虎徹が交通事故に巻き込まれた、という報せがアポロンメディアに届いたとき、バーナビーは自分の机で黙々と経理に提出する書類をまとめているところだった。
 今日は、まだ一度も虎徹とは顔を合わせていなかった。朝から虎徹は雑誌の取材、バーナビーは写真撮影と別々の仕事が入っていたからだ。
 もっとも、顔を合わせたところでたいした会話ができるわけではない。相変わらずバーナビーは虎徹への態度を軟化させることが出来ず、虎徹は虎徹でここ数日元気がない。
 いつもならば、煩いほど話しかけてくる虎徹が、今回はそうしない。妙に静かに、バーナビーの横にいることが多い。
 もしや虎徹は、バーナビーに愛想をつかしたのかもしれない。子どもっぽい態度に呆れて、かまう気が失せたのかもしれない。そう思うとぞっとしたが、だからといって今更態度を変えることもできなかった。
 虎徹がそんなふうだったから、二人の間の空気はお世辞にもいいとは言えず、他のヒーロー達から「また喧嘩したの?」と呆れた顔をされ、ついで「大丈夫?」と心配された。
 いつもと違ったのは、それが虎徹のみならずバーナビーにも向けられたことだろう。要するにそれくらい、今の虎徹はいつもと違うのだ。
 どうしたのだろう、と思う。
 虎徹に何があったのか知りたいのはバーナビーも一緒だったが、今の状態では聞きだせるはずもなかった。
 ふいに部屋のドアが開いて、ロイズが姿を見せる。
「ロイズさん」
 珍しいこともあるものだ、と思った。この上司が部屋まで来ることはほとんどない。大抵こちらが呼び出されるのだ。
 立ち上がったバーナビーに、ロイズはいつになく硬い表情で言った。
「バーナビー君。ニュースは見たかい?」
 いえ、と首を振れば、ロイズは壁に埋め込まれたテレビをつけた。緊急ニュース速報。映し出される、交通事故の現場。
「ついさっき、メダイユ地区にある道路で、大きな交通事故が起きたらしい。向こうは大騒ぎになってる」
 それはテレビの様子からも伺えた。玉突き状態になっている何台もの車と、煙。そして炎が見えた。
「出動ですか」
 だとしたら呼び出しはPDAで来るはずだ。ロイズが来る意味がわからない。
「いや、そういう要請はきていないね」
 つまり事件性はない、ということだ。そして救助の方も、能力を必要とするようなものではないということ。
「落ち着いて聞いてほしい」
 ロイズがテレビからバーナビーに視線を戻した。奇妙な前置きに、バーナビーはいやな予感を持つ。この先を聞きたいような聞きたくないような。
 ロイズが言った。
「――鏑木君が、会社に戻ってくる途中に、この交通事故に巻き込まれたそうだ。今、病院から連絡が入った」
 悪い予感ほど当たる、と言う。
 心臓がぎゅっと鷲づかみにされた。部屋の温度が数度下がり、暗くなった気がする。
「怪我の程度はわからない。アポロンメディアの社員証を見て、こっちに連絡が来たらしい」
 虎徹が事故に。
 考えうる最悪の事態を、バーナビーは敢えて考えないようにした。考えたら、きっと、動けなくなる。確認することも、出来なくなる。
「……どこ、ですか」
 ロイズを見たまま、冷静に問う。
「病院。どこに収容されたんですか」
「中央病院だよ」
 そう答えるロイズは、バーナビーの冷静さに幾分かほっとしてるようだった。暴走したバーナビーを止めることのできる人間は限られている。その一番の人間である虎徹が、今はいないのだからロイズが不安になるのも当然だった。
「彼がワイルドタイガーだということは周囲には知られていない。だから君はここで――」
 ロイズの言葉を最後まで聞かず、バーナビーは部屋を飛び出した。
 連絡を待て、という指示になど従えるはずがなかった。
「バーナビー君!? 待って、冷静に……」
 背中にロイズの声が追いかけてきたが、バーナビーは無視してアポロンメディアの駐車場に向かう。自分の車を運転して、中央病院を目指した。
 途中で事故らなかったのは奇跡だった。
 中央病院は、シュテルンビルトでも一、二を争う大病院だ。いつもとは違う喧騒に、病院は包まれていた。次から次に、救急車が病院の中に入っていく。
 受付のあるフロアは人で溢れかえり、そこにバーナビーが入っていくのは幾らなんでも無茶というものだった。これ以上、病院を混乱させるわけにはいかない。
 落ち着け、とバーナビーは目立たない場所で深呼吸をする。
 それから、慌しく動いている看護士をつかまえて尋ねた。
「お忙しいところすみません。アポロンメディアの鏑木、鏑木・T・虎徹がこちらの病院に収容されたと聞いたんですが、病室がどこかわかりますか。先ほどの交通事故に巻き込まれたらしくて」
 こういうとき、顔出しをしていると便利である。
 若い女性の看護士は、バーナビーにすぐに気がついた。あ、と頬を染めたのがその証拠だ。幸いバーナビーのファンだったらしい彼女は、すぐに虎徹の病室を調べてくれた。
 三階の部屋に、虎徹は入れられたらしい。
 走りたくなるのを堪えて、バーナビーは早足で三階を目指した。とてもエレベーターを待てる気分ではなかったから、非常階段のほうを使って三階まで駆け上がる。
 虎徹の病室はすぐに見つかった。
 ここまでくると、流石に辺りは静かであり、下の喧騒が嘘のようだった。
 部屋の窓際に置かれたベッドに、横になっている虎徹をバーナビーは発見する。虎徹はいつもの私服だった。頬に小さな傷がある。
 白いシーツの上に、横たわる虎徹を見るのはこれが初めてではない。
 けれども、だからと言って慣れるものではなかった。
 彼を探して来たはずなのにバーナビーは数歩離れた場所で立ち止まった。手が届く範囲に行くのが怖かった。……彼が、息をしているのかどうか、確認することが怖い。
 死んでいたら、こんなふうに寝せられているはずがない。
 冷静な頭ではわかっている。かつて自分の腕の中で、目を閉じた虎徹を思い出す。あのときだって今よりずっとぼろぼろだったけれど、彼は生きていた。虎徹が死ぬはずがないのに――それでも、バーナビーは恐ろしい。
 眠る虎徹はあまりに静かで、安らかな表情をしていて、それが怖い。
 どれだけ時間がたったのか、ぴくりと虎徹の瞼が震えた。
 ああ、起きる。
 全身から力がぬけるような安堵とともに、バーナビーはそれを見守った。瞼が持ち上がり、ゆっくりと瞬きをする。天井に向けられていた琥珀色の目が、バーナビーのほうへと移動する。
 寝起きの、どこかとろんとした琥珀色の目。
「バニー……?」
 柔らかく名前を呼ばれて、バーナビーはもうだめだ、と思った。
 こんな人大嫌いだ、とも思った。
 虎徹の顔に、困ったような表情が浮かぶ。
「何で泣いてるんだよ、お前」
 伸ばされた手を、取ることも出来ない。
 あなたのせいでしょう、とバーナビーは心の中で文句を言った。口を開けば、嗚咽しか出て来ないことがわかっていた


 虎徹の怪我は軽症だった。数箇所の打撲と、腕の切り傷。そちらは既に縫合され、白い包帯が巻かれていた。
 よくよく聞いてみれば、交通事故に巻き込まれたというよりは、目の前で交通事故がおき、救助をしているうちに怪我をしただけらしい。
 病室で眠っていたのは、単純に寝不足のせいだという。うとうとしていたら、病室に入れられてしまったのだそうだ。
「スーツもないのに、また無茶したんでしょう!」
 バーナビーは怒ったが、虎徹は「目の前で怪我してる人がいたら助けるだろ、普通」等と言って全く反省の色がない。
「ちょっと切っただけなのに、大袈裟だよなあ、これ」
 等といって、包帯にも不満そうにしている。
 この人は基本的に怪我に慣れているのだ、とバーナビーは改めて思う。そして怪我をすることを何とも思っていない。
「包帯取っちゃダメですからね」
「えー、邪魔じゃねえ?」
「邪魔とか邪魔じゃないとか、そういう問題じゃありません」
 ぴしりと言うと、ベッドの上で胡坐をかいた虎徹が、不満そうにする。まるで子どものようだ。大人しくしておいてくれ、と言ってもきっと虎徹は聞かない。目の前に助けるべき人がいたら、また動いてしまうのだろう。
 そういう人だとわかっている。
 わかっているけれど、自分が隣にいないときに、無茶をしないでほしかった。隣にいれば、まだ間に合う。守ることもできる。けれど、遠くにいてはそれもかなわない。
「こっちがどれだけ心配したと思ってるんです」
 言葉にすると、思いのほか気持ちが篭もった声になってしまった。
 また喉の奥が痛んで、バーナビーは口を噤む。
 泣いたおかげで瞼はまだ微かに重い。眼鏡をしていてよかったと思った。
 虎徹はバーナビーを見上げ、それから少しすまなすまなそうにする。首を傾げ、それから手を伸ばして、バーナビーの頭を撫でた。
 心配をかけた、という自覚はあるらしい。
「ごめんな、バニーちゃん」
 この顔と手に、騙されてはいけない。
 どうせ虎徹は、同じことを繰り返すのだ。
「あなたの謝罪は信じません」
 えー、と声をあげる虎徹に恐らくその自覚はないのだろう。
 死なないでくれ、と本当は言いたい。頼むから、おいていかないで、と縋って聞いてくれるものなら、何度だって頼むだろう。
 けれども虎徹は、聞かないから。
 だから、バーナビーは隣にいたいのだ。
 退院手続きをしてから、ロイズに連絡をする。虎徹が無事であることを伝えると、ほっとした声を出すこの上司は、何だかんだと言いながら虎徹のことを気に入っている。
『じゃあ今日はもう、帰っていいから。二人とも』
「でも僕は」
『いや、どうせ無茶するでしょ、彼。バーナビー君、暇だったら見張っておいてよ』
 虎徹の性格を見通した台詞に、ちょっと笑って、わかりましたと答える。二人の間の空気がここ最近微妙だったことに、ロイズは気づいていたのかもしれなかった。
「今日もう、会社行かなくていいみたいですよ」
「え、そうなの?」
「呼び出しがあれば、また別でしょうけど」
 そっかあ、と頷く虎徹を、バーナビーは車に乗せる。
「どこいくの」
「うちです」
「俺の家じゃなくて?」
「あなた、放っておいたらその腕の包帯とるでしょ」
「とっ、とらねぇよ!」
「とる気でしたよね」
「……」
 やはり自分の家に強制連行だな、と思う。傷が少しはマシになるまで、家で暮らしてもらってもいい。
 もちろん虎徹はすぐに頷かないだろうから、懐柔する手を考えなければならない。
 唇を尖らせていた虎徹は、だがしかし暫くすると表情を緩めた。運転するバーナビーの顔をじいっと見てくる。
「バニーちゃん、機嫌直った?」
 そう言われて初めて、久しぶりに虎徹とまともに話をしていることに気がついた。
 思った以上に、自分は動揺していたらしい。
 バーナビーは照れ隠しのように、早口に言った。
「……怒ってるのが馬鹿らしくなりました」
 虎徹は、そっかと笑う。それから悪戯っぽく続けた。
「それじゃ、仲直り、だよな!」
 子どものような言い方だった。
「虎徹さんがそうしたいなら」
 バーナビーの台詞に、虎徹は大真面目に頷く。
「俺はいつだって仲直りしたかったぞ。なのにお前がつんつんするからさあ」
「別につんつんなんて」
 言い返しかけて、バーナビーは言葉を切った。
 また喧嘩をしたいわけではない。
「虎徹さんが仲直りしたいなら、仕方ないですね」
 意地っ張りのバーナビーの台詞に、虎徹は笑って「そうだな」と頷く。
 甘やかされてると思う。子ども扱いされていると思う。けれども虎徹にそうされるのは少しもいやではなかった。



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