もちろんバーナビーの気分などお構いなしに、この都市の犯罪者たちは活動を続ける。バーナビーがトレーニングルームから出て一時間ほどたった頃、出動要請がかかった。
 ――嫌だ、と拒否することが出来るほど、世の中甘くない。仕事は仕事だと割り切るしかなかった。
 重い気分でスーツに着替え外に出ると、案の定虎徹はまだ現れていなかった。
これもいつものことだった。大抵彼のほうが用意は遅い。バイクに跨り、虎徹を待つ間、置いていってしまおうか、と埒もないことを考える。どうせ虎徹が一緒に来ても、たいして役にはたたないのだ。
 バーナビーから見ると、彼の行動は無駄が多すぎ、勘に頼りすぎる。だからいつもからまわりして、結果に結びつかない。彼のポイントが少ないことが、その証拠だ。
 バーナビーは虎徹がいなくても、仕事をこなせる。むしろ一人のほうが、効率はいいかもしれない。最初から虎徹と一緒に行動する意味などなかったのだ――そこまで考えたところでようやく虎徹が姿を現した。
「わりぃ、遅くなった」
 ちっとも悪いなどとは思っていないだろう表情で謝る虎徹を、バーナビーは無言で見返した。
 バーナビーの表情を見て、虎徹が一瞬怯んだようにする。それから困ったように眉を寄せた。
「なあ、バニーちゃん」
 バーナビーを、バニーなどと言うふざけた名前で呼ぶのも虎徹だけだ。最初はいちいち訂正していたバーナビーだが、最近は諦めた。
「さっきから、何でそんなに苛々してるんだよ。何かあったか?」
 何かあったか――だなんて。何もなかったのか、と反対に問いたかった。
「あなたは――!」
 怒鳴りかけて、バーナビーは言葉を飲み込んだ。
 虎徹の顔を見れば、気にしているのはバーナビーだけ、一昨日の夜のことを考えているのはバーナビーだけだということがはっきりとわかった。
 虎徹は、バーナビーに抱かれたことを、全く何とも思っていないのだ。
 信じられなかった。
 不公平だとも思った。
 自分だけが、彼のことで一杯になっている。そんなことがあっていいのだろうか。虎徹の無頓着さが、今はただ憎らしかった。
 ぷいと虎徹から目を逸らして言う。
「乗ってください、いつまで待たせるんですか、おじさん」
「あ、ああ」
 突き放すように言えば、虎徹が慌ててサイドカーに乗った。それを確認してバーナビーは無言で、スーツのマスクを下ろした。
 時折妙に敏いところのある虎徹に、表情を読まれたくなかった。


 それから何日たっても、虎徹の態度が変わることは一切なかった。いっそ、あの日のことは自分の夢か妄想だったのではないか、とバーナビーが疑いたくなるほどの変化のなさだった。背中に残る爪あとさえなければ、バーナビーはそう信じたかもしれない。
 けれどもシャワーをあびるたびにひりひりと痛む背中が、バーナビーにあの夜のことを忘れさせなかった。
 確かにバーナビーは虎徹を抱いたのだ。あの男を自分の下に組み敷いて、啼かせたのだ。背中の傷がその証拠だった。
 虎徹の変化のなさは、バーナビーには耐え難いものだったが、虎徹本人はまったくそのことには気付いていなかった。
 どうして、とバーナビーは思う。
 どうして虎徹は、自分を抱いた男に対して、今まで通りの顔をしていられるのだろう。
 虎徹はゲイではない。娘が一人いることからもわかっている。部屋には妻の写真を飾り、指輪は彼の左薬指に嵌ったままだ。時折、指輪に触れて黙り込んでいる虎徹を、バーナビーは何度も目にしたことある。
 虎徹は間違いなく、異性愛者のはずだ。
 −−なのにあの夜抱いた虎徹の体は、抱かれるという行為を知っていた。
 もちろんバーナビーとて、男を抱くのは初めてである。詳しいわけではなかったが、それくらいは相手の反応を見ていればわかる。虎徹の態度は、明らかに初めてのそれではなかった。
 このことを考えると、バーナビーは自分でもどう扱っていいのかわからない感情が腹の底で渦巻き、噴出しそうになるのを感じた。それを抑えるのは簡単なことではなかった。
 −−虎徹は、男相手に抱かれることに抵抗はないのだろうか。
 どうして慣れているのか、誰か決まった相手でもいるのか−−だとしたら、相手は誰なのか。
 そして何故バーナビーに、抵抗もせずに抱かれたのか−−。
 口に出すことのできない言葉が多すぎて、バーナビーは窒息しそうな気がした。
 虎徹が変わらない分、バーナビーは自分だけが追い詰められているように感じた。
 虎徹のことで、ここまで振り回される自分がバーナビーは嫌だった。だが虎徹を視界にいれないようにしようとしても、虎徹は無神経にバーナビーに話しかけ、あれこれと世話にもならない世話をやいてくるのでどうしようもなかった。
 それでもバーナビーは、できるだけ努力した。 
 虎徹のことを考えないように、彼に振り回されないように心がけた。
 結果として、いつも以上にそっけなく、取り付くしまのなくなったバーナビーに、虎徹は不思議そうにしていたがかまわなかった。
 会社の並んだデスクに座っているときや、出動要請に従って犯人を追いかけているときより何より、バーナビーを苦しめたのは、トレーニングルームで過ごす時間だった。
 一日のうち、ほんの一、二時間のその時間をいかにしてやり過ごすかが、バーナビーの一日の命題といってもよかった。
「眠そうねえ」
 いつものように、ジャージに着替えてトレーニングルームにきているくせに、まったくトレーニングなどする気配のない虎徹が、何やらネイサンに話しかけられている。
 虎徹の周囲にはいつものように自然とヒーロー達が集まってくる。
「寝不足なの?」
 ネイサンの指が虎徹の頬に触れる。
 バーナビーから見れば、まったく不必要なスキンシップだ。何故触れる必要があるのかさっぱりわからない。だが虎徹は気にした様子もなく、振り払おうともせず、のんびりと答える。
「んー……ちょっとな」
 確かに今日の虎徹は、眠そうだった。
 いつもより静かだったし、バーナビーに話しかけてくる回数も少なかった。何故なのかは知らない。
「眠いなら、寝てきなさいよ」
 ネイサンが言えば、近くにいたキースも口を挟んでくる。
「寝不足はよくないぞ、虎徹くん」
「そうよ、お肌が荒れちゃうわよ」
「肌なんかどうでもいいだろ」
 虎徹が欠伸をしながら呆れたように言う。
「どうでもよくないわよ。大事なことよ、せっかく綺麗な肌してるんだから」
 再びネイサンの手が、虎徹の肌に触れた。その肌の感触を、バーナビーはもう知っている。
「眠れないなら、腕枕してあげましょうか?」
 まんざら冗談でもなさそうにネイサンが言うと、虎徹が苦笑いする。
「いらねぇよ」
「遠慮しなくていいのよ」
「してねぇから。別の奴にしてやれよ」
「ここに、あんた以外寝不足の奴はいないわよ」
 虎徹は面倒そうに、ネイサンの手をようやく振り払った。
 そのままソファに深く沈みこむように座り、半目を閉じる。
 気だるげな雰囲気は、いつもの虎徹にはないものだ。しきりにあくびをするせいか、微かに目が潤んでいる。それに気づいた途端、バーナビは落ち着かない気持ちになった。
 あの夜、バーナビーを見上げた目を思い出したからだ。
 気づけば、虎徹の周囲に人が増えていた。現れたのは、アントニオだ。ロックバイソンという名前のヒーローである彼は、虎徹の親友でもある。
「虎徹」
 名前を呼ばれて、虎徹が眠たげな顔でアントニオを見上げる。
「あまり無理するな。眠いなら、素直に寝て来い」
 アントニオの言葉に、虎徹が首を振る。
「勤務中だろ」
「ここにいたって、そうやって座ってるだけなら一生だろう」
「トレーニングするって」
「そんなこと言って、お前がトレーニングしてるところを最近見たことないんだが」
 アントニオの指摘に、まったくだとバーナビーは内心同意する。虎徹はトレーニングが好きではないのか、まったくやる気がないのである。
「今日はするんだよ」
 子どものように言い張る虎徹の頭を、アントニオがくしゃりと撫でた。
「いいから、無理するな」
 率直に親友を案じる声は、深く柔らかい。子どもに諭すような口調であり、表情だった。
 虎徹の表情が少し揺れた。ネイサンに言われたときには見られなかった変化だった。虎徹の心が動いたのが、バーナビーにははっきりとわかった。
 虎徹とアントニオの間にある、目に見えない絆を、見せ付けられた気分だった。それはバーナビーには決して入り込むことのできないものだった。
 虎徹が口を開くよりも先に、バーナビーは動いていた。気づいたときには、虎徹の腕を掴んでいた。
「バニー?」
 きょとん、とした顔で虎徹がこちらを見ていた。
 突然現れたバーナビーに、驚いているのがよくわかる。
 ネイサンとアントニオの表情も、同じように驚いていた。
「ちょっと来てください」
「何だよ、急に」
「いいから!」
 言って、強引に虎徹の体を立たせて、そのまま引きずるようにトレーニングルームから連れ出す。
「おい、バニーちゃん、どこいくんだよ」
 相変わらず眠いのか、いつもよりも間延びした声で虎徹が問うた。バーナビーに腕を掴まれ、引っ張られているというのに、特に抵抗する気配もない。
 そのことにまた腹立たしさを感じながら、バーナビーは真っ直ぐ前を向いたままそっけなく言った。
「斉藤さくんのところへ行きますよ」
「なんで斉藤さん」
「斉藤さんが作ったベッドがあるでしょう。あそこで寝るのが一番早く回復できますから」
 どういう仕組みなのかはさっぱりわからないが、斉藤が作ったベッドは優秀だった。短時間で、驚くほど体力が回復するのだ。
「あー……なるほどな」
 納得した声を出す虎徹の暢気さに、バーナビーは再び苛立ちを覚える。
 すぐにでもこの手を離して、放り出したい気持ちと、このままどこか知らない場所へ連れて行って閉じ込めてしまいたい気持ちが、胸の中でぶつかり合う。
「ありがとな、バニーちゃん」
 虎徹が素直な声で言う。
「心配してくれたのな」
 バーナビーは、火傷でもしたかのようにぱっと虎徹の手を離すと、彼を振り返った。
 どうしてこの人は、と思う。
 虎徹の言葉にどうしようもない苛立ちを覚え、バーナビーはそれを視線にこめて虎徹を睨んだ。
「パートナーがこんな状態じゃ、僕が迷惑なんですよ」
 虎徹とバーナビーはパートナーなのだ。虎徹が不調は、バーナビーにとってマイナスでしかない。
 だからだ、とバーナビーは思った。
 だから、これほど腹が立つのだ。
 虎徹は瞬きをして、それから頭をかいた。
「だな……悪ぃ」
 謝罪の言葉にバーナビーはそれ以上言い募ることもできず、ぷいと顔を背けると再び歩き出した。少し遅れて虎徹がついてくるのを、背中でしっかりと感じながら。



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