「青く沈む」



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 揃いの白い装束を身にまとった少年たちがずらりと並ぶ。
 山の朝陽は白く、吹き下ろす風は冷気を含んで肌に刺さったが、夜ほどには凍えず、あさもやに籠もった森の匂いは気持ちを落ち着かせた。
 尚人は瞼を伏せ、深く息を吸い込んで、吐き出す。
「山祓いを始めます。1から20までの番号をお持ちの方から、中へお入りください」
 少年たちが山の中に入り終えるまでは場はざわついて、案内係が張り上げる声が時折響き、興奮と緊張とがないまぜになった独特の高揚感におおわれる。
 前回首位である尚人は最後である。
 最終組の番号を持つ者たちはある程度の距離を持ってひとかたまりになり、それぞれがそれぞれの集中を高めるための自分の世界へもぐるため、他と違って静かだ。
 どれぐらい待っただろうか。それほど長い時間ではなかったように思う。
 そっとひらいた目線を目指す場所へ向け、背伸びをして体を解した。
 門番は尚人の姿を見留、小さく頭を垂れる。
「ご武運を」
「ありがとう」
 開かれた門は最後の参加者をのみ込んで閉じられる。
 尚人は振り返ることなく森の奥へと駆け進んだ。




 結界で閉じられた山の出入り口を抜ければ、中は負の気配で満ちていて、外とはまったく違った。
 命を脅かすような野生動物の生息地からは離れているし、きれいな湧き水を至る所で見つけることが出来る。緑は深く、気温も高くなく低すぎることもなく。山歩きを楽しむにはちょどいい勾配が続くように見えるが、この山で頼りになるのは勘と知識、そして負祓いの能力だった。
 山に充ちた負によって人はまず方向感覚を失う。磁場がおかしいのでもともと方位磁石は使えないし、最新式の機器はことごとく壊れるから、結局、影や星で方角や位置を読み、地図に従って目的地に進む古い手法を取るのが確実だったりする。
 もちろんこれは生き延びるための訓練ではないから、携帯食料は好きなだけ持って行けたし、参加者たちが休めるように特別に区切った場所も設けられていた。そこでは身の安全と食糧の供給が望める。
 ただし所詮、修行という名のお遊びで、命のやり取りをするわけではないのだからと侮っていればとんでもないしっぺ返しを食う。
 彼らはそのことを良く理解していたし、また充分な心づもりがあったが、それでも思いがけない出来事に手を焼くことになっていた。
 行き先を阻むように暗く澱んだ負を短い言葉を唱えて祓った航市(こういち)は、手にした細い枝の一振りで同じように負を祓った従弟を振り返り、久しぶりに見た鮮やかな手並みに感心したが、呑気な気分には浸れなかった。
「…尚人」
「来た、2つ」
 黒いもやのように見える固まりを認めて、背向かいに構える。
 祓いの力を込めた気を手のひらから放つと、あっさりと霧散するが、気は抜けない。息が上がった尚人を振り返り、航市は額にうっすらうかんだ汗を甲で拭う。
 穢れ山には負が充ちている。そんなことは分かり切っている。だが山に入ってから数時間余り、その間途切れることなく祓い続けるとなれば、話は別だった。そこまでいくと、異常としか言いようがない。
 数えるのも面倒になった負祓いを済ませ、航市は近くに見つけた湧き水の傍に簡単な負除けを張り、濡らした布を使って尚人の汗を丁寧に拭った。
「生き返るね」
「こうしているとただの山だ」
「うん、負除けをかけ続けたまま移動できたらいいのにね」
「…俺を殺す気か?」
「冗談です」
 口を一文字に結んで眉を寄せた従兄に、尚人は小さく笑いかけて一息ついた。
 航市は尚人が世話になっている伯父夫婦の子で、尚人にとっては父方の従兄にあたる。尚人にしてみれば、友であり兄のような、いちばん身近な存在だ。今は一緒に暮らしているのもあって、気心は誰よりも知れている。
 幸いにも遭遇するのはどちらかというと小さめの負の集まりで、祓うのは大して難しくない。それでも数をこなしていくことになれば、病み上がりの体にはきつい。心配そうな視線を向けられて、尚人は軽口を止めた。
「…ちょっと運動不足だったね」
「本部からの迎えを待とう」
 存在さえも忘れかけていた銀の腕環が、重みを持つ。
 参加者に配られるようになったそれは発信器で、術具などを開発する研究部においては稀に見る快挙だと言われている。ただし発信元の確認は、山の外からしかできない。
 救助者は山に入る前の位置しか確認が取れないし、入ったその後は何の気配も読めない。先に進むのは止めて、救助を待つことにしようという航市の提案に尚人は緩く首を振って拒んだ。
「腕輪を使わなくても、この山の様子では迎えが出されているだろうが…念のためだ」
「救助は来ない」
「大あわてで修行の中止を命じているのではなく?」
「うん。わざわざ呼びさえしなければ現時点で迎えが送り出されるなんてことはないと思う。航市、修行開始前はこんなじゃなかった。異常は山に入った後に起きている」
「すぐに誰かが緊急信号を発しただろう。誰かが迎えに入れば、すぐ異変に気付く」
 参加者以外は山に入れない。
 参加者自体も外に出ようと思ったら入り口まで引き返すしかないが、山に入った後に入り口を見分けるのはとても難しい。山のどこからでも出入りできる救助者を伴わなければ、途中退場もままならなかった。勿論、誰かが山全ての負祓いを成功させれば気配を追うことも容易く、入り口にも戻れるが、逆に言えばそうなるまでは外にいる者たちが中を伺い知ることも出来ないので、緊急信号が発せられるようになる前は、何らかの異常が起きても山の滞在期間が過ぎるまで分からなかったりした。
「余程のことがない限り外から中を伺い知ることは出来ないが…今は違う」
「うん。毎年何割かは参加してすぐにリタイアする。緊急信号が出せるから。でもそれなら、救助を待つ誰かと出会っているはずだよ。でも会ってない」
「………たまたまだ」
「今年は地図にもあるような基本通りの道を選んでいるし、最後尾から始めたし。それでもたまたま?」
「…………」
「航市、そんな嫌そうな顔を僕に向けても…」
 棄権者を回収するために救助者が入っても、山の異常に気付かない。そんなことはまずありえないが、ありえないことが起きているなら他に理由がある。
 不機嫌そうに眉を寄せた航市に一瞬ためらったが、黙っていても仕方ない。下手に言い繕ってみたところで、お互いに勘付いていることだ。
「負が濃くなっているのがごく限られた範囲で、例えばそれが僕たちの周りだけということなら…最短距離を進む救助者は気付かないだろうし。部分的な負の偏りがあるのは良くあることだから、むしろ他の参加者を見かけないことからして、避けられている。まさかその偏りが僕たちと一緒に移動している、なんてふつう考えない」
 無言で自分の腕に付いた銀の環に手を掛ける航市を尚人は両手で押さえた。
「…尚人、離せ」
「離したら呼ぶんでしょう」
「妨害行為は禁じられている。…多少のことなら、ほっておけばいい。だがこれは」
「たぶんうんと時間を掛けて仕組んだことだけど、だからって引き返さなければならない理由になる?ならない。こんなの平気」
 ちょっとした意地悪にしては悪意がありすぎる。度を超えていると言っていい。穢れ山の負は人の手で操れるようなものではない。いつどこで、負の均衡が崩れてしまうか分からないから、冗談では済まされない。ひとつ間違えば山にいる全員を危険に晒す真似だった。
「僕が棄権して、異常を知らせて、中止を促すのが真っ当だとは思う。でもこの山にいるのは榊家に連なる人々で占められていて、負祓いが本職。多少の予想外の出来事ぐらいそれぞれで対処して貰って何が悪い」
「尚人…」
「僕は妬まれる理由はいっぱい持っている。滅多に顔を出さないのに、何もしていないのに、宗主の横に我が物顔で立ってるから。どんなにいい家に生まれようとも能力がなければ意味がないのに、僕は負祓いの仕事1つしないまま本家に出入りしている。大事な務めを持つなんて言うのは嘘で、血筋で贔屓にしているんだろうって思われても、何ら不思議はない」
「何も知らない奴らのことなんか放っておけばいい」
「何も出来ない役立たずになったら、僕に残るのはあの務めだけだ。どのみち家から離れられないのなら、せめて堂々と胸を張れる理由が欲しい。たとえ見せかけの、ただの張りぼてでも理由が欲しい」
 顔を強張らせた航市の腕に、尚人は更にきつくしがみついた。
 今は修行日の準備など、宗主の傍でこなす本家の仕事をほんの少し貰えているが、分不相応に見られる傾向が強い。だから本音を言えば、やりたくない。でも出来なければ更に役立たずに思われる。それでムリをして倒れてしまっては話にならないことは分かっていたが、手は抜けなかった。
 守護に召される日を待つだけの日々など考えただけでもおぞけだつ。
 あの屋敷の奥の部屋に閉じこもるしかなくなったら、尚人は日がな一日、陵辱の恐怖に苛まれるだけだった。
「僕はまだ怪我なんてしていないし、するつもりもない。充分負も祓っていける。まだやれるのに救助を呼ぶなんてこと、絶対にいやだ」
「無理はしないって約束しただろう…」
「全力疾走し続けろっていわれれば出来ないかもしれないけれど、負祓いなら、自信ある」
「術者としての能力は認める。だが今は…封がある」
 言いにくそうに、だが下手に隠したりしない航市の言葉に尚人も頷く。
 遣え人として、負祓いなどをこなす能力に枷が掛けられている尚人は、参加者の中でも極めて不利な立場だ。
「確かに、制限がかかったままだけど…宗主が去年よりも多めに解いてくれているんだ」
「…本当か?」
「うん。知られたら…、かけ直すよう言われると思って。黙っててごめん。でもやれと言うなら、この辺りすべての負を祓ってもいい」
「目立つぞ、そんな大がかりなことをしたら。…折角救助を呼ぶのを待っても、一発で封を多めに解いたのがばれて連れ戻されかねない」
「うん。……航市」
「気にするんじゃない。俺はおまえのそばにいる、そう決めている」
 参加者たちが山に入るにあたって護衛をつけたり、誰か1人を勝たせるために徒党を組むのは認められていないが、山に入れば誰かしらと一緒になって、ひとりで行く者は殆どない。
 けれど尚人には行動を共にしてくれるような友人などいないし、航市がいてくれなかったら、修行日の参加も見送るしかなかっただろう。さすがにたった1人で行かせてくれるとは考えにくく、尚人自身、病み上がりでは難しいと思う。
「今は休め」
「……うん」
 体を横たえるとすぐに眠たくなって、瞼を押し上げていられなくなる。
 微かな寝息をたてて眠りへと落ちた尚人を、航市はそっと見下した。
 ひとりっ子の彼はひとつ違いの尚人を弟のように慈しんできたつもりだ。それが突然、思いもしなかった事態に直面することになった。尚人に与えられた役目が何か知ったとき、彼は自分の無力さを思い知った。
 頭に血が上り、従弟の手をとって逃げようと決めた。逃げ出した翌日には捕らえられ、引き離されて会えなくなるところを、まだ子どもだからとどうにかとりなしてもらえたが、未だに本家への出入りは許されていない。それ以外お咎めらしいお咎めもなく済んだのは幸いとしか言いようがないが、あんな悔しくて情けないことはなかった。
 光の下にさらけ出された白い肌が、血の気を失い、蒼白く透き通る。男くささの欠片もない、かといって女性めいた感じがあるわけでもないが、曖昧で清廉な美貌には癒えきらない疲労が滲み、かげりが落ちていた。
 絶大な庇護力を持った祖父を失ったとき、尚人は自分に何が起こったのか、なかなか理解できないようだった。歯向かう機会さえなく、あっというまに飲み込まれ、翻弄されてしまった。
 あの時、何もしてやれなかった。今なら何かできるかといえば、違うとしか言えないが、ただそれでも黙って見過ごしてなどやらない。我慢ならなかった。
 遣え人という務めを、千歩譲って、尚人でなければならないという特別な理由があると仮定するとして、遣え人になる必要があったとする、しかしそのいったいどこに責めなじり、見下し、傷つける必要がある。そんなものどこにもない。
「これ以上、尚人を苦しめることはゆるさない」
 小さく呟いた航市の声は、頭上を覆う山のざわめきに掻き消える。山は信じられないほど穏やかだ。航市たち以外の誰かを感じさせることもない。けれど異常な量の負が彼らたちだけを狙いすましたように襲い、悪意を持って苛む。忌ま忌ましげに遠くを見つめ、航市は込み上げる苛立ちを密やかに腹の底に溜める。
 何としても、尚人を守る。
 それが航市の決意だった。



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