背中から落ち、やや強かに畳に打ち付けて息を詰まらせた尚人は、咳き込んで顔をしかめながら小さく息を吐いた。巫の手を借りずに自分の世界と人の世界を行き来させられるはずがない。尚人はミコトの世界のどこかへ移されたのだと思い、苛立ちよりも疲れを覚える。誕生日に何をくれようとしているのか知らないが、ありがた迷惑すぎてため息が出た。 「…ばかな真似はやめてよ。"ミコト"…」 守護の名前が掻き消えたのを感じてはっとする。守護の世界にいる間は、有り得ないことだ。視線を感じで振り返った尚人は台の上のあの少年が鋭い眼差しで見据えていて、大きく目を見開いた。 「………うそ」 「この部屋は術が入り込めないようになっていて、それを破りもせず入るなんて、それこそ嘘みたいな真似だと思うけど」 冷たく整った顔立ちにはめ込まれた杏型の双眸は闖入者を鋭く射抜く。氷の切っ先を向けられたような悪寒がざわりと背を撫でた。警戒心をあらわにしながらも、注意深く相手を探りとろうとする気配に、尚人は射すくめられているのにのんきにも少しほっとする。 他の誰かなら人を呼んだり驚いて悲鳴をあげそうな状況だったが、彼は冷静に状況を見極めようとしている。尚人にとって幸運なことだった。でなければミコトの気紛れに振り回された挙げ句、出会ってすぐに戻されるハメになるか、家同士を巻き込んだ大騒ぎの火種になるかのどちらかだったろう。 「断りもなく、お邪魔して申し訳ありません。僕は榊家の、…遣え人です」 「…本気で言ってる?」 「はい。先日良成さんとお会いしました。尚人と申します。これは、この状況は…あなたと会ってみればいいと…守護が。申し訳ありません」 「どうして謝るわけ?守護が勝手なのは当たり前だよ」 「…ええ、はい、いえ、…僕が油断していたせいでもありますから」 思わず項垂れた尚人に少年はおかしそうに目を細め、台から降りてシャツを羽織り、シャツと色の合うクリーム色のサマーセーターを被りながら、部屋の隅に行き浅葱色の長襦袢を拾う。戻りざま放り投げられたのを、尚人は慌てて抱き取った。 「風邪引くよ。長着は紋入りで障ると思うから、それぐらいしか貸せなくて悪いけど」 「いいえ、すみません。でも大丈夫です。お心遣いだけいただきます」 「ぼくが構うんですけど」 幾ら身なりに構わない尚人でも、見ず知らずの相手の前で見せて良い姿かどうかぐらい判断は付く。申し訳ありませんと頭を下げて、袖を通したが帯の扱いに困ってもたついた。何とか締め終えて胸を撫で下ろしたが、少年は苦笑をうかべ、手慣れた様子で着付け直した。 「怒られたりしてるんじゃない」 「…はい?」 「そんな薄着で出歩かないようにとか言わるんじゃないかって思うんだけど」 「良く言われますけれど、でも大丈夫です」 「大丈夫じゃないから怒られるんだと思うけど」 「それは…」 服など体を隠して、暑さや寒さをしのげればそれでいい。 最近では暑くても寒くても我慢すればよいだけだと覚えたので、尚人は答えに困ってしまう。前にもこんな話をしたなと思ったのを見透かしたように、少年が何か理解した様子で頷いた。 「まあそれはともかく、あまり顔色が良くないね」 体調が優れないのも慣れっこになっていて何とも思っていなかったが、尚人は言い訳を探した。ここで大丈夫と答えてしまうと学習能力のなさに飽きられてしまうかしれない。だから慎重になった。 もともと素質がない者なら一晩と保たない務めだと言われている。人ではない異質な気に触れるだけで卒倒する者もなかにはいるのだから、この程度で良く済んでいるとも言えた。今回は更にミコトに構われっぱなしだったから、顔色ぐらい悪くもなる。もちろんそんなことをそのまま言えないので、言い繕いたいが、下手なことを言ってもすぐばれてしまいそうだった。 「これは、その…たまたまです。普段は違います」 結局尚人が口にしたのは言い訳にもなっていない代物だったが、彼は追求せず、これもまた頷いて笑みをうかべた。 「そっか。…ぼくは惟津(いつ)。君が遣え人になったのって…確か3年前だよね?」 「…え?」 「ああ、何から言おう。…尚人は、ぼくたちの何を知っている?」 予想もしていなかった問いだった。 何を…どころじゃない、何かを知っている、なんて有り得ない。 尚人は次期宗主として育てられたからこそ、特別に遣え人の存在や守護が榊家と契約を交わし、土地の守りを司っていることなどを知っていた。普通なら、自らが一体何なのかも知らないままただ嬲られて一生を過ごす。遣え人というのはそういうもののはずだった。 黙ってしまった尚人を促して、惟津は畳の上に腰を下ろした。 白い台の足もとには幅広の板が渡されていて、もたれるのにちょうどいい。2人並んで座り込んでみると、体を包み込むような暖かかさに血が通り、いつのまにか全身が冷え切っていたのを知った。 長々と続いていた雨が過ぎると共にさっそく夏らしい暑さが来ていたはずだが、何てことはない。場所が違えば、まだ涼しいところもあるということだ。ここはどこだろうと少し考えたが、訊ねるのは控えた。遣え人がいる住まいを知ることは、不可侵を決めている各家の掟に触る。 余分に着せてくれた惟津の配慮は正しく、お礼を言う尚人に、惟津は面白そうに目を細めた。榊家の遣え人はもとは次期宗主だという話を聞いていたので、わがままで手が付けられない暴君か、何でも人のいいなりになる操り人形かと彼は思っていた。あくまで飾りの次期宗主だったのだろうと考えていたが、どうやらそれは違う。 尚人は今ここに自分がいるという危険さを良く分かっていて、迷惑をかけてもいけないとわきまえている。だからむやみな発言はしないし、目立たない程度に緊張感を保って、油断なく周囲を伺っている。優秀どころかむしろかなり肝が据わっているといって良く、惟津は好感情と共に興味を覚えた。 「葉嶋は血筋が決まっているって聞いた?遣え人を出す血筋があると」 「はい」 「他には?」 「特に何も…。お兄さんとはあまり長くは話せませんでしたし、…こちらでは普通に知っているものなのですか?」 「そんな丁寧な話し方、聞き慣れないからこそばゆい。もっと雑でいいよ」 「はい。…いえ、うん」 すみませんと謝りそうになるのを堪えた尚人は、初めて会った相手と打ち解けて話すのを喜ぶように小さくはにかんで俯いた。 惟津はその様を眺めて、抱えた膝の上に頬を乗せた。 榊家の遣え人は美しいと聞く。 実際に目にすることがあるとは思えなかったが、確かに腕利きの人形職人でも真似できないほどの繊細で清廉な美貌だった。伸びかけの襟足が白い頬にかかる様も朱い唇も、華奢な肩や指先までもが雪原に咲く花のように鮮やかで、目を奪われる。 にもかかわらず、違和感もなく周囲と混じってしまうような柔和さと控えめさがとても親しみやすい。本人そのものも自分がどれほどの姿形を持つのか理解していない様子なのが、惟津には面白かった。しかし同時にそのやわらかな雰囲気は危うさも含む。これで遣え人の務めに耐えられるのか、疑問だった。 選り好みの激しさを知る良成がその場にいたのなら、初対面の相手と打ち解けて話す弟に驚きを隠せなかっただろう。惟津は手のかかる弟でも持ったような気持ちになり、傍らの尚人を愛しむようにそっと見やった。 「関わり合わないことで均衡を保っているわけだから、もちろんぼくも大したことは知らない。普通は全く知らないものだと思うよ。でも遣え人のことなら、少しは知ってる。守護が教えてくれるから」 「…守護が…?」 遣え人同士の交流は悪くない、ミコトはそう言った。 惟津が言うことは、今尚人がここにいることにも通じる。守護の間では、ある程度情報の交換がされているらしいとは、今回のことで初めて知ったことだった。 「それがどうしてかは知らない。だから聞かないで」 「うん」 「ぼくが教えられたことによると、本家直系、一族全体、専用の血筋、上役の家々からの全く別々の選び方をしているって。今の尚人みたいに全てが必ずというわけじゃないらしいけれど、だいだいは決まっている」 「それだと…榊は上役…。葉嶋は専用の?」 「その通り」 「じゃあ、遣え人でも表で生活しているって人は…」 「それはどうかな。4家が4家とも守護のことさえ気取られずに来ているんだから、遣え人も始めからないもののように扱われているはず。選ばれ方にもよるけど、大抵が存在を消されるんじゃないかな」 「僕も前の遣え人が誰だったか知らない。…僕は存在を消しようもなかったから」 「そうだね。血筋を決めてある葉嶋でも、素質がある順から秘されて育つ。生まれてこの方、殆ど敷地の外を出たことがないぼくみたいにね」 「生まれて…って、惟津は僕と…同い年ぐらいに見える…けど」 「つまり17年だ」 「同い年だ。僕は今日誕生日で…殆ど出たことがないの…?巫みたいに…?」 「外を知る人は信じられない酷いことだと思うようだけれど、ぼくはそれが当たり前だし、耐えられる性質を持った者だけが生き残れる。榊は巫の血筋が分かれているのか。葉嶋は遣え人と巫の筋は同じだよ」 「…巫は秘されているけど、でも、生き残れるって…。…こんなこと、なれないならその方が良いでしょう?」 動揺した様子で言いかける口の上に惟津は人差し指をあてて止める。庇うように身を乗り出した後ろで何の前触れもなく障子戸が開いた。 尚人は息を呑んだ。戸が開けられるまで人の気配に気付かないなんてことは有り得ない。信じられなくて体を強張らせた尚人に、惟津はほんの一瞬だけ大丈夫と囁いて笑みを過ぎらせた。 「いつ。い、惟津。ああ見つけた。ごめんね痛い。痛いんだよね。ぼくが病気になっちゃったからさ、惟津まだいいはずのに、良成がね、ね。悲しいんだよね。ぼくは病気だから、困るよねえ。とってもね治したいと思うんだけどさ、なんかね迷惑かけるしさ」 やさしい顔立ちに異様な輝きを宿した目を光らせ、青年は惟津を見下ろした。 手を伸ばしたが、距離間隔が掴めていないのか宙を切って更に不思議そうな顔をする。 尚人は咄嗟に握っていた惟津のシャツから手を離して、青年を見上げた。彼の言動は明らかにおかしかったが、異様なのはそれだけではなかった。 彼には人の気配がない。 人としての陽、人としての陰、重ねて持っているはずがどうしても感じられない。 複雑に混在していると言うよりは、変質しているようだった。狂っているとしても、気は澱むだけでこんなふうにはならないはずだ。気配を感じ取れなかったのはそのせいだろうが、わけがわからなかった。 惟津は冷ややかな目で青年を見る。冷たい怒りを薄っすらと漂わせ、青年を見据えながら、不安を感じている尚人に僅かな笑みを寄せた。 「狂ったのが先が気の変質が先かは知らないけど、…これが前の遣え人だよ。最悪なことにね」 「ひどいなひどいな。最悪なんて言うんだ。酷い言い方。わるいことするとあいつはぶつよ。ぶたれるの痛いんだ。ほら惟津、だいじょうぶ、痛くないからねえ…」 「……い、惟津…ッ」 青年は片手を高く振り上げる。その手にあるものに気付いて驚きの声を上げた尚人よりも先に、惟津の体は軽い跳躍で宙に舞った。 片足が鋭く蹴りまわされる。惟津にしてみれば、相手の動きは遅すぎた。 果物ナイフが矢のように飛んで畳の目に突き刺さる。 惟津はナイフを弾いたその足で、男を蹴り倒した。部屋の隅に倒れ込んで意識を失ったのを確かめてから、小さく息を吐く。あっという間の出来事だった。 「何考えてるなんかなんて、実際のところ分からないことなんだけど。一応ぼくに悪いと思っているみたいで、迷惑この上ない」 遣え人には独特の気がある、と言われている。たいていそれは清浄と捉えられることが多く、遣え人の中にある守護の気をそう感じていると考えられた。その気が変質したというのなら違和感の正体として納得も行く。 意識のない彼の顔はやすらいでいて、小さな子どものような愛らしささえもある。尚人はそっと近づき、すぐ傍で屈んだ。20代後半と思しき男の顔はよく見るととても端正で、どこか惟津と似ている。 当然の出来事に跳ねた鼓動が静まるのを待ちながら、尚人は不思議な愛しさと悲しさとを覚えた。 遣え人であるからには同じようなことになってもおかしくない。 例えば榊家の巫が明でなく、東伍や伯父家族が傍にいなかったら、尚人は耐えてこられたようには思えない。彼の姿は1つ違えば尚人と重なったかもしれなかった。 「尚人。ぼくは生まれた時から遣え人になるんだって育てられてきた。なるのは当たり前だし、嫌でもない。選ばれてむしろ良かったと思っている。これに同情はしない。尚人もしてはいけないよ」 「…………」 惟津は畳に刺さったナイフを引き抜き、目を細めて倒れている男を見た。皮肉げに唇を歪める。 「受け入れてしまうのが1番楽なのに、余計なことを考えるからこうなるんだ。どのみち他には何もないんだよ。この左来也(さきや)みたいに狂うか、死か、それしかないに、そう教えられてきたのにどうして壊れるんだろうね」 「……惟津。それはこの人の咎じゃない。僕にも、惟津にも、何がきっかけで受け止めきれなくなるか分からない」 「尚人はぼくよりずっと長く務めているのに、何も知らないままなんだね」 「…………」 「自分に羽があることを知ったら、飛んでみたくなるのは当たり前だよね。ぼくは与えられていた地位を奪われて遣え人にされた尚人が可哀想だと思う。でもね、その羽はもう使えないんだ。尚人はいつかはまた自由に空を羽ばけるはずだと思うから、辛くなる」 尚人は何も言えず、答えられないことから逃れるように青年の手に触れた。 その瞬間、指先から全身に悪寒が走る。思いがけない衝撃に手を離してしまった尚人を惟津は左来也のもとから引き離した。 変質してしまった左来也の気は遣え人には毒だ。何の防御もなく触れれば、もともと自分以外の気を受け入れやすい体質の彼らは影響を受けてしまう。そう説明された尚人は呆然と立ち竦んだ。 「…どうして……」 「もうぼくらは遣え人以外の何者にもなれない。そういうことだよ」 「僕たちが1番この人に近いはずなのに、もしかしたら同じようになって、それで、触れることもままならなくなるなんて、そんなこと…嫌ではないの。そう思ってはいけないこと」 「尚人、…ぼくはまだ正式に役をこなしているわけじゃない。良く理解していないだけかもしれない。でもね、逃れようとは思っていない。思わなければ、大丈夫。怖がることなんて何もないんだよ」 「…遣え人を助けようとするのは間違いだとは、僕だって思ってる、でも」 「良成兄がたててる計画だね。兄さんにあるのは、一族の為に誰かを贄にすることへの怒りだと思うけど。…ぼくらには守護が必要なんだ。守護にもぼくらがね。何に恥じることも忌まわしく思う必要もないことだ」 「……贄のある仕組みを間違っていると思うのは自然なこと…ではない?」 「生け贄なんて思うのをやめればいい」 更に口を開こうとした惟津は、開けっ放しになっていた障子戸を振り返った。 奥のふすまを開けて中に入るよう促す惟津に尚人も従った。 「気配を殺せる?」 短く頷く。近付く人の気配。それは尚人にも感じ取れていた。ほっとしたように惟津は小さな笑みをうかべた。 「なら大丈夫。…もう帰った方が良いね。もっとたくさん話したかったけど、尚人に会えて嬉しかった。2度と会うことはないと思うし、会わない方がいいから、これでお別れだけど、…」 そこでなぜか言葉に詰まった惟津に尚人は手を伸ばした。 押し込められた部屋から少しだけ出て、惟津に触れ、縋るように寄り添う。 惟津が選んだやり方は遣え人の選択として、たぶん間違ってはない。少なくともそう選ばざるを得ないのが、葉嶋の遣え人であり、惟津の立場なのだとも言える。 それでも尚人は、外の世界での楽しさやきれいさだけを教えられていた自分の過去もまた、惟津に幸せをもたらすものであって欲しかった。 今は辛いことばかりで逃れる術など見つからないままでいる。それでもたった1人、人ならざるものと向き合う寂しさは惟津を知ることで慰められた。だからといって何も変わらないけれど、力づけられる気がしていた。 「…惟津、…良成さんは、僕が困ったときに来てくれるって言ってくれた。それが僕にはすごく嬉しかったんだ。だから惟津が困ったときには、僕が行く。きっと行くから。遣え人が4人いるということは、不幸がそれだけあるんじゃなくて、仲間ってことだ。協力し合うことも可能な手が4人分あるってことだよ。…そう思っていたい」 「………尚人は優しいね。でもそれは考えてはならない。…もう帰って。ここにいてはいけない」 ほんの少し強張った顔をうかべた惟津は厳しい声音で言うと、尚人をふすまの奥へと押し込んだ。 尚人は惟津の中にぎこちなさを見つけて不審に思ったが、すぐに向こうに誰かが訪れたのを感じて黙る他なかった。 |