断りもなく部屋の中へ入ってきた宗主を明は呆れた様子で見上げた。 側仕えは手早く散らかっていた道具などを片付け、さりげなく席を整える。慣れているだけあって驚いた様子もなかった。いつも急に現れるので、巫邸の住人は宗主を見ても慌てない。他の者なら間違いなく、焦って場を繕うとするはずの状況でも平気だった。 手際よく動いて隅に控えた側仕えを宗主はきらりと光る目で見下ろした。 「言い訳しないの」 「申し訳ありませんが、どのようなことについてでしょうか」 「言っておくけど。ここの住人であれば、宗主、巫、遣え人、どれか1つにでも傾くことなく忠実に榊家に仕えるものだよ」 「はい」 「巫は遣え人だけを特別扱いしろと言っているの?」 「いいえ、とんでもございません。わたくしどもはお3方とも愛しく大切に思っております。宜しければ宗主、服を一着貰っていただけませんか。大変お似合いになると皆で話しておりました、銀糸が織り入れられた美しい布がございます。欧風に仕立てれば素晴らしくお似合いになることでしょう」 にこやかに言う側仕えを宗主は渋い顔で見つめ、小さくため息を吐いた。 「………いらない。明、いつも言うけど一体どういう育て方をしたらこれが出来るの」 「違いますよ、むしろ私が育てられたのです」 微笑んで首を傾げた巫に宗主は至って不機嫌な顔で用意された席に腰を下ろした。宗主用にぬるめで注がれたお茶を無造作にとって一口のみ、恨めしげに唇を尖らせる。 こうしてほしいと望んだこともないのに、ちょうど良い加減で出してくるのが憎らしい。様々なところで信奉者を増やしている彼にしてみても、喉から手が出るほど欲しい優秀な人材だ。 「お茶からしてこれだし。欲しい。譲ってよ。何人もいるんだから1人ぐらい融通してくれても構わないと思うな。圭也だけじゃ回らないこともあるんだよね」 「恐れながら、圭也の他に傍に置くものを持たないようにしてきたのは宗主でございましょうに」 「そうですよ。あれ1人で満足していなさい。今更宗主の寵愛競争にうちの者を巻き込まないように」 「ちぇー…」 名残惜しそうな目に晒される側仕えを下がらせ、明はお茶菓子の盛られた器から1つ2つを取り分けて前に差し出した。 「こちらはあまり甘くありませんから、宗主でも食べられますよ」 「明、尚人は?」 「圭也も処分に困るでしょうに。甘いものは嫌いだと打ち明けられないのですか」 「明。尚人だよ」 射るような目が巫を捉える。 ため息を1つ付いて、巫は小さく首を横に振った。 「延長を許した覚えはないよ」 「尚人が目の前にいたのなら、強引にでも連れ帰ります。ですが隠されていては…太刀打ちできません」 「…………」 和真は、小さく声を立てて笑った。色素の薄い髪が揺れる。子どもっぽい仕草が消え、ひやりとした空気が漂うのを巫は黙って見つめた。 「宗主が出しゃばらなければならないほど腹を立てているということ?」 あくまで守護の世界は守護のもの。巫であっても、無理に帰すことは許されない。掟に則り宗主が力を行使すれば、勿論分が悪いのは約束を違えている守護。連れ帰ることも可能だったが、あまり良い方法とは言えなかった。 後々にしこりが残りそうなやり方は最終手段だ。そうそう使えない。 「明は、わたしや尚人の味方だと言うけれど」 明は宗主に応えず黙して、一旦片付けた裁縫道具から小さな布きれを取り出した。縫い掛けの足袋は修行日用なので使い捨てされるものだったが、手を抜くつもりはなかった。きちんと型を取ってあるので、もちろんただ1人のためのものになる。 「片方に尽くせば片方が不幸せ、ジレンマを覚えたりしない?」 「…………」 「教えてよ、どう思っているの」 「せめて…お考えを話してあげてみては」 「告げ口しようと思ったら、明だっていつでも出来るのにしないのはどうして?お断りだよ。わたしだってね、今あれに嫌われるわけにはいかない」 宗主の双眸は子どもらしい出で立ちを裏切る冷たさを孕む。匂い立つような美貌や壊れそうなほど細い手足は守り手を必要としているように見えるが、彼ほど儚さや脆さとは無縁の人もいない。 現宗主の祖父である先々代宗主は、上に立つ者としての能力を余すことなく持っていた。 部下への愛情が深く、労いも報償も惜しみなく与え、屋敷を抜け出してはどこにでもいる一術者のように酒を引っかけて来るような身軽さで、一族の末端に行けば行くほど慕われている。先々代を唯一の主と思い定めている者もまだいないわけではない。 けれど彼はある1人だけに特別な思いを持った。彼女のことが絡むと他は全て塵芥も同じに見えてしまう極端な偏愛をみせ、…仕方ないと受け入れられる一方で憎しみも買った。 もともと役に立たないと思った相手には愛想を振りまかない気質だったのもあり、彼という光の下で見向きもされなかった人々の不満は募る一方だったのだ。彼女の存在は彼らの嫉妬に拍車をかけたが、先々代宗主が生きているうちに行動に出たものは、たちどころに消された。元凶である2人ともがいなくなってようやく、恨みを晴らすべく動く輩など情けないにもほどがあるが、それだけ先々代の力がつよかったのだとも言えた。 「明、わたしはね、あれが可哀想だと思うよ。そう年が変わらない孫同士でありながら、わたしは祖父があの子を贔屓する余り、実力があるのに認めて貰えないのだと不憫がられてきた。だけどね、目隠しで育てるような愛情を受けるのが幸せと言える?死ぬまでずっと庇護を受け続けられるならまだしも、結局途中で断ち切られて。再び立ち上がれたのが不思議なぐらい、あの子はやわになっていた。あの子があの人に愛しまれたのは彼女に似ていたから、そして彼女に懐いたからだよ。どちらもただの子どもがどうこう出来たものじゃない。例えば祖母を嫌ったら、思いがけず怪我をさせたら、幼子なら誰でも有り得ることでもあの人には許せないことだったろう」 先々代の跡を継いだ後継者は尚人を守れなかった。 敵意を向けるのにちょうどよい相手が他にいなかったために、10を過ぎたばかりの子どもにするようなことでもない苛烈な虐めが起こったのを、先代宗主は止められなかった。 無垢に育てられた子どもを寄ってたかって大人たちが貶めるさまは醜いばかりで、先の宗主に見切りを付け、密かに手を回して止めさせたのは和真だけではなかったはずだ。 「ある意味、遣え人になったことが憎しみに歯止めをかけたのは分かっています。地獄の底に突き落としたと満足して怒りを鎮めた者もいます。…ですがまず宗主自身と尚人自身とで解決すべきことが残ったままではありませんか?前も言いましたでしょう。私は巫ですから、あなた方以外はどうでも良いんです。2人ともに幸せになっていただかなくては」 「それを言うなら、守護も加えないといけないんじゃない?」 「いいえ。あの方は私が気にかけなくとも充分勝手に楽しく過ごしていらっしゃいますから。むしろ多少妨害するのが丁度良いぐらいです。あの方も代が変わられて間もないですから、まだまだ探り合いですしね」 「そういうふうに言えるのはさすが2代の守護に関わった人だからこそかな。…あれにあの子が殺されることはない?」 訊ねた宗主の顔を、巫は真っ直ぐに見た。 安易に答えることは出来ない内容であるのを示すように、応とも否とも判然としない感情の失った顔になる。 「人ではないものに人の決まりを押し付けることは出来ません。あなたがどんなに優れ智慧があっても、守護を支配することだけは出来ません。それだけは肝に銘じておいてください」 「……分かった。…ところで明」 「…はい?」 話をしている間も黙々と進められていた作業を指さし、宗主はからかうように目を細めた。 「それ、さすがに年頃の子どもとしては嫌がるんじゃないの。花いっぱいで可憐なんだけど、あれも一応男の子だよ」 「………おやまあ…宗主の顔を見ていたら、つい」 「ついって何。わたしのどこがお花?」 「あの銀の布がふと過ぎったのが失敗でした。これは差し上げます。勿論宗主の足の形に合わせます」 「要らないし。それと服もだよ。着せ替えはお断り」 「可愛らしくて素敵ですよ」 楽しそうに勧める巫に宗主は少しうんざりとした顔になった。 用意されるものを何の疑いもなく着せられる生活を続けていた尚人は、花が飛んでいようがフリルが付けられていようが平気で身に付けてしまうし、恐ろしいことに良く似合う。学校に通い出して一般常識を知ってからはある程度愛らしいものは敬遠するようになったが、まだまだ着せ替え人形になる危険は否めなかった。 「尚人で遊んでいるのは明もじゃないか」 「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。愛らしいものを更に愛らしくすることの何が良くないのです。…その点、宗主も充分、私どもの創作意欲を掻き立てるのですが、無下にされるのですからかわいげのない」 「かわいげなくて嬉しいよ。まったく悪癖なんだから…」 ぼそりと呟いた宗主の台詞をしっかり耳にしていた巫は、小さく微笑みをうかべて明るい色糸を針に通した。 後日、花じゅうたんのごとき色とりどりの花が散った足袋が届けられた宗主は、無言で蔵の奥に片付けさせた。 |