者といった感じだ。
俊敏で、目端が利く儀助は、総司にとってもすごく重宝な人間だった。
「山南さんに言伝を頼みたいんだ。今すぐ」
「山南さんに、でっか?」
「ああ」
「へぇ、何と?」
「『明日、沖田が迎えに上がります』と」
「へ?」
儀助は、思わず頓狂な声をあげた。
それもその筈だろう。明日、総司が山南の元へ行くなら、何も今日のこの夕暮れになってから、山南の元へ明日行く事を告げに行く必要など、ない様に思う。
しかし、それを敢えて告げに行けと言うからには、自分には考え付かぬほど大事なことなのだろうと、儀助は思い直した。
頓狂な声をあげたことを恥じるように、儀助は頭を下げた。
「では、すぐに行て参じます」
「済まないが、頼む。それと、これを渡してくれ」
総司は部屋から持ってきた、今度愛に行くときは手ずから山南に渡そうと思っていた筆を、手渡した。
儀助は、それを両手で、恭しく受け取った。
それから、くるくるっと前掛けを外し、ちょうど出てきた女に渡して、儀助は身軽に出て行った。
それは、暮れなずむ夕日が、空を茜色に染める頃合いの事だった。
山南は総司の意図を、判ってくれるだろうか。






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