尚人が遣え人になったばかりのことである。 わけが分からないまま施されていく苦痛と恐怖に挫けきった尚人が本家の部屋にあるだけの術を仕込んで閉じこもった。そのときにはもう半分ぐらいの力しか使えなくされていた尚人の術など簡単に破られ、引きずり出された尚人の前に待ち構えていたのは、残酷な仕打ちだった。 暗い本家の奥の間にうずくまり震える尚人の前で、小さな獣の首筋に長さがある鋭い針先があてられる。針を手にしているのはかつての世話係だった。 思わず立ち上がって駆け寄ろうとすると、黒服を着た男たちに背後から取り押さえられ這いつくばらされる。首だけを必死に持ち上げて、狐の仔の首筋に針をあてた男を尚人は泣き腫れた目で睨んだ。 「…み、や、…美矢(みや)っ…どうしてそんなことを…っ」 「分からないのですか」 尖った針先が黄金色の毛の中に浅く微かに沈む、途端に小さな体が火でも触れたようばたつき甲高い鳴き声が響いて、蒼い顔から更に血の気が引いた。 このまま我を通していけば、間違いなく奪われる命がそこにあった。 「……遣え人をやれというならやる、だからやめて…っ」 叫ぶように言いながら、ぽたぽたと涙が落ちる。 大切な役目だと聞いた。けれど詳しくは何も知らなかった。祖父も、世話係も、誰も教えてなどくれなかった。あんまり話したがらなかった理由をようやく知った。 自尊心を砕かれ、めちゃくちゃにされて。 はじめての務めの日、連れて行かれた湯室で行われた身支度に抗い、泣いて、けれどその先には更におそろしい仕打ち。真綿にくるまれるようにして育った子どもが全力で拒絶を示しても何ら不思議はない。 「ほんとうに?そんなことを言って、どうせまた逃げ出すのでしょう」 何度も逃げ出しては大して距離もとれないまま捕まえられる。 遣え人に与えられた部屋から表へと繋がる廊下はあまりにも離れていて、どんなにひと目を盗んだつもりになっても、すぐに見つかってしまう。 今度こそ大丈夫だと期待した次には、廊下の影から手を掴まれ引きずられる。そうして幾つもの敵意に晒され、欲望に濡れた息を吹きかけられた。悪夢は科せられた務めだけではない。 日々の務めをどうにかがまんして逃げるのを諦めても、待っているのは嫌悪と恐れに泣く毎日だった。部屋の外に待ちかまえている者たちは顔や名を知られるのを嫌って暗がりでしか手を出してこられないと分かっても、わずかな慰めにしかならない。 務めだといって自分を迎えにくる相手がいる限り、悪夢は終わらない。 悪夢に悪夢が重なる。とうとう堪えきれなくなって、閉じこもった。部屋の外にさえ出なければ、悪意も、悪夢も訪れない。もし失敗したとして、今ある苦しみと何も変わらない。そういう投げやりな気持ちもどこかにあった。 浅はかな考えだった。こっそり餌を与えていた小さな獣が世話係の手にあるのを見て、尚人はようやくこの日々に終わりなどないことを知った。 かつて世話係だった彼は今の主人の命に何でも従うという。命令をこなすためならどんな残酷なことでも行うと。そんなことは有り得ないと否定し続けてきた。まさかそれを身を以て味合わされることになるとは、思ってもみなかった。 美矢は子どもの頃に付けられた世話係だった。 ほんの少し前までなら小さな主人が青ざめて震える傍に黙って立っているようなことなど考えられない。切れ長の目は傍目には冷ややかに見えても、厳しい口調で話をしても、暖かさに溢れていた。嵐が酷くて眠れない夜にはずっと添い寝をしてくれたこと、風邪を引けば一大事といって難しい本までたくさん読み込み、看病をしてくれたこと、危ないからと止められていたのにこっそり池の小舟に乗せてくれたこと。 すべてがなかったことのように冷たい眼差しを向けてくる青年の手には、尚人が可愛がっていた獣の命が握られているのだ。嘘だと叫ぶ気力も、怒りも、湧いてこない。迫り来る嵐に逆らっていては自分も、他も、傷ついていく。もう充分だった。祖父が死んでから尚人の生活は徐々に変わっていったが、今はどこがどう変わったのかなどありすぎて判別が付かない。 「言われたとおり続ける。僕の名において誓う。…僕の名に誰も価値を見いださないとしても、僕は僕に約束する。だから…美矢、その仔を離して」 「よろしいでしょう」 肯き、針を首筋から離す。青年が狐の仔を障子の外に放すのを、尚人は黙って見送った。小さな体はたちまちのうちに藪の中へ消える。恐怖を覚えたこの部屋戻ることはない。野生に帰り、人に近付くこともないに違いないだろう。 小さくてうんと温かいあの仔どもを抱くことは決してない。さびしかったが、慈しんだものと引き離される辛さも、裏切りも、もう知りたくなかった。 体を押さえた男たちの手が着物にかかり、上半身を強引に剥き出される。尚人の口を布の詰め物で塞いだかつての世話係は、用意させていた術具を手にする。 それが何かを見て取って恐慌状態に陥った尚人の体を難なく押さえ付け、しなやかな腕が青白く光る棒の先を剥き出しになった胸の中央に押しつけた。 まばゆい光が、白い肌の上に線を刻む。 「…ぁー……ッ」 尚人は大きく体をのたうたせた。喉が震え、額から玉のような汗が滴る。衝撃が強過ぎてうまく息が出来ず細切れに喘ぎ、涙があふれる。 「しっかり押さえていなさい」 拘束を緩めそうになる男たちを叱り、美矢はたじろぎもせず施術を続ける。 棒を離すと、蝶と蔦をあしらった榊家の家紋が、藍色の痣となって肌に残った。 急激に血の気がひき体が冷えると、徐々に痣も姿を消していく。崩れ落ちた体を男たちはそっと畳の上に置いた。 榊家に伝わる特殊な印は遣え人としての証として捺される。それは尚人に残された最後の一線だった。 身に刻まれたのを境に、正式に任じられたというだけでなく、守護や宗主に従うよう戒めがかかる。代替わりしたときには意味が消失すると言われていたが、決して引き返せないところに来たことだけは確かだった。 命じられた仕事を終えた美矢は手にしていた術具を片付け、かつての主から離れる。細い体を押さえ付けていた男たちはそれを合図としたように、まだ薄っすらと印の痕の残る個所に舌先をあてた。ぼんやりと意識を飛ばしていた尚人は、はっと我に返った。 「…っッ」 印の痕に舌を這わされるごとに、体は過敏な反応を返した。埋め込まれた火が燃え立つように肌がぼぅと火照ってくる。男たちの顔は少年の素直な反応に欲望をあぶられ、容赦のない力加減で胸の飾りを摘んで爪を立てる。 痛みに呻いた尚人は、その中に知ったばかりの甘さがあることに驚いて逃げようとしたが、体はきっちり押さえられていて、動かない。 「…な、に……」 体温の上昇と共に、消えかかっていた痣が鮮やかに浮きあがってくる。指先で仄かに青く光る線をなぞられると、まるで体中の快感の線を弄られたように痺れて足が震える。着物の裾からあらわになった白い肌に男たちの視線が吸い込まれる。 「…いや、ッ、離、…せっ」 「無駄ですよ、尚人。これからは守護や宗主の機嫌を損ねないようにしなければなりません。その印ひとつで、意のままですから」 汗のにじんだ肌に、くまなく指先を這わせられる。嫌だと訴えたすぐ後に胸の粒を含んで歯を立てられ、涙がいっそう溢れてくる。 突き飛ばして逃れたかった。焦り、戦く気持ちとは裏腹に手足は思うように動かない。痛みに体力を消耗したというだけでなく、動揺が尚人から力を奪っていた。 憐れな悲鳴をこぼすほかないかつての主人を部屋の隅から見下ろし、美矢は微笑みをうかべたまま冷ややかに目を細めた。 「あんな狐のことなんて知らないと言えば、違う未来が始ったとは思いませんか」 「……、ちがう…っ」 「違う?なにがです?」 「おじいさまが亡くなったときから、仕組んでいたくせに。他には何もないようにしていたくせに…っ、ぁぅッ」 冷たい感触と共に、クリームを掬った指先が固く閉じた襞の中へねじ込められる。途切れ途切れの息を吐き、涙を堪えるように唇を噛んで首を横に振った。 遣え人に選ばれてから、幾らも経たないうちに何度も開かれた体は快楽を教え込まれている。奥深い一所を抉られた尚人は、細く悲鳴が上げて小さく足掻いた。 「美矢、…あんなことをするって。あんなことだって知っていて黙っていたんだ。圭也さんのように我慢してくれとも言わないのは、…美矢もずっと……僕を憎んで…、たから…」 先々代宗主である祖父が亡くなってから、年々風当たりが強くなっているのは感じていたが、ついこの間までは先の宗主が庇護してくれたし、あの優しい祖父を恨んでいる人が大勢いるなんて考えてもみなかった。今思えばあまりにのん気で、考えが足りなかったが、たとえ気付いたとしても尚人にはどうすることもできなかった。 従兄の和真が宗主を継ぎ、尚人は遣え人になった。そして、味方だと思っていた世話係の片割れは継役(つぎやく)の側近になった。 継役を代表として、和真派の人員は先々代に退けられ抑え込まれてきた人々で占められている。彼らの強硬な後押しがあって、和真は宗主になれたとも言われていた。反尚人派の中でも継役は最もあからさまに尚人を忌み嫌っている。 守護であるミコトに苛まれるのは辛い。遣え人が何をしてきたのかを知って愕然とした。継役の身内たちによって暗がりに引きずり込まれ奉仕を強要される日々や、優しかった相手に罵られることも、叫びたくなるぐらい苦しい。 けれどどこかでまだ信じていた。誰が離れても最後にはずっと傍にいてくれると思っていた世話係の彼が、よりにもよって継役のもとに行ってしまったことに動揺を隠せない。 「自分から望んだんだってみんな…」 「皆とは誰ですか。東伍?航市?少なくとも1人、2人のことでしょう。狭い世界にいたことを、そろそろ自覚すべきです」 「………」 祖父が大勢を虐げていたなど今でも鵜呑みにしてはいけない話だと思う。 ただ投げつけられる誹りもまた事実を指しているのだと思うほかない。祖父の代で榊家は飛躍的な発展を遂げた。その中で容赦なく切り捨てられていった人々が数多くいたとしても不思議はない。彼らは強大な先々代の手元で日の目を見ることなく、恨みばかりを募らせていった。祖父の偏愛を受けていた尚人が彼らの標的に選ばれるのは、自然な流れだろう。 「私は力在るものに従います。今の主人が尚人を傷つけよというならそうしますし、憎めと言うのならそうするだけ。愛らしいと慈しみ、賢いと褒める。前の仕事がそうだっただけです」 「どうして…憎んでくれてた方がまだ、いい。命じられたから、傍にいてくれたなんて、…」 「言わせているのはあなたでしょう。実際に憎んでいたのか、それともただ仕事だから親切にしていたことの何が違うと。皆、先々代の影を畏れ、あなたに従っていただけです」 「………」 「あなたのおじいさまに虐げられてきた人々は私を差し向けたことぐらいでは満足しないでしょうが、少しは気が晴れるかもしれない。良かったですね」 美矢は無言で涙の溢れた尚人の頬を袖で拭った。目配せを受けた男たちがより深くに指を埋めると白い肌がぼうっと赤らみ、快楽を示して先端から滴がこぼれる。 「あ、…やだ…っ、ぃ、…ッ」 花処は熟れた柘榴のような紅みを帯び、蜜をこぼしたかのように濡れている。 腕を掴んで起こさせ、高まりに見立てさせるように固めた指を貫かせられた尚人は悲鳴する。 「ぃ…や…ぁッ」 涙を散らして首を振り、後退ろうとした体を囚われる。抜けざまに襞を抉られて快感に身を捩り、荒く息を吐いた。 甘やかされて育った割に驕ることも欲深くなることもなく、尚人は驚くほど静かな質だと言われ続けてきた。人形のように精緻に整った顔立ちは冷たい印象を与えやすいが、花のような優しさが空気を和らげ人を癒す。 いつのことだったか、良い宗主となりましょうと美矢が珍しく嬉しそうに言ったのを尚人は覚えていたが、その言葉さえも仕事上のお愛想だと想像することはとても簡単で、残酷だった。 すべてがまやかしだったのかは分からない。 従兄たちのように血の繋がりはなく、友でもない。祖父が雇用した世話係である彼には、自分のもとに居続ける理由がない。強いて言うのなら過ごした時間の長さが彼を繋ぐ糸になれたが、彼を引き留めていたのは先々代のとの契約であって尚人自身とを結ぶものにはならないとしたら、それもまた意味のないものになってしまう。 心変わりをして離れていったとしても、敵方についたとしても、裏切りだと責める筋合いは全くなかった。 寂しさや悲しさを訴えることはあまりに身勝手なように思えた。 彼は解放されたのだ。 ようやく世話係という役目から、そして先々代の支配下から。 遣え人としての役目に囚われた尚人には、その自由を詰ることはできない。尚人にとってはその自由が欲しくて堪らない、願ってやまないものだからこそ、再び傍に戻ってきて欲しいとは言えなかった。 胸を衝くような切なさが涙となって溢れ、息を堪えてみても止まらない嗚咽がこぼれた。 美矢は伝う涙の粒を舌先で掬い取り、男たちから細く白い体を受け取った。 すすり泣きをこぼす唇に深く口づけ、ふっくらと脹れた奥の入り口に指を押し入れる。体を走る快感を示すようにびくびくと足先を振るわせるのを、美矢は拡がりを確かめるように指を出入りさせた。 「…っ、や、……ッ」 「…」 「み、や…いやだ…ッ」 足を前に腹の上に跨り、美矢は自らの体重をかけるように襞の内側へ自身を挿し込んだ。唇が戦慄き、涙に喉を詰まらせながらも嬌声が上がる。 「…ぃやぁああ…っ」 数え切れないほど極めさせられ、受け止められないほどの快楽に引きずり込まれ翻弄された尚人は、この日のことをはっきりとは覚えていない。 けれど肌に刻まれた榊の家紋は、繰り返し尚人を絶望に突き落として、諦めを覚えさせるには充分なものだった。 |