「青く沈む」



- 3 -

[back]  [home]  [menu]  [next]



「尚人…?どうしたんです、こんなところまで…」
 本家本邸の奥に与えられた部屋から抜け出し、出来るだけひと気のないところ目指していた尚人は、声をかけられて振り返り、見覚えのある数寄屋風の屋根を見つけて驚いた。
 特別な巫のいる住まいは本邸の敷地の中でも最も深く、隠されたところにある。余所とは離れていて、ほんの少しのつもりがずいぶんと遠くまで来てしまったようだ。
 あてもなく歩きつめていた疲れと徒労感に力が抜けて、尚人は巫の青年を見上げた。
 色合いの良い白緑の着物に羽織を着た巫は、風に煽られた髪を困ったふうに押さえながら少し驚いた様子で軒先に立っている。彼の住まいに無断で立ち入れるものなど、有りはしない。闖入者に対して、どう対応すればいいのか戸惑っているようにも見えて、尚人は頭を垂れた。
 瞼をぎゅっと押さえてぼやけていた視界を拭う。
「…、申し訳ありません。お許しなくお庭に入りました」
「尚人ならいつでも歓迎ですよ」
 巫はやわらかに口許を笑ませて、庭に降りて尚人の前に立つ。くるりを周囲を見渡した。
「圭也は一緒ですか?」
 何気ないひと言に緊張する。
「…いいえ、母屋へ戻られました。こちらには僕だけが」
「あれはまたお定まりの話をしていったのでしょう。もう少し時間をおいて来れば良いのに、気がつかないこと」
「圭也さんは、いつも慰めてくださいます。ありがたいことです」
 本当は苦痛に思うことも、たくさんある。ありがた迷惑な話など山ほどあり、それでも答えた尚人の顔には何の含みもない。
 巫は頷き、気性を映すように真っ直ぐ伸びた黒髪を撫でた。
 尚人と圭也は、叔父甥の関係でいうには年が近い。けれどだからこそ温度差が際だつ。
 尚人は彼につよく叱られたことも褒められたこともないし、意見違いでぶつかったこともない。そうなる前に、彼が譲る。叔父である圭也が甥へ向けるのは当たり障りのない付き合い。彼と尚人は血が繋がっているし、同じ敷地の中で暮らしてもきた。けれど彼にとって尚人は家族でない。
 一方で尚人にとっての圭也は、憧れであり尊敬に値すべき人であり、兄のように慕ってきた人である。
 圭也は尚人に優しいが、優先順位も占める割合も低く、いざというときに守らなければならない人がいるとしたらその相手は別にいる。彼は宗主を崇拝していて、それを公言して憚らない。
 ひと言に家族といっても様々な形があるだろう。実の親子でも家族関係をうまく築けない場合もあるし、血の繋がりがなくても、家族としてやっていける者もいる。
 尚人が望むのは後者であり、精神的に受け入れて貰うことを望んでいるわけだが、圭也にとっては、尚人は姉の子どもであり、榊家の子どもであり、遣え人である、それだけなのだ。
「お許しなくお住まいに近付いて申し訳ありませんでした。もう戻ります」
「待ちなさい、そのような格好では…」
「……明様?」
 手を取られて巫を不思議そうに見上げた。快く見送ってもらうのは難しいとはしても、引き留められる理由がない。戸惑う尚人に巫は慈しみにあふれた眼差しを寄せ、親が幼い子にするように頭を撫でると、羽織を脱いで着せかけた。
「寒いでしょう。夜着一枚では風邪を引いてしまいますよ」
 自分が着ている、白い単衣の夜着姿を見下ろして尚人は首を傾げた。
「寒くないです」
「そんなこと言って、体は冷え切っていますよ」
 尚人が与えられている部屋には物らしい物がない。欲しいものや用があるときはいちいち外から人を呼ばなくてはならず、着替えひとつするのも自由気ままにとはいかない。
 できるだけ何も望まず何も感じず、ただ時が過ぎるのを待つだけの生活に慣れた尚人は、気温の変化に鈍くなっている。
 雨上がりの外は冷え込んでいて、初夏だというのに震えるほど寒い。
 蒼いまでに血の気が引いた唇を見れば寒くないなんてことはありえない。巫は小さなため息を吐いて首を振る。ふわりと指先を包む巫の温もりに尚人は目を見開いた。
「あ、明様…?」
「ほら、こんなに冷たくなって。中へいらっしゃい」
「い、いけません」
 冷え切った手を手のひらに包んで、少しでも暖を分けようと息を吹きかける。それぐらいではちっとも温まらないのに焦れた巫は、室内へ案内しよう尚人の背を押した。尚人は立ち止まり、抗うように後退る。
「どうしたのです?」
 どうしたと聞かれても困り、尚人は巫の顔を見上げた。あまりに当たり前すぎる問いだった。
 祭祀を取り仕切り、巫邸で一生を終える彼は同じ敷地にある本邸にさえ滅多に赴くことはなく、一族の奥深くで大切に守られる尊い人である。
 尚人がまだ次期宗主と言われていた頃でさえ、顔を見たことも言葉を交わすこともなかった。遣え人程度が軽々しく話して良い人ではない。勝手に庭先に入り込んだ挙げ句、中に入れて貰うなどとんでもない話なのは、本家の人間なら幼子でも分かる。
「尚人は私といるのは嫌かも知れませんが…」
「とんでもありませんっ。そのようなことはありません」
 尚人は素早く首を振る。巫がいなければ遣え人は成り立たない。巫は遣え人を守護のもとへ連れて行くことができる唯一の存在だ。逆恨みをするなら彼ほど適当な人はないが、不思議と彼を憎いを思ったことがない。むしろ心から感謝している。
 彼は長逗留をさせがちな守護相手から何度も強引に連れ帰ってくれていた。きっちり時間に正しく迎えに来てくれるだけでも、いつも良いように振り回されている尚人にしてみれば誰よりもありがたいことなのだ。
「明様は大切な御方です。でもそんなふうに思うのも畏れ多いことですから…」
「寂しいことを言わないで下さい。私は私、屋敷の誰とも変わらない同じ只人です。尚人さえよければ、いつでもこの邸まで来てほしいぐらいです」
「…でも、……」
「さあ、こちらへいらっしゃい」
 半ば強引に呼び寄せて、冷え切った体を撫でさすって暖めてやりながら、巫は不安げな尚人に微笑みかけた。
 やさしい笑みとぬくもりに、甘えて良いような人ではないと分かっているのに気持ちが震えて、尚人は戸惑う。
「辛かったでしょう。うんと頑張ってしまいましたね」
「……っ」
 もういやだ。もう頑張れない。泣き言をゆるしてほしい。
 さりげなく尚人の胸中を言い当てた巫に、尚人は込み上げてくるものを堪えることができなかった。
 分かってほしかったのはそれだけだったのに、うまく伝えられなかった。
 圭也にとっていちばん大切な人が誰かを知っているのに、その人を越えるぐらい大切にして欲しいとねだるような、愚かな真似をした。
 尚人は巫に握られていない、もう片方の手のひらで顔を覆った。
「あ、きらさま…」
「尚人…、何があったか教えてくださいますか」
「……、なにも…ただ」
「ただ?」
「自分がとても恥ずかしいです。わがままな自分に嫌気が差します」
 自分の部屋から巫邸まで、考え続けていたことがこぼれ落ちる。
「今度こそ僕を嫌いになったに違いありません…。ほんとうはおぞましいと思っているのに、我慢してくれていただけかもしれないのに、僕は」
 自分を忌まわしく思っているのだろうと、わざと試すように言った。
 そう言えば、少なくとも圭也ならその通りと応えはしないだろうと分かっていて聞いた。
 結果的に圭也は言明せず、安堵して然るべきなのに、そのことに尚人はショックを受けた。
「大丈夫、そんなことはありません。いつだって欠かさず会いに来ているでしょう。すぐにまた、うっとうしいぐらい顔を見せに来ますよ」
 巫の声に慰められ、尚人は潤む目を手のひらで拭った。
 甘やかしてくれる巫の声音が心地よい。巫は優しい。叔父の圭也では得られないものを与えてくれる。
 それなのに尚人は満ち足りない。昔に戻りたいと思うのだ。
 遣え人になって覚え込まされた恥辱も、後ろめたいまでの淫らさもすべてなかったことにして、その上でただかつてのように圭也のそばにいたい。何も知らなかった時に戻りたいわけではない。けれどあの優しい時間が恋しい。
 わがままが過ぎるのだと分かっている。叶わない願いだと分かっている。それでも願い乞いたい。
「……温かい飲みものでもだしましょうね」
「…………」
 濡れた頬を手のひらで拭ってやり、巫は細かに震える体をゆっくりと、力強く抱きしめた。
 細身の巫の腕でも、すっぽりと覆い尽くせる華奢さが心許ない。
 これ以上の弱音が漏れるのを拒むように固く唇を引き結んだ尚人に、巫は部屋の中を示す。向けられるぬくもりを拒まず、尚人は小さく頷いて従った。




 尚人の部屋と巫邸は同じ本家の敷地内にあるが、中の雰囲気はまるで違う。
 ここは床を踏めば微かに軋み、戸の緩みがあるのかどこからか風で揺れる音もする。
 本家にある尚人の部屋に用意されたものはどれも上等なもので、巫邸にあるものと比べても決して勝りこそして劣りはしない。
 だが巫邸の方がずっと過ごしやすい気がした。長年丁寧に扱われてきた家具や柱の木材は丸みを帯びて、目に優しく触り心地もいい。
「松窓の部屋がちょうど暖まっていますから、先に行って休んでください。中にちょっと見慣れないものがあるかもしれませんが、遠慮せずに退けておいてくれてかまいませんから」
 頷いて、歩き慣れた道を辿った。言われた部屋は知らない場所だったが、中庭から松がいちばん良く見える部屋を松窓といい、他に桜窓、柳窓などがある。
 許しなくては近寄れない巫邸とはいえ、中に入るのはこれが初めてではない。
 巫邸の離れには遣え人として使う部屋があるからだ。本来は巫の私的な場である母屋には立ち入るべきではないのだろうが、彼はまったく気にしていないので、離れから直接連れてきたり招いたりして、尚人が本家滞在中の時にはここが家になれるよう気を配っている。
 けれど今まではその気遣いが報われることはなかった。尚人が自分から巫邸へ来たのは今日が初めてで、巫は尚人が無意識にでも足を運んでくれたのが嬉しかった。
 硝子戸に覆われた外廊下を回って中に入り、念のため中庭が臨める場所から位置を確かめる。指定された部屋の前まで辿り着き、壁材と同じ飴色の木で設えられた引き戸に手を掛けた。
「失礼します」
 真新しい、い草の香りがあふれてくる。
 畳を替えたばかりなのかまだ青々とした畳の目が飛び込み、足裏に柔らかい。
「よく来たねえ、雨は止んでた?…ってなに、この寒さでそんな薄着で、そもそもそれで外を歩いたらだめだよ」
「…………」
 くるりと反転して開けたばかりの戸に手を掛けよろめいた。逃げようとした訪問者を先客が素早く裾を引っ掴み強引に制したせいで、尚人はやや強かに障子戸で顔を打つ。
「……う…」
「おや、ごめんね」
「…も、申し訳ありません。あの、…部屋を間違ってしまって」
「いや、あっていると思うけど。松窓の間でしょう、明が言ったのは」
「は、はい…」
 尚人は打った鼻を押さえて、早鐘のように乱れうつ心音をどうにか落ち着かせようと、一呼吸置く。畳の上に膝を付いて、伏した。
 部屋にいた先客に対し、改めて礼をとる。
「宗主がおいでだとは知らず、失礼いたしました…」
「私が勝手にここにいるだけだから、そんなふうに畏まらなくていいよ」
 にこにこ無邪気そうに目を細めたその人は現榊家宗主であり、尚人の5つ離れの従兄である。
 ただし体付きは尚人よりも小さい、むしろ幼いといっていい。顔つきからしてもせいぜい11、2才の子どもにしか見えないが、れっきとした成人男性である。強すぎる力の為に体の成長が止まってしまったといわれており、一族の中で最も優れた能力を持つ術者だった。
 非礼を詫びて改めて引き返そうとした尚人は、不機嫌そうに眉をひそめた宗主を前に退出を諦めねばならなかった。
「こちらに来なさい」
「…、ですが」
「ほら、早く戸を閉める」
 幾ら宗主の求めがあるからと、ハイと頷いて隣に座るのは抵抗があった。
 相手は榊家でいちばん偉い、最も敬うべき相手なのである。叔父が敬愛する人でもあった。
 尚人は遣え人になったとき、叔父の圭也から目上の相手に対する礼儀作法をたたき込まれた。次期宗主と目されていたため、尚人は目上目下の意識がまったくといってなかった。現宗主である従兄の和真に対しても、ごく普通に和真と名を呼び捨てていたし、彼が宗主となった後もしばらくは和真さんと呼んでいたぐらいだ。
 ぐずぐずと態度を決めかねていた尚人にため息がこぼされる。
 やはり退出すべきだと体を翻した尚人は再びそれを止められることとなった。
「宗主。もう少し言い方というものがあるでしょう。尚人もこんなお荷物は踏んづけるぐらいの勢いで入れば良いんです」
 立ち尽くす尚人の背を押して共に中へ入った巫が、横目で宗主を睨む。
 謂われのない非難だというようにその視線をかわした宗主は、にっこり目を細めた。
「今日はまたびっくりするぐらい寒いねえ。ほんとに夏になるか心配なぐらいだ」
「ええ、そうですね。寒がりなあなたは大層堪えているでしょう。今回はそれが役に立ちましたが。さあ尚人、まずは着替えましょう」
 答える巫はつれない。よく暖まった部屋は宗主のために用意されたものだった。
 巫は憮然とした宗主を余所に立ちつくしている尚人の手を取って、腕に抱えた明るい色の夜着を広げた。有無を言わさず泥跳ねのある夜着を脱がせて着付ける。
「水色の地にススキと蛍?」
「かわいいでしょう」
「そうだね、似合うよ」
「隣の部屋に布団を敷きますから、まず少し休みましょうね」
 宗主を前に体を横たえて休むなど失礼極まりない。
 辞去する機会を窺っている尚人を、巫は優しい表情で諫めた。
「私の前では立場の上も下もありません」
「明の言うとおり。悲しいことに巫に強く出られたら、宗主も従うほかない。ここは従っていればいい」
「…………」
 従うほかないと弱々しい言葉を言いながらも、悲しそうどころか楽しそうにしか見えなかったが、尚人は礼儀正しく口を噤んだ。
「それにね、黙っていればバレない」
「そうですよ。こんな僻地に好んでくるのはこの子ぶたさんぐらいなものです。さあ、お茶を飲んだら少し眠りましょう」
「誰が何だって、巫さま?」
「失礼しました。こちらのふてぶてしい宗主さまがです。暑い寒いと口うるさく居座る相手に何の遠慮が要りましょう」
 口では罵りあいながら息の合った動きでお茶をいれ、寝床をしつらえる2人を呆然と眺めていた尚人は、気付けばお茶もいただき、布団にも入れられていた。
 促されるまま体を横たえてみるとすぐに瞼が重くなって、辺りを気にする余裕もなくなる。昔から従兄のいる部屋は丁度良い温度に保たれていて過ごしやすく、うたた寝するなら和真のいるところほど心地よい場所もなかった。
 瞼を閉じると雨の音が聞こえ、また雨が…と呟いた宗主の声が聞こえたのが最後だった。もともと寝付きが良い上に、疲れのあった尚人は瞬く間に深い眠りへさらわれてしまった。



- 3 -

[back]  [home]  [menu]  [next]