「青く沈む」



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 肌にまとわりつくような梅雨独特の湿っぽさが、い草の匂いと混ざるように部屋を満たしていく。部屋の中から眺めた中庭はようやく雨が止み、石灯籠や緑の葉から静かに水の粒が滴っていた。
 部屋の主より少し離れた位置に座る来訪者は、丁寧な挨拶を述べて端正な面差しに場を和ませるような笑みをうかべた。
 尚人はただいつものように適当な肯きを返して応え、開け放したままの戸から中庭をぼんやり見つめた。ぶぅんと羽を震わせてトンボが通り過ぎ、すぐにどこかへいってしまう。軒先から滴り落ちた水の粒が輪を描くのを辿り、それも飽きて、しかたなく手もとへ落とす。
 座っているのも辛いのが正直なところで、石の場で散々苛まれてから、まだそう経っていない。後にして欲しいと伝えるのさえも面倒だった。彼がこうして会いに来るのはいつものことだから、億劫がるほどの内容がそこにないことも分かっている。しかしだからこそ、そんなことに時間を費やさなくてはならないことに苛立ちを覚える日もある。
 今日の尚人は少し、機嫌が悪かった。
「……圭也さん。もういいです」
 重ねられるいたわりと慰めを遮り、首を振った。
 雨を降らせていたねず色の雲に朱色が差して、仄暗い部屋の中を紅く染めていた。
 陽の光の翳った日暮れは、多少の顔色の悪さも不調もやろうと思えば誤魔化せる。普段は味気ないほどまでに反応が薄いのを珍しく遮ぎられ、さすがの彼もいつもと違うことに気付いた。母方の叔父ながら9才しか違わない青年は眉を寄せ、少しの間じっと窺うように視線を寄せてくる。
「…どうしたの、具合が悪いのかな。人を呼ぼうか」
「……いりません。圭也さん、もういいんです。後少しの辛抱なんて気休めはもうけっこうですから」
「何回も似たようなことを言って、適わないままになっている。確かに現実性のないことを言っていると思っているだろうけれど、いっかきっとと思うんだよ」
「……………」
 立てば尚人より頭1つ分は軽く超えるというのに、痩身のせいか、眼差しの柔らかさか、彼にはどことなくひっそりとした雰囲気がある。
 ぴんと背筋の伸びた見目の良い姿勢が良く似合っていた。どこまでも礼儀正しく、清冽で、悪く言えば融通が利かない叔父がふわりと花開くような笑みをうかべるのを尚人は黙って見つめた。
「至らない叔父を苦々しく思うのは当たり前だよ。信じてくれなくていい、幾らだって恨んでいい。ただ、絶望だけはしないでいて欲しい」
「圭也さんは僕を高校に上がらせてくれました。とても感謝しているんです。でももう、充分なんです」
「尚人くんは榊の大切な遣え人ではあるけれど、かわいい甥っ子でもあるし、君を残して逝かなくてはならなかった姉さんの為にも力になれることがあるのなら、なんでもしてやりたいんだ」
 圭也は本家の重役たちから大反対を受けたのを押しのけて、甥っ子の進学を現実のものとした。
 無理と無茶を押し通した意見であることは広く知られている。宗主の最も近くで仕えているのに、危うく追放されそうにまでなった。義務教育が終えるのと同時に家に閉じこめられるはずだったのを、圭也は救ってくれた。感謝してもしきれないと尚人は分かっている。
 たとえ尚人の苦しみの根本的なところには何の解決も示していなくても、責め立てる理由はない。
 求められているのは従うことだけ。役目に不都合がないぐらいの知能があればいい。学歴など要らない。外に出る必要もない。同じ役目を負った多くが閉じた家の中で一生を終えてきていて、自分だけ例外でいたいと求める事なんて出来ない。
 異能の血を引く一族の、本家の人間として生を受けた。もともと尚人は、他の誰かにそれを強要する立場にあったのだ。
 次の宗主だと言われて育ち、物心つく前から一族の主人としての教育を受けてきたから、多くの人たちにとってはどんなに奇異に見えることも、必要だと分かっている。
 いつも誰かが請け負っていたことをたまたますることになっただけ、頭ではそうと分かっている。でも、逃れられるなら逃れたかった。
 情けないと思う。どこかでこの叔父が止めてくれるのを待っている。もう終わりだと言って欲しいと願ってやまない自分がいる。適うはずがないと分かっているから、口にしないだけだった。でもどうにかして欲しいと望む気持ちはたぶん誰よりも強い。
「榊家は代々続く負祓(ふばら)いの家系。尚人くんはその中でも重要な役を担っているわけだけど」
「…負祓いなんて、もう忘れられた力です」
「そうかな。必要としている者は大勢いる。表に出なくなって随分長く経ったけれど、尚人くんは負を祓う力が不要だと思う?」
 返された問いかけに、自分で言い出したことなのに尚人は肯けない。
 死んだ者や恨みや憎しみなどの感情は、負の気になる。負の気は大気に溢れ、そのものや集まることで害をなす。榊家は負の気を祓い清める力を持った一族だった。
 人の恨みを買いやすく、同時に負の気を集めやすい権力者たちなどに代々重宝されてきた。負祓いが現在も密やかに必要不可欠とされていることは、事実である。担い手が減っていても需要は高まり、希少な能力者を抱える一族の権力は増していた。
「榊家の他にも負祓いが出来る能力者はいるよ。けれどその中でも榊家の果たしている役目が大きいことは、分かっていると思う。…辛いだろうけど、尚人くんはこの榊家の大切な遣え人。ただ1人の担い手なんだ」
 守護のこと。遣え人のこと。すべて知りながら誉れあることのように言うものは殆どない。神でも人でもない守護に捧げられた遣え人は肉体を嬲られ気を奪われる、使い捨ての贄でしかない。食料になっているのならまだいい、人質でさえない。どちらかといえば無聊を慰める玩具のようなものだからだった。
 それでも圭也は決して遣え人を否定しない。
 一族を守る守護の存在を知っていたとしても、せいぜい姿も意志もないような在ってないものような、先祖を敬ったものだと誤解している者もいる。彼はそうではない。なにもかも全て知って、なお受け入れる。
 彼もまた本家の人間だということ。そして尚人もそうなのだ。
 開け切った障子戸の向こうに広がる美しい庭は、古くから血を続かせ延々と1つの生業を続けてきた一族の、すべての歴史を呑み込んでただそこにある。表の顔を持つ本邸は広大な敷地を有しているが、その中から一歩たりとも出ることなく骨を埋めたものも少なからずいることを、尚人は遣え人になってからはじめて知った。
 遣え人の代替わりは、役をこなせない不都合が起きたときのみ。つまりは前任者の死亡時で、それ以外はほとんどありえない。
 押し黙っていると遠く鹿威しの音が鳴るのがやけに大きく聞こえてきて、尚人は憂うつになる気持ちを押し隠すように瞼を伏せた。
 尚人が遣え人になった頃に今の宗主が置いたものだから、まだ新しい。はじめは耳慣れなかった。なのに今はもうずっと昔からあるような気もする。それだけの時がたち、代替わりを期待するのはとうにやめた。
 一族の歩みの中で密やかに続いてきた役目を継いだとき、尚人はもう他の何かにはなれないことを知った。それでも違う道に思いを馳せることはある。
 やさしい言葉をかけてくれる叔父に、彼のほほえみに倦んだ心を慰めて貰いたくなる。
 けれど彼は宗主のそばで働く人間であり、宗主のためになら甘やかな言葉にたっぷりと嘘をこめることも辞さないことも知っていた。
 だから時々、どうしようもなくいらだつ。思い通りにならない目の前の存在へ、怒りが込み上げた。
「遣え人である僕など、本当は忌まわしくお思いなのでしょう」
 言葉は圭也を責め、言葉尻はきつくなる。それとは裏腹に震えが混じりそうになり、尚人は唇を引き結んだ。
 口では要らないとはねつけた、いつも彼が言うような気休めや、優しい言葉や、他愛ない夢物語。自分からそれを求めてしまったら、少しのがまんもできなくなってしまいそうでこわい。それを知られたくない、けれど気づいてほしい。
 わがままな思いだ。当たり前ながら、うまく伝えることはできない。
 複雑な心中の尚人に対して返された言葉は願いとは違うもので、尚人は静かに耐えて、目を瞑った。
「守護を心安らかに出来るのは、尚人くんだけ。尚人くんだからこそ、これほどまでの安寧がもたらされているのだと思う。誇らしいに決まっているじゃないか。…今は辛いだろうけれど、尚人くんならきっと頑張ってくれると信じている」
 近くに体をずらした圭也にそっと手を取られる。咄嗟に体を強張らせた尚人は、慈しむように手のひらを重ねられ泣きたくなった。何もかも忘れて縋りたい。
 でも彼の言葉はそれを許すものではないのだ。
 かつてはただ無邪気に慕うだけで良かった。手のひらから伝わる温もりは記憶と違わず優しく、余計に叔父との間に深く遠い流れが隔たってしまったのを際だたせる。
 たとえ嘘で塗り固められていたとしても、可哀想にとただ抱きしめて欲しいと思うのは欲張りというものだろう。かつては当たり前に与えられていたのを今更欲しがったのが恥ずかしく、もう得られない現実は思いのほか尚人の心を打ちのめし、立ち直るためには多くの時間が必要だった。



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