巫の住まいは常に何人かの側仕えが住み込んでいて、食事の支度や身の回りの世話をする他、ごく限られた者しか訪れることはできない。本邸から離れた位置にあり、静かな佇まいをしていた。 「明さま。尚人さまはお戻りでしょうか」 縫い針を操る手を止めて、明は顔を上げた。 渡り廊下に膝をつけてこちらを伺う背に、葉影がかかる。巫邸ではどの部屋からでも木の葉が見える。周りには木々しかないのだから他は見えようもない。稀に訪れる人は、窓辺のすぐ側まで迫る緑の葉を見ると驚きの声をあげた。資産的にも文化的にも価値がありそうな建物が、森に食い破られるような印象を受けるようだった。早く枝を払えと判を捺したように言う。 細部まで意匠に凝った設えや、百年の時を越えた小物も住人にとっては生活をこなすための当たり前の品で、壁や屋根が多少枝に削られても雨や風が凌げているなら構わなかった。 壊せばもう替えが利かないと…最初は窓1つ拭くのに緊張を覚えていた側仕えも今では平気な顔で簡単な修理などこなしている。彼の顔は珍しく少し強張っていた。かけられた問いに明はゆっくりと首を横に振った。 「…申し訳ございません。過ぎたことをお訊ねいたしました」 「詫びて貰うようなことではありません。私はせめて顔を見せろと暴れましたから」 「……さようでございますか」 本来なら巫の行き過ぎを止めなくてはいけないところだが、側仕えはにっこり微笑んだ。笑みだけで、明の振る舞いを全面支持しているのが伝わる。明もややわざとらしいぐらい鷹揚に頷いた。 宗主に叛意を持たないこと、守護の意に沿えること、遣え人を守れることなどを当たり前に備えられるように巫は時間をかけて育て上げられる。巫1人が勝手をするだけで榊家全体を守る仕組み自体に影響が及ぶためだ。 素質の有無にかかわらず巫脈に生まれた者だけが巫になれた。後から詰め込むことよりも生まれ育つ環境が大切だと言われ、巫、巫を教育する者、教育する者を養育する者、巫に仕える者、仕える者を育てる者など、すべて身内から賄う。どんなに理不尽なことも異様なことも、常識や信念として当たり前に培われれば綻びも少ない。 巫として失格だと言われるようなことを平気でする明にも、共に暮らす側仕えたちにも、体の奥深いところ、魂とも言い換えられるような箇所で一族を守るための刷り込みがされていたが、彼らはそれを自覚するだけの素養や才、あるいはきっかけがあり、振り回されずに済んでいた。 「良ければ少し付き合っていってくれませんか。少し迷っている箇所があるのです」 「はい、喜んで」 部屋に広げた白い祓い用の式服の袖を持ち上げ、明は縫い掛けの箇所を相手に向けた。尚人の為の服だった。そのことを分かっている側仕えは慎重な目で示された箇所を見る。 「幾つか仕掛け用の隙間を開けたのですが、こうだと着心地が悪くなるのではと思いまして」 「尚人さまがお好きな仕込みは決まっておりますから、こちらは狭めて、ええ、そのぐらい余裕を持たせてみてはいかがでしょう」 「なるほど。そうすれば大分改善されますね。助かります」 2人で知恵を出し合いながら幾つかを手直しすると、明らかに出来映えが良くなる。明は満足げに笑みをうかべた。 修行日が近付いている。その為の服だった。 一族の若手を集めて開く恒例の行事は、榊家に関わる人々にとっては未だ注目度が高い。 本来は若手の能力向上の為の訓練であって、外野は関係ないが、個々の力量を綿密に調べた上での鍛錬日程を組むので本人にも他人にもはっきりと得手不得手が知れる。どこも優秀な人材が欲しい。自分の家から好成績をあげた者が出れば良い術者を育てると厚遇される可能性もあるので、参加者よりも周囲が大騒ぎした。 巫邸にいる間は特に手縫いの浴衣やシャツなどを好き勝手に着せていたのが功を奏したのか、この式服は尚人自身が頼んできたものだったので、余計、巫の作業には熱が籠もる。 かつては自分自身か、家の者が縫うのが普通だった式服も人気の店に頼めばかなりの費用と月日がかかる。巫が仕立て屋がわりにされたと知ったら、本家の人々はとんでもないことだと眉をひそめるか贔屓が過ぎると言って止めさせただろうが、幸いにも巫邸は数えるほどしか人が来ないから黙っていれば知られない、知られたとしても遣え人と巫の付き合いは隠されているから吹聴されることもない。隠された世界の住人であるからこその裏技を体よく使っていた。 「たいへん良い仕上がりになって参りましたね。尚人さまもお喜びになるでしょう」 「そうだと良いのですが。私はこうした式服とは無縁でしたからね。気に入るものに仕上げられるか少し心配なんです」 「微調整は術者本人がするものですから、大丈夫ですよ。仕立てがしっかりしていることが大切なんです」 不安そうな巫に微笑みをうかべた側仕えは、丁寧に進められる巫の手元を見て内心舌を巻いていた。 とても細かく揃えられた縫い目は、何よりも巫の愛情を感じ取れるものだった。着る本人は気付かないかもしれないが、着心地の良さを体感するに違いない。 「わたくしは立場上、何者も…強いて言うなら巫だけに従えばいい役目にありますが、明さまが巫であることに感謝を申し上げたくなります」 「どうしたのです?急にそんなことを言って。何もあげられませんよ」 巫は苦笑をうかべて側仕えを見る。 頷きながら、側仕えは少し遠い目で白い布地を見つめた。 「遣え人になられたどの方も…お幸せとは言えませんでした。何も知らされない、分からない、周囲にあるどのような素晴らしさからも遠ざけられ…慰めることもままならないうちに亡くなってしまわれた」 非道い言い様だが、遣え人は消耗品に過ぎない。 歯車の1つとして刷り込みはされていても、惜しみない教育を与えられ大切に育てられる巫とは違い、遣え人は自分たちが何かということさえも殆ど教わらない。たとえ反旗を翻しても、それがどんなに迷惑なことで厄介でも、仕組み自体を揺るがせはしないからだった。最悪狂っても薬浸けにしても、守護が気にならなければそれでいい。 巫は宗主、引いては一族全体の総意を伝える代弁者。 遣え人は贄。 同じく秘されていても、あからさまなほど、同じ扱いはされない。 「尚人さまは今までの方とは違います。主筋でいらっしゃいますから自分が何者にされているかを分かっています。幼い頃のことはあまり存じ上げてはおりませんが、今もとても人を惹き付ける美しい光のある方です」 「…どうしたのです。急にそのようなこと」 「わたくしは…。尚人さまはあの方々のように…なることはないと…、大丈夫だと言って欲しいのかもしれません」 「朝露の輝く若葉のような瑞々しさや薄色花が群れて咲くような愛らしさ、月明かりを映した水面のような静かな面差し。我が従弟ながら飾り付けたときの姿なんてこの世のものにも思えないほどきれいだよね。本人は無頓着だし、周りは目立たないよう気を配っているから、誰と会っても呆然と見惚れられる事態だけは避けられているけど、切っ掛け次第であれは相当化ける。少なくともあっという間に儚くなられた方々のようにはさせないよ。それで満足かな?」 |