「春の雨」



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[プロローグ・4]

 いつの頃からか青年が自分の父親に気に入られ、手元で育てられ始めたことに男は気が付いていた。父親に従う、自分と同い年ぐらいの少年。遠目に初めて少年を見たときは、いやにきれいな男がいるものだと思っただけだった。
「手続きやらで、疲れましたでしょう。…残りもので作っただけなんですけど、かつおのサラダなんです。少しでも、何かお腹に入れたほうが良いと思ったので…」
 明らかに憔悴した顔に優しげな微笑みをうかべて、青年は癇癪を起こして溜め息を吐かれていた男を台所に呼び、食事を示した。ささくれた気分のまま男は青年を睨む。
 しかし、鼻をくすぐる香りに心が揺れた。もう随分まともなものを食べていなかった気がして、男はテーブルにつく。
「……、おいしそうだ。何か、いい匂いもする…」
「エシャロットですよ。バジルも入れてます。…香草、お好きだと聞いたので」
 簡単に見れば、ただのかつおのたたきと、レタスのサラダだった。だが、実際は手の込んでいることが分かる。食べてみれば、それは明らかだった。
「…うまいよ。上手なんだ、料理。…本当に、おいしい。うまいよ」
 男は嬉しかった。込み上げてくる涙をこらえて、サラダを食べる。純粋に自分のことを心配してくれた青年が、とても大切に思えた。
 いつ恋を自覚したかと言えば、この時かも知れない。男は、青年に恋をしていた。


[4]

「どういうことです、史郎さま!こんな場所で人手もなく過ごせるとお思いですかッ?ここは日本とは比べものにならない広大さなんですよっ」
「……、3回で、ペッティングね。朝からどうしたの、そんな大声出して、らしくない」
 史郎のセリフに、上がり気味だった卓海の血圧は更に上昇した。
 何がペッティングだペッティングだペッティングだ、と、呪いの言葉のように胸の内で怒りを渦巻かせる。だが卓海は大きく息を吸い、どうにか冷静さを取り戻した。ここで落ち着きを失ったら負けだ、と、卓海はわけもなく思う。
 ベッドの傍らに立ち、卓海は寝惚け眼の史郎を見据えた。
「使用人たちを帰したのは、どういう了見なのか、伺っているんです」
「邪魔だから。折角2人切りになれると思ったのに、お邪魔虫がああいたんじゃ困る。就職先を探すの、大変だったよ。おかげであんまり寝てなくて、…すっごく、眠い」
「史郎さまっ」
 寝入ろうとする史郎を引き起こし、卓海はもう1度大きく息を吸って冷静さを呼び戻す。ある程度のことなら目を瞑るが、こればっかりはハイハイと許容するわけにはいかない。死活問題に関わるからである。
「死にたいんですか、史郎さま。屋敷は広くても、僻地なんですよ。門から玄関まで、車で何分かかったとお思いなんです」
「…………」
 ぱちりと史郎の目が開き、卓海は驚いた。ようやく事態を認識したのかと胸を撫で下ろしたのも束の間、腕をぐいと引かれ卓海はベッドの上に引き倒される。
「し、史郎さま!?」
「だから、3回でペッティングって言ったのに。あ、キスも追加か」
「何でそれにわたしが従わないといけないんです、離してください!」
「離さない。離したくない」
 熱っぽい声で、囁かれる。のしかかるように体を押さえられ、卓海は身動きが取れない。
 体をまさぐられた。いつのまにか外されたシャツの間から指が忍び込む。カーテンの隙間から差し込む朝陽に、卓海はいたたまれない。朝から何をされようとしているのか。それでも巧みな指の動きに反応をかえしてしまう自分が憎かった。
 卓海の心境を知ってか知らずか史郎は嫉妬の混じった声を卓海の耳元に囁きかける。
「…昨日言ってた、素人でないって、どういうこと。気になって昨日はよく集中できなかった」
 舌先がうなじを這う。びくりと体を震わせた卓海は喘ぎを洩らすまいと固く唇を噛む。
「こんなに感じやすくて、肌なんてきめ細かくて。…罵らないのは、慣れてるから?それとも、あいつの息子だから?」
「……それ以上、亡き社長のことを持ち出されたら、殴ります」
 涙目で卓海は史郎を睨み付ける。その目を見つめ史郎は優しげな笑みをうかべた。
「卓海になら殴られてもいい」
 やんわりとした愛撫を繰り返す指先が胸元から下腹部へと降りていく。
 卓海がその先にあるものを触れられる覚悟した途端、バタンと乱暴に部屋の扉が開いた。
「おっはよう!やあ、可愛い甥っ子くん、ご機嫌いかが、っと、あれ、お取り込み中?」
「ふ、深見さま、出ていかないで下さいっ!」
 開けた扉をそのまま閉めようとする寸前で、卓海はどうにか訪問者をそこに留めた。
 呆気にとられたらしい史郎から力が抜ける。その隙をついてベッドから抜けだした卓海は、素早く身だしなみを整え、紳士然と佇む長身の男の前で一礼した。
 深見は史郎の伯父である。今回の史郎の渡英に関して一応後見人を努める人間だった。



 室内には不自然に沈黙が続いていた。深見は恐る恐るといった表情で卓海を見やる。
「た、卓海くん、取り込み中だったんじゃ…?」
「誤解ですよ、深見さま。史郎…さん、深見さまにご挨拶を」
「……ぐっもおにんぐ、深見の伯父」
「ほ、ほら。馬に蹴られて…って言わんばかりに、機嫌が悪いみたいなんだけど…」
「気のせいです」
 優しげな微笑みと共に言い切った卓海は体全体で不機嫌を示している史郎の鋭い視線を受け、嫌々ながら史郎を振り返った。
 これ以上史郎にいいようにされるわけにはいかないが、深見の前であからさまに史郎を拒否するわけにもいかない。
「史郎さん。朝食の方はいかがいたしますか。深見さまがお見えになられたことですし、手近なホテルにでも」
「……卓海が作ればいい」
「……え?」
 予想外の提案に卓海は怪訝な顔をする。そこにまた付け込まれてはと、すぐに顔を引き締めた。
「わたしはコックではありませんが」
「材料はあるだろう。なら卓海が作ればいいじゃないか。今からどこかに出かけるなんて、面倒くさい」
「……ですが」
「卓海の料理が食べたいんだよ。いいじゃないか、卓海の料理がうまいことぐらい知ってる」
「……………」
 卓海は史郎の頑迷な態度を不思議そうに見つめた。卓海はどうして史郎が自分が料理がうまいと言い切れるのかが分からない。史郎の前で食事を出した記憶が卓海にはなかった。…記憶自体から言えば、実は史郎の父親が危篤になった辺りから、史郎が社長の座に就く頃まで記憶があやふやな卓海なのだが。
 卓海の困惑をどう受け取ったのか、事の成りゆきを見守っていた深見が心配そうな顔を卓海に向けた。
「出来、そう…?」
「…一応は……。社長のお夜食を作らせていただいていたこともありますので…」
 卓海の回答に史郎はフンと不快そうに鼻を鳴らすとベッドから降り、深見の傍を横切った。
「シャワー浴びてくる。…深見の伯父。卓海を手伝ってやってください。あなたは余計なんだから」
 苛立たしげな足取りで史郎はシャワールームへと消える。
 伯父である深見になら史郎の態度を繕う必要もない。だから卓海は深見と視線が合うと、いつもの気紛れでしょうと言い切った。
 それ以外に史郎の行動は掴めない。今までがそうで卓海は史郎の言動や行動を深く考える気など、全くなかった。



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