基本的にヒーローは、出動要請がないときはある程度自由に時間を過ごすことが出来る。
 もちろん会社での多少の事務仕事はあるし、たまにはチャリティ活動や、企業のPR活動に借り出されることもあるが、普通のサラリーマンのように時間に縛られることはない。
 ただし、毎日のトレーニングはある程度義務付けられている。街の平和を守るヒーローにとって、体は資本である。ヒーローたちは皆、NEXTと呼ばれる特殊能力者でが、だからといって怪我をしないわけでも死なないわけでもない。一歩間違えば命を落とす、そういう仕事なのである。
 だからヒーローたちの健康状態は、それぞれの企業によって厳しく管理されている。言わばスポーツ選手のようなもので、ロゴを背負って活動する、というところも同じである。
 ヒーローたちが日々のトレーニングに使う場所は、決められている。それぞれスポンサーたちが共同で出資したトレーニングルーム、そこでヒーローたちは体を鍛え、互いにコミュニケーションを取り合う。
 ……といっても、最近の虎徹はあまりトレーニングには熱心ではない。
 若い頃は、必死に体を鍛えたものだし、その結果が今の年齢にしては細身のしっかりと筋肉がついた体であるが、最近ではトレーニングルームでものんびりしていることのほうが多くなった。
 ヒーローとしてはピークを過ぎた、と虎徹は周囲から言われている。それを認めたくはないが、確かに、虎徹はもう若くないのである。虎徹自身、体力の限界があり、昔のように無理が出来ないこともわかっている。
 だから現状維持のためのトレーニング以外を、虎徹はあまりやらない。これから先どうあがこうと、虎徹の身体能力が伸びることはもうないのだ。
 だが、バーナビーからすると、それが「さぼっている」というように見えるらしい。しばしば遠まわしに、または直球でトレーニングに対する態度に文句を言われる。虎徹はそのたびに苦笑したり、ふざけたりして聞き流す。怒る気になれないのは、彼がまだ若くて虎徹の年齢での状態がぴんとこないことがよくわかるからだ。
 パートナーと言っても、四六時中一緒にいるわけではないので、虎徹が彼と顔をあわせるのは大抵会社か、またはトレーニングルーム、または出動要請の時だ。
 今日は、トレーニングルームでだった。
「よう、遅かったな」
 虎徹はいつものように軽くそう話しかけたが、それに対するバーナビーの返事はなく、かわりに凍えるような視線が戻ってきた。
 ぷいと顔を背けて、虎徹から一番遠くのランニングマシーンへと行ってしまう。
 どうやら今日のバニーちゃんの機嫌は、あまりよくないらしい。
 全身で、話しかけるなという空気を滲ませているバーナビーに、何だありゃとぽかんとする。
 そこにすすっと寄ってきたのが、ネイサンである。
「あんた、また何したのよ」
 虎徹がバーナビーに何かした前提での言い方である。虎徹はむっとネイサンを睨む。
「してねぇよ」
「じゃあどうして、ハンサムの機嫌があんなに悪いのよ。あんたがまた何かして怒らせたんでしょ」
 ぴたりと体をくっつけて、ぐいぐい押してくるネイサンはいつものことだが鬱陶しい。
 昔はネイサンのスキンシップの激しさに、過剰反応していた虎徹だが、今ではすっかり慣れてどうとも思わなくなっている。
「だから何もしてねぇって! 何で俺のせいになるんだよっ」
 小声で怒鳴る。
 わかってないわねえ、という顔でネイサンが目を細める。
「あんたのこと以外で、彼、あんなふうにならないもの」
 はあ? と虎徹は顔をしかめた。
「なんだそりゃ」
「ほんっとわかってないのねえ」
 子どもなんだから、と頬をつつかれ、くすぐったかったのでその手から顔を背ける。
「やめろよ」
 ネイサンはあっさりと手をひき、それから何かに気づいたように目を見開いた。
「あら、これ」
 虎徹の頬から首筋へとネイサンの手が移動する。つんとつつかれたのは、虎徹の首筋だ。
 何だよ、とネイサンを見れば、意味深ににやりと笑われた。
「恋人でも出来たの」
「はあ?」
「ここ。気づいてないの?」
 なんだかひどく楽しげなネイサンに、虎徹は引き気味だ。
 何のことかわからない、と顔に書いてネイサンを見れば、うふふと笑われる。
「随分情熱的な子猫ちゃんなのね」
 首、子猫、情熱的−−ときて、自分のそこに何があるのか虎徹もぴんときた。わからないほど、子どもではない。
「あー……」
 油断した、というのが正直な感想だった。
 自分で見た限り、痕はほとんど残っていなかった。大体虎徹は日頃、首筋まで詰まったシャツを着ていることが多いので、それほど気にする必要もなかったのである。トレーニングルームでTシャツに着替えるところまでは想定していなかった。首筋など、自分で見えないところに何があるのかなど知るはずもない。
 ネイサンがつついたところを、手でごしごしと擦る。もちろんそんなことで、消えるはずもなかったが。
 仕方なく、手に持っていたタオルを首にかけることで隠す。
 にやにやと笑っているネイサンに、虎徹はぶっきらぼうに言った。
「……そんなんじゃねぇよ」
「あら、恋人じゃないってこと?」
 するりとネイサンの腕が虎徹の肩に乗り、引き寄せられる。虎徹は顔をしかめる。
「一人寝が寂しくなったのなら、つきあってあげるのに」
 耳元で囁かれ、虎徹はうんざりとして言った。
「冗談言うな」
「あら、本気よ」
「お前、俺みたいなのは好みじゃねぇつってただろ」
「好みじゃないけど、私とあんたの仲じゃないの」
「どんな仲だ」
 溜息を吐く。
「遠慮するよ」
 ネイサンが離れた。
「つまんない男ねえ」
 ふと視線を感じて顔を上げる。バーナビーと目があった。
 相変わらず怒っているような顔と、冷たい目。
 一体何なんだと虎徹は天井を仰ぎたくなった。


 バーナビー・ブルックス・Jrにとって、鏑木・T・虎徹は、会社から押し付けられただけの面倒なパートナーに過ぎない。
 コンビを組むように言われたときは、何を馬鹿なことを言うのかと随分反発したものだが、結局は押し切られて組むことになった。
 バーナビーと同じ能力をもつ年上のNEXT。熱血で、お節介で、ヒーローというものに妙な理想をもっている面倒くさいおじさん−−というのが、バーナビーの虎徹に対する正直な認識だったし、それは今でも変わっていない。
 けれども同時に、それだけではなくなってきていることにバーナビーとて気づかないわけではなかった。
 一昨日、バーナビーは虎徹に半ば強引に誘われて、居酒屋へ行った。以前のバーナビーならば、決して誘いに乗らなかっただろう。馴れ合いなどバーナビーが一番嫌うところだったし、虎徹と食事だなんて冗談ではないと相手にもしなかった。
 だが最近、どうもバーナビーは虎徹の誘いを断れない。一昨日は、俺に一人で食事しろっていうのかお前、等と言われた。虎徹は時々こういう子どもじみたことを言う。
 もし誘いをバーナビーが断れば、虎徹はあっさりと別の人間に声をかけるのだろうな、と簡単に予想がついた。虎徹は友人が多い。一緒に食事する人間には事欠かないことを、バーナビーはよく知っていた。
 −−だから、というのは理由としては少しおかしいのだろう。
 結果的にバーナビーは、虎徹と食事へ行き一緒に酒を飲んだ。そしていつの間にか虎徹は酔いつぶれ、バーナビーもそれなりに酔い−−バーナビーは、虎徹を抱いた。
 言い訳をするならば、そういうつもりで、彼を部屋に連れ帰ったわけではなかった。ただ、気づいたときには、いつの間にか彼を押し倒していた。虎徹はすっかり酔っ払い、何が起こっているのかわからないような顔をしていた。それに苛立ったことも、はっきりと覚えていた。
 不幸にしてか幸いにしてか、酒のせいで記憶が飛ぶことはなかった。もともと酒にはかなり強く、滅多なことでは酔ったりしない。
 だから何もかも、はっきりとバーナビーは記憶していた。
 虎徹の体の熱や、肌触り、舌足らずな声まで。
 そして目が覚めたら、虎徹は姿を消していた。脱いだ服はなくなり、シャワーを使ったのだろう、浴室の籠の中にバスタオルが一枚入っていた。
 すぐに携帯に電話をしたが繋がらず、彼の家へ行くべきかどうか迷って結局動けず、じりじりとして過ごした昨晩。
 今朝さっそく出社して、虎徹がいるというトレーニングルームへ行けば、彼は何でもない顔をして「よう、遅かったな」と声をかけてきた。
 ……腹がたった。
 虎徹の顔を見れば、一晩悩んだのが自分だけであったことは確かだった。バーナビーとの間にあったことは、虎徹のなかではそれほど重要なことではなかったのだろう。少なくとも、こうして何でもない顔をして、バーナビーに挨拶できる程度のことだったのである。
 睨むと、虎徹は不思議そうな顔をした。
 バーナビーは全然わかっていない相手に苛立ちと失望と怒りを抱えながら離れ、一番遠い場所でトレーニングを開始した。
 だがもちろん、それほど広いトレーニングルームではない。
 どうやっても虎徹と寄っていったネイサンの二人組は視界に入ってきた。
 ベテランヒーローである虎徹は、現ヒーロー達のなかでは一番の古株だ。そのせいか、ヒーロー達は自然と虎徹の周囲によく集まる。彼が一人きりでいるところなど、ほとんど見たことがなかった。
 何を話しているのかまでは流石に聞こえてこないが、ネイサンがやたらと虎徹にべたべたとくっついていた。
 腹の底から不快感がこみ上げて、視線を逸らす。
 大体虎徹は、ネイサンに対して寛容すぎるのだ。彼の過激なスキンシップを嫌がりもしない。自分だったらあんなふうにべたべたされるのは耐えられないだろう。別にもう慣れたし、と虎徹は言う。あいつはああいう奴だから、なんて言葉で片付けてしまう。
 虎徹の無頓着さはいつものようにバーナビーを苛立たせた。途中で虎徹と目があったので冷たく睨みつけると、虎徹の顔に戸惑いが浮かぶ。だがそれもすぐに、隣のネイサンが何か言ったことで消えてしまった。
 二人を見ていることに耐えられなくなり、バーナビーはトレーニングを途中で切り上げると、大股でトレーニングルームを出た。
 中央の階段を降りて、更衣室へ向かう途中、向かいから来た人物と顔を合わせてしまう。
 アントニオだ。虎徹と同じくらい古株のヒーローで、彼の親友でもある。大柄な体格の彼は、性格もいたって大らかで、だからこそあの虎徹と親友などという立場を長く続けていられるのだろう、というのがバーナビーの見解だ。
 アントニオは、バーナビーに気付くといつものように挨拶を口にしかけ、すぐにそれを苦笑めいたものに変えた。バーナビーの顔から、何かを読み取ったらしい。
「虎徹がまた何かやったか?」
 悪いな、とでも続きそうなその言葉が、今のバーナビーには耐え難かった。虎徹のことならば何でもわかっているのだ、とでもいうようなその態度にかっとする。
「あなたには関係ない!」
 意図せず強い口調で言ってしまってから、バーナビーは口を噤んだ。こんな風に感情をあらわにして怒鳴るなど、バーナビーの信条からすればあってはならないことだった。常にスマートに、クールに、というのがバーナビーの理想である。
 アントニオは驚いた顔をしている。
 バーナビーは内心の苛立ちを飲み込むと、すみませんと小さく謝ってから、アントニオの横をすり抜けた。
 最低だ、と思う。
 当分誰とも会いたくない気分だった。



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