「青く沈む」



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「……おと、尚人」
「……、……っ」
 はっと目を開けた前には薄暗い闇が広がっている。
 胸の中央がゆるく熱を持って痛んだ。普段は消えているはずの遣え人の印が微かな反応を示している。
「……東伍(とうご)…」
 暗がりの中に見て取れた顔に、尚人は泣きそうな笑みをうかべて伸ばされた手を握った。
 彼は2人いた世話係のうちのひとり、美矢の片割れである。本家の命令を受けて寄越された東伍を見たときは正直困惑して、どうしたらいいのか分からなかった。彼にも裏切られたら、そう思うと怖くてなかなか傍に寄せられなかった尚人に、東伍は焦ることなく、時間をかけて怯えがとれるのを待ってくれた。今ではかつてと同じ信頼関係を取り戻している。
 遣え人になったすぐ後に、尚人は父方の伯父の家に引き取られ、彼は本家預かりの護衛として尚人の傍に来た。ただの護衛という立場ではあっても、伯父の家にいるときだけは以前通り世話を焼く。東伍の傍にいると本家を離れ、安全な場所へ帰ってきたのだという実感が込み上げて、どうしようもなくうれしい。
 差し出された腕をたぐり寄せるようにして半身を起きあがらせ、縋ろうとする尚人を受け止めた東伍は汗で張り付いた尚人の黒髪をそっと掻き上げた。
「悪い夢を見たか」
「…うん、少し…」
 印の上に手を置いて、1度だけ大きく息を吸う。印によって力の殆どを封じられているから、術は使えない。榊家に生まれ、力を持つ者として生まれて、当たり前のように身近にあったものを封じられたことは、体に大きな穴を穿たれたような喪失感を尚人に与えたが、それも時間と共に慣れに変わる。ただ時々、閉じこめられた力が外へ出たがって、印に除けられるのを感じ取る。悪夢を見たときなどがそうだった。
「ひどい汗だな。…風呂に入るか」
「…うん」
 尚人がこの家に来ることになったとき、今までと変わらない生活を送れるようにと伯父夫妻が気遣ってくれ、部屋近くに浴室や簡単な調理が出来るキッチンなどを増設してあった。
 二世帯住宅というよりは、東伍が心おきなく世話を焼けるように家事部屋を用意したと言っていい。実のところ、尚人の好みや癖などを知り尽くしているのは世話係だった彼だったので、伯父夫妻は下手に新しいものを用意するより、慣れた環境を整えてくれたのだ。
 すぐに浴室に向かおうとする尚人を東伍が引き留める。
「少しだけ待て。お湯を入れているところだから」
「…ん、でも、寒くないからシャワーだけでいいよ」
 寒暖に鈍くなっているせいか、尚人はあんまり湯船に固執しない。手早く済ませられるなら、シャワーで充分だった。
「ミルク色の入浴剤が気に入りだろう。ゆっくり浸かった方がいい」
「ああ…おじさんたちのお土産の」
「そうだ」
 伯父夫妻には榊家としての能力が殆どないが、2人ともが事業家として莫大な金額を本家にもたらしている。負祓いの力を持たないことを引け目にしない、前向きで強かな彼らを尚人は尊敬していた。
 四六時中つきまとう東伍は本音はどうあれ、本家から差し向けられた監視者でもある。
 身の危険が及ばないように注意する、その行為そのものも遣え人が役目を果たせなくならないようにする為で、本家の手先だといってしまえばそれまでだ。
 それでも彼はかつてのように尚人に尽くす。その気持ちを汲み取った夫妻には、尚人よりもずっと人を見る目があるのだろう。裏切りを恐れる余り、東伍の眼差しに込められた労りも何も見えていなかった頃から、東伍を信頼し、尚人の傍に置いていた。
「…そろそろいいだろう」
「………うん」
「ゆっくり10は数えるようにな」
「うん」
 自分を思ってくれるかつての世話係の気持ちが、尚人にはありがたく、そして少し辛い。自分という存在がなければ選べただろう自由が彼にはない。そばにいてくれるのは嬉しい。けれどそうやって傍にいて貰うことは正しいことのなのか、尚人には分からない。
 かつて傍にいたもう1人の世話係を思って、尚人は小さく瞼を伏せた。
 東伍と美矢はそれなりに気があっているように見えた。なのに今はまったく連絡も取り合っていない。間に自分がいなければ、2人の付き合いも続いていたはずだと思うと気持ちが沈んだが、今の尚人にはどうすることも出来ないことだった。
「東伍…」
「ん?」
「もし…」
 言いかけて、尚人は首を横に振った。小さく笑みをうかべて、浴室に足を向ける。
 きっといつか彼も離れていく。その予感はあったが止められない。傍にいてと願うことも尚人には出来ない。尚人は自由が欲しかった。それが彼に与えられることがあったなら、美矢のように手にして欲しい。けれどそうなってしまったら、余りに寂しくて、ひどくわがままだと自覚していても口にすることは出来なかった。



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