「青く沈む」



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 いつのまに意識を失っていたのか、横たわった視界に映るやたらと白い天井を見上げ、尚人はゆっくりと状況をのみ込んだ。
 しかしすぐ目の前に良成の顔があるのを見て、尚人は良く意味が分からずまじまじと相手を見つめた。
 彼は尚人が意識を戻したのを見ると、あからさまにほっとした様子で強張りを解く。
 体を起こそうと手で床を押すと、つんと痛みが走った。藻掻いたときにささくれでも刺さったのか、怪我がない様に見えるのに指先が痛む。手を庇いながら、尚人は周囲を見渡した。棚も窓もない殺風景な部屋だった。狭い和室に足の短いテーブルだけがある。
「ここは…」
「従業員の休憩室。急に倒れたのを支えたのはいいんだけどさ、おまえおれの服を離さなくて」
「……ご迷惑をおかけましました」
 尚人の異変に気付き、慌てて駆け寄った東伍は、隣の客の服を離さないので困惑しただろう。印が顕れているのに気付いたのかも知れない。救急車を呼ぶか訊ねた店員に静かなところで休ませたいと言い、部屋を貸して貰うことになったらしかった。
 倒れてから今に至るまでをざっと話してもらい、続きを言おうとするのを片手で制した尚人は、会話を音のないものに切り替えた。
「(身元は…)」
「(…ああ、大丈夫だと思う。ばれてない。気付いたのなら傍を離れたりしないだろ。外には護衛がいるみたいだけどさ。おれ、殆ど力がないんだ。一般人に見えると思う)」
「(そういえば…でも、こうやって……)」
「(これはどちらかっていうと体質なんだ。波長を合わせやすくてさ。…大丈夫そうで、安心した)」
 ほっとした顔をうかべた良成は、話しながら指先を気にする尚人に首を傾げた。
「(どうした?)」
「(棘…小さくて取れなくて)」
「(見せてみろ)」
 心配そうな声につられて出した手を取り、良成は確かめるように眺めた後、あっさりと抜き取った。
 布に刺さったまち針でも抜くような簡単な動きで棘を取り除いてくれた良成を、尚人は少し感心して見つめた。手慣れた自然な仕草だった。
「(すごい)」
「(こんなこと何でもない。おれの方こそ、すまなかった)」
「(…いいえ、……僕も、この頃、苛々してしまっていて)
 彼のせいではない。言い返したかったが、なぜか涙が落ちてしまって言葉が出ない。
 守護の恐ろしさは良く知っているはずだったが、まさか"外"で味合わされるなんて思ってもみなかった。
 棘の抜かれた手で涙を拭うと沁みて、言うより先に眉をひそめてしまう。
 その姿に小さく苦笑いをうかべた良成は傍のテーブルから手つかずの濡れ布巾を取り、尚人の頬をぬぐい、手を拭いた。羽のように優しい柔らかな彼の物腰には見覚えがある。少し考えて思いつく。東伍に似ているのだ。
「(…、手慣れてる)」
「(まぁな。おまえを見ていると、懐かしいよ)」
「(…懐かしい?)」
「(ああ。弟に似てるんだ…。次の遣え人は…おれの弟なんだよ)」
 本来、榊家では遣え人は外にも出られない、誰とも会えないようなことになっている。葉嶋の遣え人も似たような立場に囲まれているのだとすぐに想像が付く。歴代たちと比べれば、尚人はかなり恵まれているのだ。本当なら屋敷の閉ざされた場所にいて当たり前なのだから。
 どこか苦しげな笑みを見せた良成に尚人も俯いて押し黙ったが、優しい彼の手つきに段々と気持ちが落ち着く。感謝の言葉を口にする代わりに、尚人は顔を上げてそっと訊ねた。
「(……どんな方ですか?…その、弟さんですが)」
「(強情で負けず嫌いで、生意気で…でもどこか鈍いやつだよ)」
 声にはあたたかみがあり、とても大事にしているのが感じ取れた。ただただ可愛くて、慈しんでいるのだと分かる。尚人には兄弟がない。けれど2人の世話係からまるで弟のように思われて来たから分かる。
 良成はほんの少し明るい笑みをうかべた。
「(…おれのところにさ、ちょっとだけ夢見の力があるやつがいるんだ。良いやつなんだけど、意識はずっと余所を向いてて…まともに会話をするのは難しいんだけど、たまたまおまえがここに来るのを先見して…。正確な日にちも時間も分からないし、あんまり当たることもないから半ば諦めてたんだけどさ)」
「(…まさか、ずっと、待ってくれていたんですか?)」
「(することもないし、ま、思い出したときに寄るようにしていたってぐらいだけど。おれ、そいつの面倒を任されていたのに、離されて…弟とも会わせて貰えないしさ…。焦ってたけど、待つことぐらいしか出来ないから。おれは、おまえたちが言う守護の名が途切れる…ほんの少しだけそこに何かが過ぎたと感じられても、聞き取れない…何も出来ない役立たずだけどさ、何もせずにはいられなくて…)」
 "ミコト"と言っても、まわりの誰も聞くことが出来ない。彼だけでなく、誰もがそうだった。守護の名は遣え人だけが知り、言葉にしてもただ空白になってしまう。口の形から読み取ることも文字にすることも出来ないので、守護や守(もり)と言い直した。
 途切れたことにも気付かない者が多い中で気づけたというのは、遣え人の血筋だからかも知れない。負祓いの力の有り無しと遣え人の素質は関係がない。弟が遣え人なら彼も近い体質をしているとも考えられた。
「(…おれは空白に…すべての元凶があるんだって…思う。逆に当人にとってはそう言われることが、腹が立つことだとは思うけど…)」
 ためらいがちに言うのを、尚人は黙って見つめた。
 彼がそれを言って腹を立てたのは弟なのだろう。良成は弟に言って受け入れられなかったことを、同じ遣え人である尚人に言うことで納得しようとしている。
 救いたいのは弟であって、尚人や、他の遣え人までをも視野に入れるのは誤魔化しだ。話を大きくすれば、それだけ大きな力が動くようになる気がしているのだろう。
 咄嗟に出かけた言葉を噤んで、尚人は小さく首を横に振った。
「(…名の空白は、気付ける人にとっては隔たりを感じることだと思います。あなたはその間がなくなればいいと思っているんでしょう?…僕は嬉しく思います)」
 励まれたように良成は俯かせていた顔をあげる。
 だが尚人は力強く頷くのではなく、厳しい顔で首を振った。
「(ただ、そういった話をすることがあなたにしても、僕にしても、安易に手を出してはならない領域に踏み込んでしまうことになります。家と守護との繋がりは深く、遠く神のごときものの力は…なぞめいていて、計り知れない。今のままではあなたは、結果的に僕たちを苦しめるだけです。少なくとも遣え人を自らの計画に誘おうとするのは誤りです。あなたの妄想に巻き込まれるのは迷惑この上ない)」
 実のところ空白として飛んでしまうのは名だけではない。
 守護の姿、力、など思っても口にしようとした時には掻き消えて、言うという行為さえできなかった。彼が守護と出会うことも直接関わることも一生ない。少なくとも彼の弟がいる限り、有り得ない話だった。
「(……おれの思いは…迷惑、か)」
「(はい)」
「(……、急に気を失ったのも…守護に関係しているのか…?)」
「(………はい)」
 言われるまま認めるしかないのがあまりに悔しく、苦しいように息をこぼしながらも良成は分かったと肯きを返す。彼にしてみても、遣え人を不要に苦しめることは不本意だった。
「…おれ、帰るよ」
「はい、…ありがとうございました」
「(今日は、不快な話をしてすまなかった。次には、もっと違う話をしたい)」
「(…………)」
 再び会うことは不自然で、危うい。断りを告げるべきだったが、尚人はどうしても言えなかった。
 良成は尚人の戸惑いに小さく頷き、短く別れを告げた。
「(波長は繋がったから。何かあったら、呼んでくれ。何としてでも行くから)」
「(……はい)」
 良成が去り、程なくして何人かの足音が近付いてくる。扉を開けた東伍は尚人に気付くと、ほっとした笑みをうかべて細い体を抱きしめた。
 尚人は今も傍にいてくれる世話係の背に腕を回しながら、再び涙が溢れ出すのを止められなかった。
 このように苦しい思いまでして遣え人は何を守らされているのか、分かってはいるが、問わずにはいられなかった。
 思うままに人と会い再会を約束する。せめてそれぐらいのことがなぜ許されないのか、誰かに答えて欲しかった。



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