昔、虎徹を抱いていたとき、バーナビーはいつも不思議に思っていたものだ。どうしてこの人は抵抗しないのだろう。どうして自分を拒絶しないのだろう、と。
 答えは、未だにわからずじまいだ。虎徹はバーナビーに何も言わなかったし、バーナビーだってそれは同じだ。
 あの頃、二人の間には言葉など存在しなかった。ただバーナビーが手を伸ばして、虎徹がそれを受け入れた、それだけの関係だった。虎徹に甘やかされていたのだろう、と今ならばわかる。
 ……もしあのとき、何か言っていれば。
 今の自分の立場や、虎徹との関係は、もう少し違っていたのだろうか、とバーナビーはこの一年何度も考えたものだった。
 何か――どんな言葉でもいい、虎徹に伝えることが出来ていれば。
 仮定の話をするのは好きではない。もしもなんて、考えるだけ無駄だ。それを誰よりもよく知っているバーナビーだったが、考えずにはいられなかった。
 それは恐らく、今ならば簡単に思いつける、簡単な言葉だった。シンプルで、世界中のあちこちに溢れている、安っぽく陳腐な単語。
 けれどもあの頃のバーナビーには、思いつきもしない言葉だった。
 要するに子どもで、自分のことに一杯一杯だった。
 バーナビーは、夜景を見渡せる窓辺に座り込んでいた。明かりをつけていないので部屋は暗く、その分夜景がくっきりと見えた。部屋の中は静かで、世界中から切り離されているようにさえ思える。
 午前中の一件以来、虎徹とは口をきかないまま過ごしてしまった。何度か話しかけられたが無視した。虎徹は怒っているというよりは、困惑し呆れているように見えた。
 虎徹が、バーナビーに対して怒りを顕わにすることはほとんどない。先日の一件のほうが珍しかった。要するに、対等だと思われていないということなのだろう。だから虎徹は、バーナビーに対して怒らない。それも悔しい。
 虎徹のことを思うと、怒りとも苛立ちともつかないものに胸が満たされ、バーナビーの表情は強張る。虎徹の変わらなさが憎らしく、どうしてあの人はああなのかと誰にというわけでもなく文句を言いたくなる。
 虎徹はいい加減すぎるのだ。
 いい加減で、押しに弱くて、流されやすい。好きだと告白されると何となくほだされてしまうタイプの男だ。
 だからバーナビーなどに押し倒されても、まあいいかなんて顔をして、そのままずるずると抱かれてしまうのだ。
 昨夜はどうだったのだろう。
 どんな流れで、虎徹は相手と寝たのだろう。虎徹が誘ったという可能性は不思議と考えられなかった。きっとナンパされたのだ。
 それは男だったのだろうか、女だったのだろうか。
 どちらもあり得そうで、バーナビーには判断がつかない。
 どちらにしても、結果はそれほど変わらない。虎徹は相手を受け入れたのだ。
 そのことを思うと、凶暴な衝動が腹の底からわきあがり、バーナビーは息を止める。物心つく前にNEXTとしての能力に目覚めたバーナビーは、その力をコントロールすることに、苦労したことは一度もない。
 けれども今は、この激情のままに力を振るわないでいることは、とても難しかった。
 ――本当は。
 わかっているのだ。自分に虎徹を責める権利も、怒る権利もないということは。二人は単なる相棒で、それ以上でもそれ以下でもない。それで満足だ、と思えたはずではなかったのかとバーナビーは自問する。
 虎徹がバーナビーを傷つけようとしたのではなく、バーナビーが勝手に傷ついているのだ。
 苦しい、と思った。
 胸がきりきりと痛み、バーナビーは片手で押さえた。それは経験したことのない痛みだった。
 どうしてあんな人に、出会ってしまったのだろう。
 出会わなければよかった、なんて思うこともできないほど、バーナビーは虎徹にとらわれている。
 虎徹だけだった。
 二十年追い続けた両親の事件ですら、こんなふうな息が詰まるような気持ちにはならなかった。
 そのことに、バーナビーは絶望したくなる。


 虎徹はごろりとベッドに横になり、左手を頭上にかざして目を細めた。
 手首には、もう随分長く愛用している黒皮の時計と念珠がはめられている。その先にある、骨ばった手。いつもと変わらぬように見えるが、気づくものは気づくだろう。
 違和感を覚えるのは、左手薬指だ。
 そこにはめられているはずの、シンプルなデザインの結婚指輪――妻が死んでからも、ずっとはめ続けていたものが、ない。
 虎徹は顔をしかめ、深い深い溜息を吐いた。何度見ても、同じだった。ないものはない。諦めて、ぱたりと手を体の上に落とす。
 どうしてすぐに気づかなかったのだろう、と虎徹は今日一日で何度も考えたことを懲りずにまた考えた。いくら二日酔いでだるかったからといって、指輪がないことに気づかないなんてあり得ない。
 指輪はもう虎徹の一部のようなもので、つけていることすら意識しないようになっていた。それが裏目に出たのかもしれなかった。
 昼休みに気づいて、虎徹は真っ青になった。それまでは何故か怒ってしまったバーナビーのことを気にかけていた虎徹だったが、それどころではなくなった。
 慌てて記憶を掘り返せば、指輪のありかはすぐに思い出せた。
 昨夜、飲み屋のあとで行ったホテルである。外した指輪を、ベッドサイドのテーブルに置いた記憶がはっきりと残っていた。
 昼休みのうちにホテルに電話をかけて、指輪の忘れ物がなかったか聞いてみたが、申し訳なさそうに「ありませんでした」との返事。
 見つかったら連絡をくれるように頼んでから、電話を切るしかなかった。帰りに昨日飲んだバーにも一応顔を出して聞いてみたが、そんな忘れ物はなかったとのこと。
 あとの手がかりといえば、昨夜を一緒に過ごした男だったが、名前も連絡先も聞いていなかった。携帯番号を一度聞かれたのに、虎徹は教えなかったし相手の名刺も受け取らなかった。一夜限りの後腐れのない関係だと思ったから、虎徹は男の誘いに乗ったのである。
 けれども今となっては、携帯番号を交換しておくのだったと心の底から後悔している。
 ――大事な、ものだった。
 かわりのものなど見つからない、かえのきかないものだ。
 もちろん指輪がなくなったからといって、妻との思い出が消えうせるわけではない。本当は何一つ、虎徹は失うわけではない。案外さばさばとした性格だった妻ならば、「なくしたんなら、しょうがないでしょ」と呆れたように言うだろう。その口調まで想像できる。
 けれども。
 しょうがない、で済ませられねぇだろ、畜生。と心の中で反論して、虎徹はうーと唸る。
 見つからなかったらどうしよう。
 戻ってこなかったら、どうしよう。
 考えて、虎徹は泣きたい気持ちになるのだった。



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