車を発進させてすぐに冷蔵庫の中身が空っぽだったことを思い出した。今日、虎徹を泊めることを考えれば、何か買って帰ったほうがいいかもしれない。
「途中で少し買い物してもいいですか?」
 一応助手席の虎徹に確認をとると、もちろんと気軽に返事が戻ってくる。
「何買うんだ?」
「食料ですよ。家に何もないので」
 少なくとも飲み物くらいはないと困る。
 途中にある大型食料品店に寄ることにする。食料品ならば、揃わないものはないと評判の店だ。
 車を駐車場に停めて、外に出る。車の中で待っていてもいいですよ、と傷のことを考えて言ってみたが、虎徹は一緒についてきた。車の中で一人で待つなんて嫌だ、と子どものようなことを言う。
「夕食、何か食べたいものありますか」
 そう問うと、虎徹は不思議そうにする。
「バニーちゃんが作るってこと?」
「ですよ。お口にあうかわかりませんが」
「料理なんて出来たの」
「勉強したんです」
 実はこの一年間で、本格的に料理の勉強をしたバーナビーである。虎徹にチャーハンを食べさせるために独学で始めた料理だったが、やるなら極めねば気がすまないバーナビーの性格は、こういうところにも発揮された。週に一度、プロの料理人に習った結果、今ではある程度の料理ならできるようになっている。
 すげぇなあ、と感心したように言い、虎徹は考え込む。
「料理が思いつかないなら、肉か魚かだけでも決めてもらえると助かります。あとは適当に作りますから」
 うーん、と唸った後、虎徹は何かを思いついたように目を輝かせる。
「じゃあバニーの作ったチャーハン食べたい」
「……チャーハン、ですか」
「この前、そのうち食わせてくれるって言っただろ」
 確かに言った。バーナビーも覚えている。だが今、それをリクエストされるとは思わなかった。
 ダメか? と首を傾げられ、バーナビーは目をそらす。
「それなら、今日は中華料理ですね」
 頭の中でメニューを組み立て、買いものリストを作成する。
「中華なら、海老のマヨネーズ和え食べたい」
「エビチリ作ってあげます」
「マヨネーズ!」
「却下」
 なんでだよ、とぎゃあぎゃあ騒ぐ虎徹を無視して、店に入る。入り口でカゴを取り、歩き始めたバーナビーに、虎徹が追いついた。
 ひょいと、バーナビーの手からカゴを奪う。
「持つ」
 数歩先を歩き始めた虎徹の手から、バーナビーはそれを無言で奪い返した。虎徹がバーナビーを見る。
「作ってもらうし」
 バーナビーはきっぱりと言った。
「怪我人に、荷物は持たせられるわけないでしょう」
 この人は自分が怪我人だという自覚が足りない、と思う。
 バーナビーが迷いのない手つきで、材料を買い物カゴに入れていくのを、虎徹は横から不思議そうに見る。見慣れぬものがあると「これ何」と質問してくるので、バーナビーは料理と使い方を簡単に説明した。
 途中で一度ふらりと虎徹が姿を消し、どこへ行ったのかと思っていると戻ってきて、何かをカゴの中に入れた。
 マヨネーズ。しかも業務用サイズだ。
「……エビのマヨネーズ和えは作りませんよ」
「サラダ食うときに使うから!」
 もともと虎徹のためにマヨネーズは用意しようと思ってはいたが、このサイズはあり得ない。
「買ってもいいですけど、普通のサイズにしてください」
「えー、業務用がいい。すぐなくなるし」
「なくなりませんから」
 虎徹は放っておくと何にでもマヨネーズをかけようとする。自分の作った料理にそんなことをされた日には、マヨネーズはすぐにゴミ箱いきにしてやろうと思う。
 それでも往生際悪く、マヨネーズの良さを語りだした虎徹に、バーナビーは言った。
「マヨネーズ、買いませんよ」
 虎徹は、渋々通常サイズのマヨネーズと交換してきた。
 最後に虎徹がアイスも食べたいというのでデザート用に買って、店を出る。先に車についたバーナビーは、トランクに荷物を入れた。運転席に乗ろうとしたとこめで、虎徹の姿が近くにないことに気がついた。
 見れば、数メートル手前のところで立ち止まっている。虎徹はこちらを向いておらず、何かに気をとられた様子で駐車場の外を見ていた。
「虎徹さん?」
 どうかしたんですか、と言うより早く虎徹が弾かれたように走り出した。突然にことだった。
「虎徹さん……!?」
 呆気にとられたのは一瞬。
 慌てて車のドアを閉め、バーナビーも虎徹の後を思いかける。
 放っておく、という選択肢は思いつきもしなかった。
 駐車場の外の歩道は、人通りが多く、ぶつからないように走るのは一苦労だった。全力で走る虎徹に追いつくのはバーナビーでも簡単なことではない。
 傷口が開いたらどうする気なのだろう、と思った。無茶な虎徹に怒りを覚える。
 それでも何とか追いついて、腕を掴む。これ以上は走らせないぞと自分の方に引き寄せて、バーナビーは怒鳴った。
「どうしたんですか、急に……っ。あなた怪我をしてるんですよ!」
 虎徹は、バーナビーがいることにたった今気づいたというようにこちらを見た。
 いつもは表情豊かな金色の目に、バーナビーが映る。
「……わりぃ」
 謝った虎徹の表情に、バーナビーは驚いて言葉をなくした。
 この表情は何なのだろう。
 途方にくれた顔を、虎徹はしていた。バーナビーに謝った後も、しきりに何かを探すように反対側の道路を見ている。
 虎徹に対する苛立ちが、急速に萎んでいくのをバーナビーは感じた。
 こんな顔を見せられて、怒っていることなどできるはずがない。自分も本当に虎徹に甘い、そう思いながら口調を変えて、バーナビーは問うた。
「どうしたんですか。何か、あったんですね?」
 話してほしい、と顔を覗き込むと虎徹は困った表情になる。何もない、と恐らく答えようとした虎徹を遮って、バーナビーは言った。
「何もない、なんて言葉じゃ誤魔化されませんよ。そんな顔して、何もないわけない。いいから、話してください」
 虎徹はしばらくバーナビーの顔を見つめ、それから観念したように溜息を吐いた。
「……お前の家、行ってから話す」
 ぼそぼそと言った虎徹に、約束ですよと念を押して、バーナビーは内心溜息を吐いた。
「帰りましょう」
 声をかけると虎徹も大人しく頷く。
 バーナビーは虎徹の手を引いて、駐車場に戻った。文句を言うかと思った虎徹は、何も言わず大人しく手を引かれていた。


 バーナビーの家に着くと、虎徹は疲れたのか段差に座って溜息を吐いた。
「傷、痛みませんか」
 買ってきたものを冷蔵庫にいれ、ミネラルウォーターをコップについで虎徹に渡す。
「痛まねぇよ。たいした傷じゃないし」
「あとでちゃんと化膿止め飲んでくださいね」
「えー……」
 飲まないつもりだったのか、という話である。
 バーナビーは虎徹の隣に座ると、それで? と話を促した。
「何があったんです?」
 虎徹は話したくなさそうにしていたが、バーナビーが譲歩する気がないことに気づいたのか、溜息を吐いて渋々口を開いた。
「これだよ」
 ずい、とバーナビーの前に虎徹の左手が突きつけられる。
「何ですか」
 問うと、虎徹は察しが悪いなとでも言うように顔をしかめる。
「だから、あるはずのもんがないだろ? 気づいてなかったのか、バニー」
 虎徹はどうやら、消えた結婚指輪のことを言っているようだった。
 まさか今虎徹にそのことを言われるとは思っていなかったので、反応が遅れた。それを虎徹は勘違いしたらしく、呆れたように言った。
「お前って案外周りが見えてないよなあ。結婚指輪だよ! ほら、ないだろ!?」
 虎徹にだけは言われたくない台詞である。バーナビーのプライドにぴしりとヒビが入ったが、今更気づいていましたと訂正するのも嫌だった。
「――それが、どうかしたんですか」
 恋人ができて、なんて話を今されたらどうしよう、と思う。そんなことを言われたら、自分がとんでもないことをしてしまいそうで、バーナビーは本気で恐ろしくなった。
 だがしかし、しょんぼりと肩を落とした虎徹はバーナビーを驚かせることをさらりと言う。
「なくしたんだよなあ……指輪」
 はあ!? と思わず大声を出すバーナビーである。
「なくした!? 結婚指輪を!?」
 そんな馬鹿な、という話である。していなかったのは、単純に指輪をなくしたからだったのか。喜ぶべきなのか悲しむべきなのかよくわからない。つい昨日までの自分の葛藤を思えば、それならそうと早く言ってくれと心底思った。
 恋人ができたのではなかったのか。
「……大声で言うな」
 虎徹が傷ついたように言う。
 バーナビーは深呼吸をして、落ち着いてから言った。
「結婚指輪をなくしたんですか?」
「声の音量下げて繰り返すな! バニーの鬼!」
 虎徹が半泣きになっているが、この際どうでもいい。
「いつ、どこで?」
 虎徹はもごもごと口ごもる。
 言いたくなさそうな雰囲気だったが、バーナビーは容赦なく問い詰めた。
 そしてじっくり時間をかけて虎徹から聞き出した内容に、バーナビーは心底から呟いてしまう。
「馬鹿なんじゃないですか……」
 虎徹は床に転がって丸まり、いじけてしまった。けれども慰める気にもなれない。
 男と遊んだ日に、指輪を外して失くした、なんて。
 とりあえずバーナビーを暴走させたあの歯形の犯人が、男であったことがこれではっきりした。腹の底で黒い感情が蠢くのを感じたが、バーナビーはそれを押し隠した。せっかく虎徹との関係が元に戻ったのに、また同じ轍を踏みたくはない。
 丸くなった虎徹が、小さな声で言う。
「……見つからなかったらどうしよう」
 元気のない声だった。
 正直、結婚指輪なんてどうでもいいではないか、と思う。指輪が戻ってこないほうが、バーナビーは嬉しい。
 バーナビーにとってあの指輪は、虎徹を捕らえて離さない何かだった。亡くした妻を、虎徹が忘れることは決してないのだと、そうつきつけられているようで苦しかった。
 それでも目の前でこうして虎徹に落ち込まれると、段々どうにかしてやりたくなってしまう。
 惚れた弱み、とはよく言うがまさにそれだろう。
 バーナビーは、溜息を吐く。
 仕方ない人だな、と思う。
「その男が指輪のことを知ってるかもしれないなら、捜せばいいでしょう?」
 虎徹の手に結婚指輪を取り戻す。それを見て、自分は馬鹿なことをしたと思うのだろうな、とバーナビーは予感する。きっと後で後悔することになる。
 それでも、虎徹が悲しんでいるのならば、それを取り除いてやりたかった。自分が健気だと思ったことは一度もないが、虎徹に関する限り自分は本当に健気だとバーナビーは思う。
「捜してあげますよ、オジサン」
「ど、どうやって?」
 虎徹が起き上がって、バーナビーを見上げる。
「色々方法はあります」
 伊達に二十年間、両親の敵を追いかけてきたわけではない。そういうツテやノウハウだけは、いくつも持っているバーナビーだった。



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