「青く沈む」



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 ぼんやりとした薄闇に小さな火がはぜる。夕闇に包まれた山奥は夏とはいえずいぶん冷たい風が吹く。眠り込んだ尚人の肩に布をかけ、航市は焚き火の向こうにいる男を見やった。
「浩明(ひろあき)」
「どこでも眠れるんだな。ご令息だから、寝袋ぐらい持ってきているかと思ったぜ」
 川風を避けるられるだけで充分、と、航市が陣取った岩影で本当に休めるのか疑っていた声だ。からかいを含んだ声には答えず、航市は無言で焚き火の中に小枝を放り込んだ。なるべく乾いたものを選んで拾ってきたつもりだが、炎にあぶられた枝が裂け、鋭い音を立てる。眠りを邪魔したのではとそっと従弟を伺うと、安らかな寝顔が見えた。
 無理はしないこれぐらいなら平気だと口にしていたが、軽く夕食をとってからすぐ休むことにしたのは、疲れがひどくなる前にという判断をつけたためだろう。自分で言わなければ強制的にも寝かしつけるつもりだったものの、こうして眠る姿を見ていると、航市にはやはり少し迷いが生まれた。
 できることならずっとこのままここで日が経つのを待ちたい。だがそれでは面白くないだろうし、尚人は決して頷かないだろう。やれるだけ先へ進みたがるのは目に見えていた。
「良い寝顔じゃねぇか。お、にらむなって。これでも褒めてるんだぜ」
「にらんでいない。薪をくれ」
 航市が伸ばした腕に薪の山からとった枝を投げ、浩明は自分も小さな枝の切れ端を放り込んだ。愛想のない航市にも臆することがない。浩明の隣で、少年があ、と嬉しそうな声を上げた。
「その魚、焼けてる」
「フミ…何本目だ。食べ過ぎだぞ」
「そ?美味しいよね、やっぱり水がよいのかな」
 浩明の前に差し立ててあった姿焼きをまんまと奪い取り、史行(ふみゆき)は向けられた非難の視線をさらりとかわす。旨そうにかぶつりつく相手に浩明は肩を竦めた。
 彼らは航市の友人である。もともとの知り合いは浩明だけだが、もうひとり、史行は浩明と共に行動することが多いので、自然と付き合うようになった。
 彼らは家が近所で親が友人同士という、赤ん坊の頃からの顔なじみなので、息の合いようは筋金入りだ。ぶつぶつ文句を言いつつ、浩明は史行の食欲に合わせて次が焼けるよう、火の当たり具合を調節しているし、これあれの指示語だけでも彼らの会話は成り立つ。
 一見細身でありながら鍛え抜かれた体の持ち主である浩明は、山風の冷たさなど全くどうということもないというように、袖をまくり上げ、筋肉の覆われた二の腕をさらしていた。力仕事でも平気でこなすタフさは見たままである。
 一方で傍らの史行は品の良い面差しに弾けるような笑みがうかび、いるだけで場を明るくする。おおらかで包容力のある浩明と、細かなことにもよく気付き心向きに芯がある史行は、互いに互いをうまく補い合っているようだった。
 川魚の姿焼きをたらふく頬張った史行はふんわり頬を綻ばせると、炎越しに眠りの淵にある少年を見つめ、小さくため息をこぼした。
「浩明の台詞じゃないけど、こんな河原であっさり眠れるのってすごいよね。彼が通っている高校って、送迎付きは当たり前、セキュリティが厳しくて身内でもなかなか中に通して貰えない超お坊ちゃま校でしょう?超高級ベッドじゃなきゃ眠れないとか言われそうなのに」
「史行…いったいどうやってベッドを運ぶと?ひとりで持ち運べるベッドがあるのか?」
 冷静かつ的を外れた航市の返答に浩明は苦笑をうかばせ、史行はあるかもね?といい加減な返事を返した。
「それだけ疲れているってことでもあるのかもしれないけど。体調を崩しているって噂は本当みたいだね」
 昨年度の優勝者、といえば、誰彼もその動向が気になる相手だ。それも本家の人間ともなれば注目度はかなり高い。
 彼の不調は随分前から囁かれていて、棄権するのではないかとも言われていた。
「航市、彼はもともと体が弱いの?」
「いや…。そういうわけではない。尚人は…無理を重ねすぎるんだ」
 ため息と共に吐き出された航市の言葉は苛立ちの中にもどかしさがにじむ。
 継役たちの悪意、誤解に基づいた嫌悪、尚人を精神的に打ちのめすには充分なものばかりが今の本家には揃っている。ひと目のある場所でわざと尚人を貶めようとする継役たちの振る舞いは、事情をよく知らない浩明たちにとっても思わず眉をひそめたくなるもので、本家内での居心地の悪さや不利な状況は簡単に想像が付く。先々代宗主の寵愛が深い尚人を今の継役が敵視しているという話はかなり有名だった。
 すぐ近くでされる会話にも起こされる様子なく、深い眠りに落ちた尚人は穏やかな寝息をたてて、小石の上に敷いた布の上で寝返りをうった。絹糸のようになめらかで柔らかい黒髪が夜の色にまざりとけ込んでいる。
 彼らがいるのは、川辺につくられた休憩地である。山の中には負を祓う結界がはられた場所が幾つかあり、訪れた参加者たちが休めるようになっている。尚人たちにまとわりついていた負もこの中には入ってこられなかった。
 こういったつくられた場所は便利だが、より早く進みたい者にとっては遠回りになるし、尚人のような「有名人」ではひと目を集めて煩わしい。実際今もちらちらと向けられる興味本位の視線はうっとうしかったが、これから先何があるか分からないときに、少しでも体力を温存できる場所があるのはありがたいことだった。
「浩明、史行…急に呼びつけて済まなかったな」
「連絡受けたときには驚いたぜ。そのぼうずがいるときに同行を頼まれるなんて思ってもみなかったからさ」
「…ぼうずはどうかと思うが」
「かたいこというなって。若さまでもいいぜ。でもまあ、嬉しかったぜ。おまえはさあ、こう、突っ走るやつかなと思ってたんだけど、大切なやつのためなら幾らだって慎重さを選べるんだなあと感動した」
「……もう少し婉曲に言おうよ。浩明は直球すぎ」
「だってそうだろ。フミも思ったよな。こいつ絶対、冷静な顔して後先考えないまま火の中に飛び込むタイプだって」
「どうかな。良く分からない。それより僕たちがまざることで、いやがらせが止むといいよね」
 向けられた矛先をかわして、史行はちらりと周囲に目をやる。幾人かが気まずげに視線をそらしたが、すぐにそわそわとしだしてこちらを気にする。滅多なことでは会うこともない本家の人間が近くにいるので、完全に浮き足立っているが、近寄っていくだけの図々しさはもてない。そんな気持ちが透けて見えるが、悪意とまではいかなかった。
 航市はこの休憩地に入る前に、助っ人を呼ぶと決めた。それが目の前にいる2人、浩明と史行である。彼らは航市の友人であり頼れる相手であったが、それだけではない利点が彼らにはあった。
 各地区ごとに決められている代表者の中のひと組で、もしどうしても困ったことがあったら、彼らに話を通せば多少の便宜を図って貰えるようになっている。成績の上位入りよりも、地区内の脱落者を減らすことが目的で山の中にいる、ある意味特別な参加者なのだった。
 尚人は本家の仕事を手伝っていた関係上、彼らの名や顔は知っていたが、航市と個人的な付き合いがあったことは知らなかった。だからはじめは助っ人とすることにためらいを見せたものの、最後には頷いた。それは航市と彼らの間にある友情を信頼して、というよりは、彼らの持つ公的な顔の有用性と、多少巻き込んでも切り抜けられる能力があると見込んでのことである。
 彼らとはじめて顔を合わせることになった尚人は、気配りの上手い浩明と、やわらかな物腰で接することに慣れた史行に、安心感を抱いた。愛想は良くても人見知りの気がある尚人の反応だけが気がかりだったので、一応でも彼らの存在を受け入れてくれることに、航市はほっと胸を撫で下ろしていた。
「狙われる理由なんて…まあごまんとあるかもしれないけど目星は?」
「ない。今のところ見つけるつもりは俺にも、尚人にもない」
「大本叩かなけりゃ悪化する可能性もある。むしろその方が高いだろ」
 まさしくその通りだったが、航市は小さな苦笑いをうかべて焚き火の中に枝を放り込んだ。
 下手にいきり立って余計な危険を背負い込むことになっては困る。ここで何らかの怪我を負えば、尚人はこの先の自由な外出さえ失いかねない。
「犯人捜しより、より長く安全に山にいられることの方が大事だからな」
「この山に長く…ね。殆どがさっさと終えて出て行きたいと思っているだろうに」
「さすが本家さまは違うってことか」
 すかさず浩明が茶化したが、良くも悪くも他とは違うことは明らかだったので、反論はしなかった。こんな負だらけの山の中でしか安息を得られないのは、馬鹿馬鹿しくも呪わしい事実だった。
「反論もなしかよ…」
「いいじゃない、別に。事情はどうあれ、僕たちはたまたま成績に振り回されずに済む立場だし、むさ苦しいのと一緒よりは尚人くんといる方がずーっと楽しそうだし」
「そうそう。にっこり笑って嫌味をいうようなのと一緒よりは、この若さまと一緒の方が潤いがあっていい。って、おいフミ、てめえまだ根に持ってるのかよ」
「僕、楽しみにしてたのになー。荷物から減らすにしてもひと言あって良くない?」
「だから、言ったろうが。あれ抜いたぞって」
「あれで通じるとでも」
 言い合うごとに話がずれて、にらみ合う。お互いに1歩も引きたくない様子だ。
 できれば勝手にどうぞと放っておきたかったものの、これ以上声高に言い争われると尚人を起こしてしまう。航市は仕方なく間に入った。
「ふたりとも、この山の中で陰の感情を散らすのは御法度だ」
「そんなヘマはしないから大丈夫」
「史行はともかく、浩明にそんな芸当ができるか」
「おい航市、今聞き捨てならないことを言ったな?」
「言ってない。原因は何なんだ」
 浩明の追求には素知らぬふりで、史行に尋ねる。真正面から向けられた眼差しに史行は気まずそうに押し黙った。答えられない相手に代わって、浩明がうーんと唸り、やや困ったように顎をかいた。
「まあその…なんだ、あれだよあれ」
「あれでは分からない」
「…甘味。有り体に言えばお菓子。フミの甘いもの好きは知っているだろ」
「ああ」
「例によってごっそり持ち込もうとしたのを俺が抜いたわけ。蟻でも後ろにつけて歩くのかって量だったんだぜ」
「ひとつぐらい残してくれても良いのに全部だよ、全部」
 しっかりと根に持った様子で答える史行は、この山で食べるおやつをよっぽど楽しみにしていたことが伺える。荷物を減らすことに四苦八苦している参加者たちが聞けば、10人中10人が浩明の正当性を認めた上に、この過酷な山でおやつに気が回る史行を地球外生命体か何かと思って見たに違いない。
 航市は呆れ半分、あまりのらしさに苦笑ってから、手もとの荷物から取り出した小さな包みを史行に放った。
「やるよ」
「えっ…、これ、え?」
「それは俺が念のために持ってきた分。尚人は尚人で持っている」
「まさかと思うが…こいつも宇宙級の甘党なのか?」
 飴の入った包みと尚人の顔を見比べる浩明は、度を超えた甘いもの好きを良く知っているだけにその恐ろしさが身に染みている。
 甘いもの好きは確かだったが、平均よりやや上といった程度で宇宙を引き合いに出されるのは可哀想だろう。航市は首を振って否定した。
「栄養剤みたいなもので、味はふつうの飴と変わらない。親の会社の研究部が半ばお遊びでつくったものだから、安全性に不安があるなら……」
「うわぁ美味しいよ、これ。嬉しいなあ。航市愛してる」
 問題はまったくないらしい。心配するのもばかばかしいほどあっさり飴を口に入れた史行はうっとり目を細めて、1日ぶりのおやつを堪能している。少し前の不機嫌さなど欠片もない。そんな幼馴染みの様子に浩明が大きく肩を落として安堵の表情をうかべるのが、航市には切なかった。お疲れさまといいたい。
「航市、助かったぜ。恩に着る」
「……いやいい、着るな。そんなもので釣ったとしれたら、地区の代表者を選んだ選考委員は全員寝込みそうだ」
「ああ、そんなこと。大丈夫だろ。選考委員も山ほど甘味を用意していたから」
「…………」
「………ま、その、なんだ。フミはお菓子をくれたやつには尽くしてくれるぜ。良かったじゃないか」
 尚人がいたから持ち込んできた飴玉だから、史行はものをくれた航市よりも尚人に好意を覚えるというわけだ。
 浩明の慰めに、どういった理由にせよ、尚人の安全が保証されるのはよいことだと航市は前向きに建設的に、思うことにした。



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