「惟津?おかしな音がしたと報せがあったけれど」 部屋に現れた男を見上げ、惟津は閉ざしたばかりのふすまからさりげなく離れた。 手にしたままだったナイフを見下ろし、忌まわしいもののように部屋の隅に捨てる。 「…それは?」 「左来也が来たんだ」 「ああ?左来也?」 男は畳の上に視線を落とし、確かに自分の兄だと見て取ると、苛立たしげに舌を打った。 どこまでも役立たずで厄介な前の遣え人。男はこの兄が好きではなかった。素質を見込んで引き取っていた惟津がいなければ、ろくに務めも果たさないうちに引退した挙げ句、面倒ごとまで引き起こすようになった彼のせいで、この家の名は地に落ちただろう。幸いにも惟津がいたが、遣え人を出すことによって得られる恩恵の何もかもを失うところだったのだ。血の繋がった兄だが、恨んで当然、と男は思っている。 「良成、あのクズが。こいつを外にだしやがって」 「兄さん、起きちゃうよ。危ないよ…」 「惟津…お互い実兄には恵まれないな。惟津も良成なんか早く見捨てろよ」 「……邦彦(くにひこ)兄さんはぼくらが嫌いなんだ。うんと格下の生まれなのに、遣え人になるかもってだけで引き取られてきて…良成兄さんを捨てたら、次はぼくも…いらなくなる。邦彦兄さんに嫌われたらどうしたらいい…」 「惟津は俺が好きなんだもんな?」 ねっとりとした声で囁き、男は惟津の耳元に唇を寄せた。舐め上げるとびくんと震え、縋るようにシャツを掴んでくる。 薄い茶の双眸が濡れたように自分を見るのを、邦彦は満足げに見下ろした。 遠縁か何か知らないが、惟津の言ったように格下も下で顔も知らなかった兄弟を引き取ることに彼は反対だった。だがそれはこの惟津を見て変わった。 細い首筋にふわりとした茶色の髪。まるで懐かない猫のように警戒心を見せながらも、触れればすぐに蕩けて縋るその姿に邦彦はいつでも欲望を掻き立てられる。 「…怖いんだ、ずっとそばにいてくれる?」 「ああ。なぁ…。俺はこいつを兄だなんて思ったことはないぜ。でもお前は可愛い俺の弟だよ…」 「うん…ぁ…兄さん、…っ」 布越しに胸の尖りを押しつぶすと小さな悲鳴が上がる。 遣え人の印が完成に近付くごとに過敏になってきている体は、些細な刺激にも堪えられなくなっているようだった。 爪を立てて捻るとおもしろいぐらいびくびくと震える。 「…ぃ…痛い…ゃ」 「痛いのもいいんだろ?施術中にも感じてるんじゃないか、お前は?」 「ん、そんな…わけ…ぁぅ…っ」 「失礼いたします。邦彦様…あの…」 「うるさいな、左来也だよ。あの間抜けが外に出したんだ。さっさと運べ、邪魔だ」 遠慮がちにかけられた外の声へ横柄にこたえた邦彦に、数人の家人が中に入る。腕の中に捉えられた惟津の姿を見て邦彦にちらと視線を投げたが、すぐに先の遣え人の側に行く。 「左来也様を外へお運びするように」 畳の上に放り出されたナイフを拾い、素早く包んで片付けながら外へ付いて出る家人の前で、再び邦彦は惟津の首筋に口づけを落とす。彼にとっては家人など人目のうちに入らない。動く家具程度の存在で、いないのと同じなのだ。 それをやや腹立たしげな様子で視線を投げた家人の様子に、邦彦は気付かない。惟津は瞼を伏せて見ないふりをした。 一族にとって遣え人は大切な存在だから、拒めば家人は助けてくれるかもしれない。けれどこの家を継ぐ邦彦の機嫌を惟津は損ねるわけにはいかない。無能のレッテルを貼られたあの兄は惟津にとって重石にしかならない人だったが、それでも、惟津に残されたただ1人の身内だった。 静かになると邦彦は更に大胆になり、器用な動きで次々と釦を外していく。惟津がはっと我に返ったときには畳の上にうつぶせの形で押し倒され、淫らに動き回る手を退けようもなくなっていた。 「惟津の綺麗な肌を見せてくれよ…なぁいいだろ…」 わざとらしく下手に出て、服をはぎ取りながら含み嗤いをこぼす。 派手に音をたてる口づけが繰り返されて息を上げながら、惟津はわずかな拒絶を見せた。 「待って…」 「ああ…、惟津のきれいな肌に、葉嶋の紋は良く似合うなぁ」 「お願い…まだ痛いんだ…」 愛撫の手をかわしながら、懇願する。 入れられたばかりの傷跡を下手に触れて施術を遅らせていけないと男も分かっている。何度かの割合で聞いてくれるはずだったが、邦彦は鼻で笑った。 「今日はどうした?誰の誘いも断らないと有名な惟津が。そんなに優しくして欲しいのか?」 「…く、ぅッ」 唇に含んだ指先を尻の狭間に押し込むと、模様の入った背が弓なりにしなる。 「……っ、は」 「ぐずぐずだな、お前の中は」 「兄さん…、やめ、あ、ぁぅ、…あぁっ」 情欲に濡れた男の声に惟津の悲鳴が重なる。 奥の部屋で呆然と立ちつくしていた尚人は、無意識に戸を開けようと伸ばした手を背から抱きかかえられるようにして封じられ、手足をばたつかせた。 「…離せ、離してよ…っ、ミコト…っ」 「葉嶋の子はナオトと違って、賢いねえ」 尚人の先に広がるのは白色の世界だった。 あったはずのふすまや、畳、飴色の木の天井が消え、広い広い何もない部屋をぴったり布で覆ったような、白い空間がどこまでも続いている。 足元に下ろされた尚人は怒りに充ちた目で後ろを振り返った。 「ナオトはすぐ泣くね」 虚空から伸びた手が、苦笑うように声をたてて頬を伝った涙を拭う。数度の瞬きの間に全身を現したミコトは、やわらかに微笑むと涙のついた指先を赤い舌先でちろりと舐めた。 尚人は身を捩って拒んだが、その時まで自分が泣いていることに気付かなかった。 次から次へと涙が溢れてくる。 こうしてただ泣くことしかできないのが情けない。 「……ミコト」 「なあに?あんなことナオトにとっても珍しいことでもないよね。自分と重ねて、辛くなった?」 微笑みをうかべる美しい姿形をした青年を尚人は見据え、涙を隠すように俯いた。 目の前にひらりと舞う服の裾を掴んで、尚人は込み上げそうになる嗚咽を意地で堪える。そのせいで掠れる声を、無理矢理のように押し出した。 「惟津、…を、たすけて」 「…」 「あんなふうに傷つけないでっ、僕らは守護のものだって言った、他の奴らになぶられる筋合いはないじゃないか…っ」 「でもね、あくまであの子はあちらのもの。ナオトとは違う」 「……ぅ…ぁっ」 腕を頭の後ろに回され、宙に引き寄せられるような形で口付けられる。 口付けは荒々しく、息さえし損ねて、尚人は呼吸の出来ない苦しさにもがいた。腕を降りまわしても、足をばたつかせても、ミコトは動じない。ミコトの意図がわからずに、何より今ミコトに手を出されるのは嫌で、尚人は抗った。 「…っ、だ。いやだ!…っっ」 ようやく離されたミコトの唇の端からつぅ…と血の筋が流れる。 血の色に驚いた尚人の体が震えた。 叫んだ拍子に力余って噛んでしまったことに気付いたときにはもう遅い。 「ご、ごめんなさ、い、あの」 「……いけないね、ナオトは」 「……っ!」 生傷を抉られるような痛みが、印の痕を切り裂く。 微かに発光する胸元を押さえ、床の上に転がった。痛みに声も出ない体を、腕をとられ無理に引き起こされる。 「……いっッ…」 「忘れないようにね、誰かのことなんて考える余裕はないはずだよ。ナオトは私の為にあるのだから」 震える憐れな遣え人に優しく微笑んだミコトは、細い体を抱き上げ白い虚空に開いた暗がりへ導く。 尚人は拒めなかった。 |