寮はひとり部屋で、就寝時刻を知らせる鐘が鳴った後は出かけてはいけないことになっている。真っ暗闇が降り、昼の騒がしさが嘘のように寝静まった建物からは、夜を照らす明かりも殆どこぼれてこない。 なるたけそっと窓を押し開き、螺旋を描きながら上へと伸びる空気の層を捉えて、ふっと息を吸う。 取り込んだ風の渦巻きが体を浮かせるのに合わせ、フロウを窓の外へ投げた。飛び移ると体が沈む。下へと落ちていく体を適当なところで上昇気流に乗せ、森の中に体を滑らせた。 学園を覆う防壁のせいで、"素力"を取り込むのが難しい。 ただ漂うだけのものさえ跳ね返してしまう複雑で強固な仕掛けは、外から中へ術を放つことはできないのはもちろん、壁の中にいる者の力をも閉じこめて使えなくさせる。どこへ行くのにも使えるようチューブが通されているのは、たぶんそのせいもあるのだろう。転移点を使えば土地を有効に使えるのに、そうできない。点を通る際にはごくわずかな"素力"の膜を張らなければならないから、ここでは無理だ。 森は暗い。夜目が利く質でなければ、広く伸びた枝やあるいは下草に絡まれて少しも行かないうちに墜ちる。 どの木々も時が止まったように古くけれど老いてはなく、柔らかみのある若葉が星明かりを受けて淡い緑の光をにじませていた。 「ラト…」 「良く来たね」 紺色に黒がかかる夜闇色の髪が冷たさを含んだ風にふわりと揺れる。 赤褐色の双眸が優しく細められて、手が伸ばされた。無視して通り過ぎようとしたのを、手首を取られて姿勢を崩す。落ちそうになった体を受け止められ、嬉しそうに笑う顔を睨み付けた。 人に害のなさそうな顔をして、やることはえげつない。 僕をこの学園に呼びつけたのは、この男だった。 「ユマリエ、どうして髪を切ってしまったの。そんなに短くしてしまったら、冠をつけられない」 銀に薄水色を混ぜたような長い髪は、冬の湖の底から月を見上げたような美しい髪色だと謳われて、侍女たちが毎日時間をかけ丁寧に梳ってくれていた。かなしそうに髪を撫でる手から、身を捩って逃れた。 「短くしたのは僕じゃない。兄さんたちだよ」 「つまらない手だ。色は劣るけれど、付け髪をすれば問題ないのにね」 「でもラトはいやなんでしょう」 「そうだね。伸びるのを待つよ。婚礼にはやっぱりいちばんきれいなユマリエが見たいね」 そんなことにこだわるラトも、分かって髪を切らせる兄さんたちも、僕には理解できそうにない。分かりたくもなかった。 「わたしのかわいい小后(しょうごう)」 「そのことだけど」 「なんだい」 「返してくれる。僕の承石(しょうせき)」 「どうして?いやになったの?」 「うん」 頷いたのに、ラトは眉ひとつ動かさずに微笑んだ。 「返さない」 「ラト。僕はおまえの子を生みたくない」 「じゃあ生まなくていい」 「后にはならない」 「こわくないよ、大丈夫」 的を射ているようで、外している。 とても大きな国の王子で、第一継承権を持つラトは顔も悪くないし、表向き性格もいい、先を見通す広い視野もある。 せめて側妃になれたらと思う者も多いというのに、小后にはたった1人しかつけない。そしてその地位を僕が埋めるわけにはいかないことは誰だって分かるはずだというのに、いいかげんにして欲しい。 「側妃にならなってあげる」 「側妃はいらない」 「嘘つき」 もういっぱいいるくせに。 よりどりみどりなのに、どうして僕にこだわるのかさっぱりだ。 「ユマには小后しか用意してあげないって言っているんだよ」 「いい、ラト。良く聞いて。僕は僕の国でしか生きられない。1年の半分以上里帰りしている后がどこにいる」 もしラトが僕をこの学園に留め置いても、長くは生きられない。 少しずつ毒を含むような真似だといって、兄さんたちはこの学園行きを最後まで許そうとしなかった。仕方がないので、母に頼んだ。「おまえがそう決めたのなら、反対はしません」母はそう言って、僕が遠く離れるまで兄たちを眠らせてくれた。 「どこにもいないかもしれないね」 「かもしれないじゃない。ありえない」 「別にいいんだよ。ユマの国にわたしも住もう」 「何言ってるの」 みんなの期待がつまった優秀な王子が国を棄てるような真似をして、ただですむはずがない。賢いんだかバカなんだか…。 「ユマが不安でたまらないのは、わたしが好きだからだよね」 ものすごくバカだ。 お手上げだとため息を吐いたところで、遠くから眠り鳥の鳴き声がする。 もう戻らないと。出てきた窓の鍵が元通りかかっててしまう。 「分かっていると思うけど…学園の中では絶対に声をかけてこないで。僕は静かに過ごしたい」 「余生を?」 「ラトが承石を返してくれないと、そうなる」 体の中に取り込んだ風の渦巻きを吐き出して、その上にフロウを置く。 誤って滑り落ちないよう、ラトが握っていた手を離させて、1度だけ振り返った。首に両手をまわして、ラトがゆっくりと髪を撫でるのに目を瞑る。 「どうか幸せになって」 合わせた唇を離して、笑みをうかべる。口の中から水色の珠を吐き出して、フロウに飛び乗った。 「ユマ…っ」 「ごめんね、承石、返して貰った」 急降下する体をラトが捕らえることは出来ない。 手に握った水色の珠は、僕がラトの小后になると約束した、そのすべて。軽く力を込めただけで失われていく誓いの言葉は、夜の闇に小さな光を散らして消える。 「ごめんね」 風の迅い流れに頬を濡らした涙はあっというまに乾き、僕は戻った部屋の隅にうずくまって朝を迎えた。 |