尚人は普段、決められた場所以外は宗主の許可を得ないと行けないことになっている。護衛は付くものの数日間好きなところへ自由に行っていいという許しが出たと知らせてくれたのは巫だった。 話を聞いたときには信じられずに出かけようともしなかった尚人だが、東伍は張り切った。はじめは半ばむりやり連れ出された尚人も、次第に自分から出歩いてみる気になり、最終日に選んだのは水族館だった。こぢんまりしているせいか、殆ど客の姿もなく、ゆっくり過ごすには良い場所だ。 「東伍。すごい、くらげがたくさんいるよ」 「そうだな」 「ずいぶんと小さいのもいるんだね…あ、子どもなんだ」 「ああ」 「やっぱり代表はミズクラゲだよね。半透明がすごいきれいだよ」 「飼いたいか?」 小さく笑って首を横に振り、尚人は水槽の前に用意されたイスに腰を下ろした。 照明の入った青い水槽の中に、何匹ものくらげが漂っている。水族館側が設置したライティングを受け、色とりどりに色を映していた。 伯父夫妻のような人々がもたらす利益以外を別にしても、本来の生業から築いてきたコネクションが恐ろしく広く、豊富な資金と情報力を持った一族の一員であるからには 、飼いたいといえばなんでも飼えるかもしれない。 先々代の時代には、後妻である尚人の祖母を喜ばせようとして、広大な花園からホテルまで何でも手がけたという話まである。今では現宗主である和真によって、縮小や廃棄、もしくは譲渡されているようだが、その中には水族館まであるという話で、そういった持ち物は尚人の記憶にもうっすら残っていた。 今でも例えば宗主が許したなら、望んだなら、それなりの贅沢が出来るかもしれない。本来自由になるものなど何もないはずの遣え人でさえ、かなり高額な予算を組まれて生活している。 ただそれは上から与えられるもので尚人がどうこうできることではない。昔も今も尚人は榊家という枠の中に閉じこめられていて、かつては単にとても広い水槽の中にいて気付かなかっただけなのだと感じさせた。 「…尚人?」 冷たく静かな目で海の水が満たされた水槽を見つめる尚人を、東伍が訝しげに見下ろす。 「どうした?具合でも悪いのか?」 「うんん」 首を横に振り、心配性の東伍に苦笑いをうかべて、尚人は立ち上がった。 「帰ろう?」 「もちろんだが、良いのか?少ししたら餌付けのショーが始まる」 初めて見たときにものすごく喜んだので、とても気に入っていると思っている東伍が気にした風に言う。 まだ6つ7つの頃だったろう。東伍や美矢が来たばかりの頃で、尚人にとっては懐かしいのを通り越して他人事のようにも思えた。 「うん、いいんだ」 笑みもなく首を振り水族館を後にした尚人に、帰りの車を手配した東伍は真っ直ぐには戻さなかった。 行きがけに何となく目を留めていた珈琲ショップに車を入れる。 学校の行き帰りを護衛の送り迎えで済ませてしまっているせいもあり、尚人はクラスメイトとの寄り道をしない。 尚人が好きそうな甘いカプチーノとドーナツを選び、追加でフレッシュジュースを頼む。疲れているときはカフェインなどに過敏に反応して気分が悪くなることがあるので、交換してやれるように無難なものを合わせて頼むのは世話係だった頃からの習いだ。 「食べられそうなら、サンドイッチもある。後で頼んでくるから」 「うん」 「…少し、よろしいでしょうか」 席に着いたところで護衛のひとりが東伍を呼びに来る。二言三言話してから目に入る程度の距離をとって、尚人の傍を離れた。傍に付きっきりよりは多少分かれていた方が良いと考えたのか、代わりの者を呼ぼうとする部下を止め、東伍はそのまま尚人を1人にさせた。 気うつに悩んでいるならそれをどうにかするのも仕事のうちなのだろうが、東伍の気遣いはありがたく、尚人は小さく息を吐いた。 窓側のテーブル席からは階下にある道を行く人の流れが見える。 尚人が守護であるミコトのもとへ行く日はおおよそひと月に1度。決められた日以外に呼ばれても断っても良いということになっていて、遣え人の意志に委ねられていたが、行かずに済むことなど滅多になければ、行かなければ行かないで状況は悪くなった。 この前は、本家の自室へ帰るのにたまたま遠回りしてしまった廊下の暗がりで腕を掴まれ、引きずり込まれた。 口を塞がれ、湯上がり着がわりの浴衣を呆気なく解かれて何人もの手に晒される。顔の見分けも付かない灯りの落ちた部屋には欲に濡れた息づかいだけがした。 守護への捧げものを嬲ったと知られれば厳罰。告げ口を恐れて、継役付きの側近たちは顔も声も知られないように尚人に目隠ししたり、暗闇を使ったりする。 傷がつかないように念入りに解し、抗う体を押さえ付け、短い時間で何人もが愉しむ。守護が呼んでいると報された時には喘ぎと悲鳴で喉が嗄れて、とても赴ける状態でもなかった。 断れるはずだった。ただそれを許す継役はなく、少しの快復を待ってから行った。 守護の怒りを買えばいいと彼らは思ったのだろう。古い人間は守護を怒らせるなんてとんでもないと言うが、年若い中には何とも思わない者もいる。尚人そのものに何の恨みもなく、単に顔かたちを良い相手をいじめ抜いて楽しみたいだけで、安易に行う者もいた。 ふわりと空気が揺れて隣に人が来る。同い年ぐらいの少年だった。何となく目を向けると、運んできたトレイからストローが落ちる。拾って差し出すと、硬く緊張したような顔にふっと笑みが過ぎった。 「(ちょっと、…いいか)」 唇は動いていない。音もなかったが、驚いて見つめそうになるのを堪え、硝子に映るのを盗み見る。確かに今の声の持ち主であるはずだったが、そんな素振りなどまるでなく、少年は窓の向こうを見ていた。 でも気のせいではない。波長を合わせ、思念での会話ができる能力者は稀にいることは知っていた。 「(…なにか)」 「(良かった、繋がった。すごいな、たとえ聞き取れても会話には出来ないのも多いんだ)」 「(あまり長くは出来ません)」 すぐ近くには東伍たちの目もある。少年はすぐ気付いて改まった声を作った。 「(おれは葉嶋の良成。あなたのことは知っている。榊の遣え人だよな)」 「(…葉嶋(はしま)?)」 負祓いを行う家は榊家を含めておおまかに4つある。葉嶋はそのひとつだった。似たような能力者の家系だが、交流はなく、大きな一族同士にも関わらずお互いにおおまかにしか情報が伝わらない。近くて遠い存在だった。 彼はごく普通の、どこにでもいそうな少年に見えた。 遣え人の正式な役目をも知っている様子を感じて、戸惑う。 葉嶋の深くに関わっている人間だというには少し若い気がした。宗主である従兄のような特殊事情も有り得たが、地位のある人間には見えない。言われた意味を取りかねるのを前もって分かっていたように、彼は説明を加える。 「(おれは遣え人を出す血筋の生まれだ)」 「(…を、出す?)」 「(榊はそういった血筋を設けていないらしいな。…でも全員に可能性があるわけじゃないだろ。素質がいるし、確か事情を知っている家の中で選ぶとかいう話じゃなかったか)」 そうです、と答えながらも、尚人は少し慌てた。葉嶋にとって巫や遣え人がどんな扱いを受けているのかは知らなかったが、少なくともどの家系でも表向きは隠されているだろう。 「(待って下さい。そんな…簡単に。極秘事項でしょう)」 「(宗主なら当たり前に知っていることだろ。互いに干渉しないのが習いになっているとはいえ、最低限のことは通じていないと4つの家の均衡が成り立たない。違うか?)」 「(そうかもしれませんが…、でもそれは上の人間が内々に交わすべきことです)」 「(おまえには知る権利がある。そうは思わないか。おれは葉嶋の遣え人を、おまえを救いたい)」 「(……すくう?)」 呆れるのを通り越して、彼の態度に焦り覚えた自分に疲れ、尚人は急にばかばかしくなった。 少しでも遣え人の理を知っている者なら、その複雑さや難しさに気付く。少なくとも救うなどと、簡単に使えやしない。 「(4大家系の遣え人が機能を果たさなくなったら、どうなると思ってるんですか。維持するものはそのままに救えるとでも。僕や哀れな他3人を?…ばかばかしいのにも程があります)」 「(出来はしないと、ただ耐えて行くつもりか。繰り返される陵辱にも、意志のない駒扱いにも)」 「(やめてください。初めて会ったあなたに言われることではありません)」 「(在り続けることにさえ苦しみが伴うとは分かっている、ただ、聞いてくれ。決して、安易な気持ちで言っているんじゃないんだ)」 「(本気だというなら尚悪い。…興味を失われたら、嫌われたらどうしようもない、それっぽっちのことで生きてゆけなくなるんです。…どんなに嫌でも辛くても憎んでも、来いと言われたら、"*"のところに行かなくては行けない、その強制力がどんなものかまるで分かっていないんだ。本当に酷いことは、…、…、!?)」 見えない何かに胸元を締めつけられた気がした。 息を詰まらせ吐き出せもせずに体を捩らせる。体の底からわきあがる熱に、茫然と首元を押さえる。鎖骨の中央が、焼けるように痛んだ。 何が起こったのか分からない。ただこの恐怖には覚えがあった。慌てたような良成の声が遠くに聞こえ、聞くはずがない声が全身を貫く。 [面白いことを言うねぇ、ナオトは…] [まあ、嫌ならいいんだよ、憎んでもねえ、悪くはないけど、まだ自覚が足りないなあ] 見えない舌がやわらかに首筋をなぞり、太腿の内側を手の平が撫ぜていく。止めようと伸ばした手は、虚空を切った。 [や、いや…ぁっ] 逃げようとした体を、見えないものが捉える。ミコトが本当にいるはずはない。守護は"外"では遣え人に手を出せない。 "名"を鍵に何か術が掛けられていたと思いついたが、逃れられなかった。こうも簡単に発動してしまったのは、休暇だからと宗主によって少し印の束縛を緩めて貰っていたせいかもしれなかったが、殆どの能力は封印されたままで使えない。解くことが出来なかった。 振り払おうと咄嗟に弱い力を放つと、胸もとに鋭い痛みが走った。 肌を裂かれる痛みに続いて、雷に打たれたような痺れが襲う。この痛みは知っている。 許可されないところで力を使った、枷の反動だった。 |