バーナビーと別れて一度家に戻ったものの、一人で食事をする気にはなれず、虎徹は再びぶらりと夜の町に出かけた。
別れ際、バーナビーは何か言いたそうにしていたことを思い出す。けれども最期までバーナビーがそれを言葉にすることはなく、虎徹も聞くことはなかった。正直、食事でもと誘われるかと思っていただけに拍子抜けである。
必要以上に気をつかってくる割に、肝心のところをバーナビーはわかっていない。
いつもならば行きつけの居酒屋に行くのだが、今日はそういう気分でもなかったので、適当に目についた馴染みのない店に入る。
間接照明で照らされた店内は薄暗く、それはバーナビーやネイサンが好むような店だった。静かな音楽も、いつもの虎徹であれば居心地の悪さを感じたかもしれない。
いくつかのつまみと、焼酎のロックを注文して、一人飲む。
虎徹はたまに、こんなふうに誰も知らないような店で一人で飲む。周囲には虎徹の名前を知るものはおらず、彼がどんな人間で、今までどんな人生を送っているか、誰も興味を示さない。他人の無関心さが心地よい。それはヒーローなどという、注文されやすい仕事をしているせいなのかもしれない。
こういう場所では、虎徹は不思議と孤独ではない。一人であることが許されている。
虎徹がこの世で一番孤独を感じるのは、いつだって見知った仲間たち、自分が愛しているものたちに囲まれているときなのだった。そういうものなのだろう、と思う。
丸く削られた氷が、透明なグラスの中で光っている。度数の強い酒を、ゆっくりと飲む。胃の中がじわりと熱くなり、そして体に馴染んでいく感覚が好きだ。吐き出す息も、熱い。
バーナビーは今頃何をしているのだろう、と思った。
一人でいるのか、誰かといるのか――そう考えて、ないなと虎徹は笑う。
バーナビーはきっと今も一人だ。
一人であのだだっ広い部屋にいるに違いない。何をしているのかまではわからない。テレビを見ているのか、雑誌でも読んでいるのか、または酒でも飲んでいるのか。
……寂しがっていないといいな、と思う。
虎徹と違ってバーナビーは、孤独を楽しむことが出来ない。バーナビーは大抵独りだし、周囲からもそう見られがちだが、それは彼が望んだ結果ではないのだ。
バーナビーほど誰かを、常に求めている子どももいない。
かわいそうに、と思うのは恐らく失礼なのだろう。相手は年下とはいえ成人した一人前の大人で、虎徹の相棒で、対等に扱うべき相手だ。
けれどもやっぱり、何度考えても、虎徹はバーナビーのことをかわいそうに思うし、誰かがバーナビーの孤独に気づいてくれたらいいなと願ってしまう。
昔、コンビを組んでいた頃、バーナビーの手を拒まなかった理由のひとつは、確実にそれだった。
バーナビーがあまりに必死で、泣きそうな顔をするから。だからまあ、いいか、なんて単純に流された。
まあすべて昔の話である。
今のバーナビーは、あの頃抱えていた寂しさを、少しは解消できたのだろうか。この一年で埋める術を見つけたのだろうか。
コンビを復活して約二ヶ月足らず、虎徹にはよくわからない。
バーナビーは以前と同じようにも思えるし、違うようにも思える。だが少なくとも、以前抱えていた不安定さはなりをひそめた。もう虎徹はバーナビーを見ても、目を離せないというような気分にはならない。
バーナビーは相変わらず独りで、それを持て余していることは確実だが、少なくとももう虎徹の手は必要ないということなのだろう。
湧き上がった寂しさに、虎徹は少し苦笑した。
子どもが巣立っていく寂しさは、こんなふうなのかもしれない。いつか楓が手元を離れていくとき、同じような気持ちになるのかもしれない。
何にしても、バーナビーの幸せを、虎徹は心から願った。
いつも、どこにいても、笑っていて欲しい。泣かずに、幸せに過ごして欲しい。……これはもう、愛だよなあと虎徹は目を細める。
虎徹の中で、バーナビーへの気持ちはいつも穏やかで静かだった。
かつて肌をあわせていたとき、バーナビーはいつも苛立ち、恐れ、怯えているように見えた。何かから逃げるように虎徹の手を掴み、引き寄せ、抱きしめたものだ。
バーナビーの持つ若さを、虎徹は懐かしさとともに眺め、愛おしみ、そして差し出された手をほんの少しの間、握ってやった。それだけのことだった。
男と肌をあわせること自体に対する忌避は、それほど感じなかった。虎徹は昔から、異性よりも同性に好かれることが多かったし、妻がなくなってからは、何度か複数の男と経験もしていた。
もちろん今でも男よりも女が好きだ、と思う。街を歩いていても美女には目がいくし、触れるのならば柔らかな体のほうがずっといい。
男に劣情を抱いたことは一度もない。同性に関していえばいつだって虎徹は求められる立場だった。
そして、求められればそれを与えられずにはいられないという困ったところが虎徹にはあった。強く押されると、まあいいかと流されてしまうのである。それで同性相手に泥沼になりかけたことも、数度あった。
バーナビーはそうならなくてよかった、と虎徹は思う。泥沼になっていたら、今の関係はあり得なかっただろう。
バーナビーとの関係の終わりは自然消滅だったが、それは虎徹が考えうる限り最善の終わり方だった。
……寂しい、と思う瞬間がないかといえば嘘になる。けれども虎徹は現状に満足していた。虎徹の口元に自然と笑みが浮かぶ。
バーナビーは今でも虎徹の相棒だ。
それで、いいのだ。
「隣に、座っても?」
ふいに耳に届いた声に、虎徹は顔を上げた。低いテノール。
立っていたのは見知らぬ男。
虎徹よりはいくらか若い――いかにももてそうな美男である。金に余裕がある階級なのは、着ているものや表情を見ればわかる。明るい茶色の髪と、緑の目――その色が、バーナビーのものとよく似ていて。
だから、なんてきっと言い訳なのだろう。
虎徹は、小さく笑った。
男は、同性に興味を示すそういうタイプの男だった。見ればわかる。つまりこれはわかりやすいナンパだった。
どうぞと虎徹は男を横に座らせる。
たまには遊びも必要だった。
いつものようにぎりぎりに出社してきた虎徹は、ひどく眠そうに見えた。バーナビーと違って虎徹は朝に強い。これほど眠そうな虎徹を見るのは、初めてだった。
「寝不足ですか」
問うと、子どものようにこくりと頷く。
「昨日飲み過ぎた……」
珍しいな、と思う。虎徹はかなりアルコールに強い。その虎徹が二日酔いになるくらいなので、昨夜は相当な量を飲んだのだろう。
「家で飲んだんですか?」
「いやあ、店で。美味い酒がそろってたから、飲みすぎちまった」
あのあと外に出たのか、と思う。昨日、虎徹を車で家まで送ったのはバーナビーだった。食事に誘うかどうか迷って、結局誘わなかった。……外で食べるのなら、声をかけてくれてもよかっただろうに、と思うのは自分のわがままなのだろう。
虎徹には虎徹の自由があり、それはバーナビーには干渉できないものだ。
「バイソン先輩とでも?」
「いや、一人で」
「一人でちゃんと帰宅できたんですか?」
「……まあ、何とか」
言葉を濁した虎徹に、何となく昨夜の予想がついてバーナビーは溜息を吐く。
「酒に酔っての不祥事は、スキャンダルになりますよ」
「別に不祥事なんて起こしてねぇだろ〜」
拗ねたように言う虎徹に、バーナビーは時間の問題ですと冷たく言い放つ。それからバーナビーは立ち上がり、虎徹のためにコーヒーを淹れた。
さんきゅ、と言って虎徹がコーヒーを受け取る。
「薬は? 飲みました?」
「そこまでひどくないし。だるいだけ」
流石に悪かったと思っているのか虎徹はしゅんと肩を落としている。それを見れば、それ以上責めることもできなくなってバーナビーは口を噤んで席に戻る。
コーヒーをちびちびと飲んだ後、虎徹はぱちぱちとキーボードを叩き始める。虎徹の脇には、未提出の書類と、再提出を求められている書類が山積みになっていて、ひどいことになっている。そのうち虎徹から、バーナビーに泣きついてくるはずだ。
虎徹のその手がやがてぴたりち止まり、虎徹は憂鬱そうな溜息を吐いた。そのまま机の上にぐたりと突っ伏してしまう。本当にだるいのだろう。
いつもは煩い虎徹がそうやっていると、途端に部屋の中はしんとしてしまって、居心地が悪い。
「そんなに具合が悪いなら、医務室か斉藤さんのところで寝てきたらどうです?」
「二日酔いでいったら怒られる」
虎徹は最もなことを言って、立ち上がった。
「虎徹さん、どこへ?」
出て行こうとする虎徹に、声をかける。
「トレーニングセンター。シャワー浴びて、ちょっと汗かいてくる……」
よろよろと出て行く背中を見送って、バーナビーは眉を寄せる。
手のかかるオジサンだ、と思った。あの調子で、シャワールームで倒れられても困る。
やりかけの作業を手早く終わらせると、バーナビーもまたトレーニングセンターへ向かうべく立ち上がった。
トレーニングセンター内の更衣室の奥には、広いシャワールームがある。個室になってはいるものの、ひとつひとつが広い。
虎徹などは、これでバスタブまであれば最高なのに、などと言うが、バーナビーは十分だと思っている。
中に入ると、虎徹はシャワーを浴びているらしく、奥から水音がした。せっかく来たのだから、自分もトレーニングをして帰ろうと、バーナビーはロッカーからジャージを取り出した。
上下を着替え終えたところで、奥から虎徹が戻ってくる。腰に大きなタオルを巻いただけの姿だ。
「あれ……バニー? お前どうしたの」
バーナビーを見つけて不思議そうにする。
「僕もトレーニングです」
「トレーニングって、まだ朝だぞ?」
「それが何か?」
平然と返したバーナビーに、虎徹は目を瞬かせる。バーナビーは基本的にトレーニングは午後行う。それを言いたいのだとわかっていたが、わからないふりをした。まあいいけど、と呟いた虎徹は、のろのろとバーナビーの横を通り過ぎて、自分のロッカーの前に立つ。
髪を拭きながら、ロッカーの中から着替えを取り出す。動きが緩慢なのは、恐らくまだだるさがとれていないからだろう。
虎徹の体を目にするとき、バーナビーはいつも野生の獣を想像する。無駄なところがひとつもない、動くための筋肉でできた体。
肩から背中にかけてのラインを、じっと見つめたバーナビーはあることに気づいた。
首から肩にかけての皮膚に、一部赤く傷ついている場所がある。一体どこでひっかけたんだと一瞬呆れ、けれどもすぐにそうではないのだと気がついた。
目を少し凝らせばわかる。
それはひっかき傷などではなく、誰かの歯形だった。
「……!」
バーナビーは絶句する。咄嗟に喉の奥で言葉が詰まって出てこない。
……どうしてそんなところに歯形が、なんて問うまでもなかった。それほどバーナビーは初心ではない。
−−誰かが、虎徹に、触れたのだ。
はっきりとそう理解して、バーナビーは呼吸ができないような気持ちになる。
普段ならば服に隠されて見えない場所だ。そんなところに、歯をたてた人間がいる。虎徹とてヒーローである。無理やりということは考えられなかった。嫌がる虎徹を、組み敷ける人間はそうそういない。
虎徹はその誰かが、自分に触れることを許したのだのだろう。
昨夜、虎徹は誰かと寝た。
それが男だとか女だとかは関係なかった。
誰かが、虎徹に触れたということが、バーナビーには衝撃だった。
――こみ上げた破壊的な衝動を、バーナビーは抑えられなかった。
これは虎徹のプライベートであり、虎徹の自由なのだと頭では理解していても、感情は納得しなかった。
「昨晩は、お楽しみだったみたいですね」
口が勝手に言葉をつむぎだす。
虎徹が不思議そうにバーナビーを振りかえった。自分の体に残された痕に、気づいていないのだろう。ぱっと見る限り、首筋以外に痕跡はなかった。
バーナビーは虎徹との距離をゆっくりと詰めた。些か近すぎるような場所に立ち、バーナビーは虎徹の首筋に触れた。
「ここ」
シャワーを浴びたばかりの虎徹の肌は温かく湿っており、バーナビーの冷たい手にもじわりと熱が伝わってくる。
虎徹の体がぴくりと震えた。
「痕、ついてますよ、オジサン」
え、と虎徹が声を上げる。わかっていない無防備な顔に苛立ちを覚えながら、バーナビーはそれを隠してにこりと笑う。
「歯形です。情熱的な人だったみたいですね」
「あー……」
虎徹は、気の抜けた声を上げて、バーナビーに触れられた首筋を撫でた。もちろんそんなことで、痕が消えるはずもない。
虎徹が、ロッカーについた鏡で確認しはじめる。そして歯形を見つけて、うわあと顔をしかめた。
言い訳も誤魔化しも、虎徹はしなかった。ただ平然としていた。それどころか、バーナビーを見て、
「これ、Tシャツで隠れると思う?」
などと聞いてくる。
バーナビーに対して、言い訳をする必要など全く感じていない態度だった。
……こういう人であるのは、知っていた。
知っていたけれど。
「バニー?」
どうした、等と虎徹はどこまでも無邪気に首を傾げた。
バーナビーが黙っていると、それを不審に思ったのだろう。
顔を覗き込まれるようにして、バニー? ともう一度名前を呼ばれる。虎徹の手が、バーナビーの頬に触れた。
それが限界だった。
バーナビーは、ここ最近なかったほどの勢いで、ぶちきれた。我慢できなかった。
「触らないでくださいっ」
急に怒鳴ったバーナビーに、虎徹が驚いた顔をする。
いつもならば癒されるそんな顔にも、今日はまったく癒されない。それどころか、苛立ちが募っただけだった。
「最低だ!」
怒鳴ってバーナビーは虎徹に背を向けると、更衣室を足音も荒く出た。最後に見えたのは、呆気にとられた虎徹の顔。虎徹には何がおきたか、さっぱりわかっていないのだろう。
本当に最低最悪だ、とバーナビーはもう一度心の中で繰り返した。
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