早めの夕餉を終えて、和真は離れに入った。 さっさと入浴も済ませて、うちわを使ってゆるく扇ぐ。こぢんまりとした和室がひとつふたつあるきりの離れは、この山に来るようになってから好んで使っている部屋で、わずかに届く人の声がなければどこにいるのか忘れてしまうほど静かだ。 床の間に生けてある一輪挿しの花をなんとはなしに眺めながら、和真は布団から体を起こした。 物音もなく傍らに現れた冷やりとした面差しを見上げて、小さく笑む。 「仕事熱心だね」 「あなたほどではありません」 気持ちのこもらない返答に頷き、和真は座るよう促した。 さりげない仕草にもどことなく品があって優美だが、視線を逸らせばそれだけでかき消えてしまうのではないかと思うほど目立たない。彼そのものが静けさに馴染んで融け込む。 優れた容貌を持ちながらも煌びやかさや派手さとは無縁で、かといって大人しすぎるということはなく、凜とした佇まいが好もしい。それは彼から彼が育てた子にも受け継がれた空気だった。 「美矢」 尚人のかつての世話係で、継役の側近を務める男を見上げ、和真は茶箪笥にしまっていたものを放った。丸みのあるチョコレートの粒が、筒状の入れ物の中でざらりと鳴る。 「返す」 「まだ半分以上残っているようですが、お気に召しませんでしたか」 「おおいにね。当たりをひくまで捨てるに捨てられないし、圭也は苛つくし」 「わざわざ目の前で口にされたとは、度胸がおありだ」 「嫌がらせだよ。圭也は細かいから、執念深く覚えているだろうね。またそんなものをと怒っていた」 「それはそれは、せいぜい気をつけさせていただきます」 自分の主人が困るかもしれないという話をしているのに美矢はそっけない。相変わらずの反応に和真は苦笑いを洩らした。 継役の側近として確固たる地位にありながら、忠誠心どころか何の義理も感じていない。今の継役たちは何を置いてもとにかくまず服従を求めようとする節があるのに、美矢のこうした態度には気付かないのが不思議だった。気付きつつも使っているという可能性もあるものの、うまいこと隠しているのが実情だろう。 「圭也さんも相変わらず、和真さまひと筋のようですね」 「そんなところが可愛いんだよ」 「あんなものを捉まえて可愛く思えるのは、あなたと…あれくらいです」 「あれはね、まあ、また別だよ」 圭也には恋人がいる。本人はそうとは認めていないが、傍目に見ればそうとした取れない。 相手の顔を思いうかべてお互いに肩を竦めた。割れ鍋に綴じ蓋というのか物好きというか。彼らのことに関しては、ふたりとも静観することに決めていた。人の恋路を邪魔して得することなど何もない。 圭也と美矢は同い年である。 人当たりの良い圭也は、甥の世話係としてやってきた彼に友だちになろうねと声をかけた。その時美矢はにっこり頷いて、小気味よくきっぱりと断った。 良く言って好敵手、悪く言えば仇敵。 常にお互いにお互いの腹黒さを指摘しては気が合わないことを確認し合っている。 不意に落ちた沈黙を破るように、和真は茶箪笥の上で指先を軽く弾ませた。彼らのことに下手に関わると、それこそ藪をつついて蛇を出す。話を変えるにはちょうど良い間が開いて、短い、響きのある音が耳を打った。 「報告して」 「前もってお断りさせていただきますが、新しく分かったことは殆どありません。今も変わらず一定の負が集まっています。山全体の負は安定しているため、今すぐ他へ累が及ぶ可能性はありませんが、時間の問題であるとも言えます。…"彼"にも棄権の意志はないようです」 「棄権などするはずがない。でも隠したりもしないだろうね」 「下手な横道に逸れる方が危険です。それが分からない彼ではありませんから。急ぎ術の構成を解析させていますが、仕掛けの解除には数日かかる見込みです」 「具体的に」 「3日。状況を公開されるのでしたら半日」 「それでも半日?ずいぶんまぬけな話になったものだね」 この負山の管理は継役の一部が担っていたが、手持ちの山に勝手な真似をされたまま気付かなかったこともまぬけなら、気付かず執り行うことを決めた宗主自身も詰めが甘いと言わざるを得ない。自分への皮肉も零して、和真は薄く笑みをうかべた。 美矢は必要な情報だけを取り出して何かの上にかぶせ、特定の相手だけに開くようにする、特殊な術が使えた。もとは自分の幼い主人の遊び相手をつとめるために編み出したもので、術とも言えないものだったが、人知れず使い物になるまでに仕立てた。 差し入れられた駄菓子に混ぜ込まれた報告で山の異変を知った和真は、すぐに幾つか手を打ったが、より正確な情報を知るために彼を呼んだのだ。 美矢は圭也におもねることなどないし、ある決定的な違いから利害が一致したりもしない、秘密を共有し、利用するにはまさにうってつけの男だった。 美矢が優秀であると誰もが認める。ただ同じだけ冷酷な人間だとも言われる。感情の波が乏しく、命令を受ければまるで機械のように的確に、情の欠片もないような容赦のなさで成し遂げた。多くの人がためらうことをあっけなくこなすので、便利に用いはするが恐れらているのだ。いつか自分が命じる立場から退けば、彼らが彼にさせてきたのと同じことをされると思うのだろう。 人でなし。冷血漢。血も涙もない。得体の知れなさ、掴みきれなさが彼をそう言わしめる。ただ、彼を動かすたったひとつの理由を知っている和真には、何てこともない。守るべきことを守れば敵にはならないのだから、むしろ安心してそばに置ける。 「わたしは欲深いから欲望のままに動く人間が好きなんだよ。でもこの件はどうも気に食わないね」 「あなたは自分のものに勝手をされるのがお嫌いでしょう。着火点もたいへん低い」 「それはつまり短気?」 「高温なのに一見低温に見えたりするのが厄介です」 「今度は褒めてる?」 「どちらも貶しています」 ぽそりとした美矢の呟きに和真は満面の笑みをうかべた。 不思議と腹は立たない。むしろずけずけものを言う美矢がおかしくて堪らなかった。 「おまえはあの子をわたしが興味を持たない、どうでも良い相手にしようと画策していたのに。好きになるぐらいならいっそ憎ませようともしていたのにね。わたしはあれを気に入ったし、おまえもけっこう好きだよ」 「はっきり申し上げれば、ご遠慮させていただきたい気持ちでいっぱいです」 形の良い眉をぎゅっとひそめた美矢には応えず、和真はふいに動いて間を詰め、白い手をとって菓子の筒を開けさせた。そのあとはちょいちょいと指先でつついて促し、自分の手のひらに数粒とる。薬でも飲むように口に含んで、跪いた美矢の顔を上から見下ろした。 鋭く尖った視線を向けられるのを無視する。唇を合わせ、甘い粒を押し込んだ。残った甘みに空になった口から息を吐く。 「うぅん、あまい…」 「あなたは、」 勝手な真似をされただけでなく、自分が口にした甘みに不快な様子でぶつぶつ呟く宗主を、美矢は睨みつける。菓子の粒を飲み込んだところで美矢は顔色を変え、一瞬動きを止めた。 「…っ」 「どうした?」 「あなたは、私が何年かかったと」 「うん?でもね、わたしは当たりをひとつだけつくるなんてことも、特定の相手だけに読めるようにするなんて芸当もできないよ」 「ばれたらとか、失敗したらとか、そういう恐れを抱いていただきたい」 「うーん、無理そう」 即答した和真に美矢の美しい顔から怒りの火が散るが、そのすぐ後には聞いた自分がばかだったとため息と共に吐き出した。 お菓子の粒に情報を仕込むのは決して簡単な術ではない。それをあっさり真似された苛立ちと動揺を思い切りよく切り捨てて、美矢は渡された話の内容を慎重に吟味した。 「…継役たちのことはお引き受けいたします。ただし」 「圭也だね。わたしから言い含めておく。できるだけ仲良くしてあげて」 「ええ、善処いたしましょう。明日のデザートは柑橘類です」 圭也は酸っぱいものが苦手で、とくに柑橘系の果物がだめなのだが、外面がよいので人前ではそんな素振りは見せない。 圭也の災難を思って程々にねと声をかけたものの、和真は止めはしなかった。止めて言うことをきく相手では、そもそも圭也と対等に渡り合うことも出来ない。 幾つか細々とした話を詰め終えると、美矢はそれ以上の無駄な時間は割けないというように不機嫌な顔で、ただ仕草だけはこれ以上のものはないほどの優雅さで頭を下げると、そっと部屋を後にした。 元のように静まり返った中で、和真は文机の前に行き、広げた紙の上になにごとかを書き付けた。その紙を丁寧に2つ折りしてから、窓をあけて、ひと言ふた言唱える。ただの紙切れから姿を変えた鳥が翼を広げ、闇夜の中へ紛れていった。 |