「青く沈む」



- 9 -

[back]  [home]  [menu]  [next]



 い草の強い匂いが残る畳に無造作に敷いた褥の上は、少し身じろいだだけでひんやりとした箇所を見つけることが出来る。
 お湯を浴びたきり何をすることもなく横たわっていた尚人は、御簾の外にいるミコトが何かをはじめたことに気付いて、そろりと起きあがった。
 守護のいる場所は昼も夜も寒いも暑いもないために何もまとっていなくても過ごせないことはないが、羞恥心はあった。脱ぎ散らかされていた着物の1枚を拾って適当に前を合わせて外へ出ると、藍の美しい大島紬を洒落よくまとった美しい青年が微笑みを向けてくる。
 継役付きのちょっかいもなく、今日は呼ばれるまますんなり来た。好きなだけ貪ったミコトは少し機嫌が良いように見えた。
「…ミコト」
「おいで」
 手招かれるまま広げられた腕の中に収まった。
 はじめは抵抗感と恐怖に身を竦ませていたが、大きな獣がじゃれついてきたようだと思ったら我慢のしようはある。要は慣れだ。好きなものを近くに置こうとする行為は小さな子どものようだったし、どちらかというと光りものを集める烏や宝物を埋めてとっておく犬にも近いかもしれない。
 ミコトの前には玻璃でつくられた器が置かれていた。中には水がいっぱいに張られていて、歩み寄った振動で水面が小さく揺れていた。見慣れない美しい入れ物は守護の趣味らしい、繊細な模様が描かれている。
 透明な水のように透き通る硝子や陽射しにきらきら光るようなもの、ほんの少しの間違いで壊れてしまいそうな細工があるものなどが彼は好きで、住むところ着る物にも拘る。身近に置くものを慎重に選び、長く大事に使う。理解できないことは多くあっても、ミコトのそうした性質は好ましいと尚人は思っていた。
「…魚でも飼うの」
「魚?飼いたいの?」
「ううん、違う。…昔、そういうので金魚を飼っていたんだ」
 朱色の小さな金魚は、誰かがくれたものだった。
 夜店で掬ってきたからと渡されて、睡蓮を育てていた器に入れたのだ。
 尚人が金魚鉢がわりにしていたのと違い、目の前のそれはただ水だけが張ってあるので底まで良く見える。覗き込むと不思議にゆらりと光を映すのを尚人は面白げに眺めた。
「きれいだね」
「ナオトが見たいと思っているのを見せてあげようと思って。誕生日だから」
「……僕の?…まさか…」
「今日だよ。17になったね」
 ミコトのもとにいると時間の感覚が鈍る。どれだけの時間が経ったのか良く分からなくなることが良くあったが、帰っても良いはずの日にちから軽く1週間も過ぎていて、気付けなかった自分に嫌気がさす。約束が違うと詰るにしても、教えられるまで分からなかったのでは分が悪い。
 眉を寄せて黙り込んだ尚人にミコトは目を細め、耳元に口付けた。
「不満そうだね」
「…誕生日なんてどうでも良いと思っていたんじゃないの」
「どうでも良いよ」
「なら」
「意地悪をしたくなったんだ」
「…っやめ」
 耳たぶを噛みながら、手の先を着物の間に入れようとするのをどうにか押さえる。
「…僕は、楽しみにしてた。ミコトがこの日を欲しいというなら従う。でも、こんなの不公平だ」
 美しい青年はどこ吹く風で、にこりと微笑む。
「この器はね、とても特別なものなんだよ。滅多に使えない。見ることがというわけじゃないよ。もっと素敵な話。誕生日のお祝いは不意打ちするものと聞いたよ」
「その情報の解釈は間違っている」
 押さえられた手を簡単に取り戻しながら、ミコトは尚人の頬をひと撫でする。苛立つのをまるで構わず嬉しそうな様子で水面を見た。
 水はぼんやりと姿を映しているだけでただの水以上には見えないが、ミコトが特別なと言うからには、間違いなく特別な何かを備えたものだ。
「……見たいものなんて、ない」
 願ってもいないうちに心の内が映し出されるのが怖くて、離れようとするけれど動けない。抱きしめる腕の力を強めて封じたミコトは、器のすぐ前に尚人を押しやった。
「見てごらん、…ほら」
「…い、や……」
 水が揺らぐ。細波がおさまると、はっきりとした映像が映るのが分かった。
 診察台のような白い台の上に、少年がうつ伏せて横たわっている。部屋は小振りの和室らしく、部屋を区切る障子とふすまが見える。彼以外に人はいない。音は伝わってきていなかったが、微かに少年の息遣いと木々の葉がすれる音が感じられた。
 台に伏せた少年の背に、細く墨色の線が走っているのを見つけた尚人ははっと息を呑んだ。
 図案も場所も違うが、聞かなくても間違えるはずがない。それは遣え人の枷だった。
「なんだ、まだ下彫りか。もっときれいなのを見せてあげようと思ったのに」
 残念そうにミコトが呟く。いやな感じに心臓が胸打った。さっと血の気が引く。
「葉嶋はいちいち墨を差すんだよ。ナオトは自分以外の遣え人を知らないから、気になっていただろう?」
「…見てたの」
「うん?」
「僕に術を掛けていたでしょう。…名を鍵に」
「ああ、素敵な目印になっていたのに、解いてしまって」
「覗き見される趣味はないよ。僕にも、この人にもだ」
「向こうの守護の許しはある。誰だって自分のものを勝手にかまわれたら良い気持ちはしないからね。会いたくないの?」
 ミコトは形の良い唇を上品に笑ませ、深い黒色の目を覗きこむように見た。
 たとえ守護でも、もとの世界に戻り、手元を離れた遣え人に手出しは出来ない。外を眺めることができたとしても、関わることは出来ないのだ。少なくとも尚人はそう教わっている。たまたま前回は巧く仕掛けが動いたが、尚人が解かなくても1回切りのお楽しみだった。
「会って話してみればいい。短い時間なら可能だよ。遣え人同士の交流は悪くない」
「勝手に決めないで。それにどういうこと。巫を通さなくては僕の位置を変えることなんて出来ないはず」
「ある条件付けが出来れば、移すことは可能だよ。この私が人ごときに縛られて何もできないなどと思っている訳じゃないだろうね?…さあナオト、駄々をこねないで行っておいで」
「……、ミコト…っ」
 どんと背が押され、体が傾ぐ。咄嗟に救いを求めて伸ばした手をかわされて、両腕が虚空を切った。一瞬の水の感触はしたものの、水が跳ねた音はない。だが水の揺らぎの先にミコトの顔がある。気が付いたときには既に水鏡の中を抜けていた。



- 9 -

[back]  [home]  [menu]  [next]