川面を覆っていたもやが晴れるのと共に白い光が傍らに広がっていくのを、尚人はぼんやり眺めていた。薄青の空に朝陽が差し、山吹色の雲が群れる。折り重なるようにして薄く広がった雲は徐々に色を変え、薄紫から朱色、薄い水色にまで複雑に混ざり合いながら夜明けの空を彩っていた。 修業日、最初の夜。誰彼も体は疲れているのに、気が高ぶって遅くまで眠れなかっただろう。辺りはまだしんとして、眠る少年たちの姿が広がっていた。もしかしたら早々に眠りに就いたのは、尚人ぐらいのものだったのかもしれない。 尚人は傍らに横たわった航市を見下ろしてから、起こさないよう、そっと立ち上がった。水気の多い川風が頬を過ぎる。埃の少ない空気はひんやりと清んで、心地良い。尚人は竹で作った水筒と昨日洗って干しておいた布を手に、結界の外へとたったひとりで抜け出した。 身の安全がどうとか、また負に追いかけ回されるのではとか、そういう考えはまったく持ってない。ただ欲しいものをすぐそこまで取りに行くだけで、そういったことをいちいち考えるのは少し面倒と、尚人は思う。 尚人は道を物や形でなく気配で辿る。目指している場所は特に際立った気配を持っていたため、足取りに迷いはなかった。負の満ちた中にある清浄な気配は、明確な標となって導いてくれる。 目指すのは水場。川よりもずっと澄んだ水が湧き出すごく小さな泉だった。前もって目星を付けていたので、あっさり辿り着く。 泉の傍に屈み、顔を洗って眠気を飛ばした。少し心地よい気分になり、小さな笑みをうかべながら栓を開けた水筒を泉の中に沈める。一瞬、指先がじんと痺れる。夜が明けたばかりで、水は冷たかった。 水はゆっくりと、竹筒の中に吸い込まれていく。竹筒から吐き出された小さな気泡が水面で起こす微かな波紋を、尚人はぼうと見つめた。 美しい泉だった。 底に積もった白い砂がわき出る清水に揺らされて、小さく盛り上がっては沈む。 水草も生えず、生き物の姿も見えない。ただ水だけがこんこんと湧き出している。 透明な水をたたえた泉を覆うように、柔らかそうな細い草が縁に生えているのが目に鮮やかで、わずかに眩しい。山の深い緑とは違う若い草葉は明るく、ぽっかりと空いた木々の間から降り注いだ光が、水面を照らしていた。 この山の負は強い。どこもかしこも、負の気配に満ちている。 それは物質的な汚れや濁りとは全く別に、大なり小なり、山のものを穢していた。ただし、この泉は違う。有り得ないほど清浄で、特別な祭祀に使う禊ぎ用の泉を思い出させた。 水面に映る顔に、懐かしい顔が並ぶ。 清浄な気配に触れていると、思い出す人がいる。その人はとても清んだ空気を持っていて、傍にいるととても心地よくて、大好きだった。 優しくて凛々しい、優しい微笑みをうかべる祖母。彼女の傍には蕩けるような甘い笑みをうかべた夫の姿が常にあった。 『尚人、おいで、じいさまのところにおいで』 厳めしい顔をこの上なく蕩けさせて、小さな尚人をこっそり手招くとき、祖父は大抵何かを持っていたり企んでいたりした。 祖母似といわれることの多い尚人は、小さな頃は本当によく似ていた。まとっている雰囲気が似通い、顔立ちも目許や口許の様子などそっくりで、ともすれば母子のように見られることもあった。 『春巳(はるみ)さんには内緒だぞ』 『じじさま…』 すんなり手を伸ばすと思っていた孫がためらうのに、先々代宗主は愛しそうに目を細め、隠していたものを取り出してみせる。遠慮しなくていいんだよ、と付け加えたが、幼い尚人が見ていたのは祖父の後ろでぼうと怒りの炎をあげつつ微笑んでいる人だった。 『…なにが内緒だね、おまえさま』 『は、春巳さん!?い、いつからそこに』 『ついさっきからだが。おやまあ、おまえさまは性懲りもなく。尚人は虫歯があるんだよ。おまえさまがお菓子ばっかりやるから。ほら尚人、ばあさまと約束したろう。じいさまに菓子を渡されたらなんというんだい』 祖父から差し出されたドーナツの包みを見下ろして、尚人は祖母を見上げた。 『……じじさま、はるみさんがね、1週間は口を利きませんよって』 『い、1週間!?すぐに歯磨きさせれば良いだろう、な?』 『な?ではない。この男は可愛い尚人を虫歯にする悪いじいさまだからな、近寄ってはだめだぞ』 言うなり尚人の手を引いて夫に背を向け猛然と去っていく妻を、先々代宗主は慌てて追いかけた。 謝り、拝み倒して、どうにかすぐに口を利いて貰えるようになると大喜びで孫のもとへ報告に来た。今まで通り孫と遊ぶことを許して貰えて安堵する男に宗主としての威厳など欠片もない。祖父のことを思い出すと、いつもまっさきに、祖母の前でふにゃふにゃとろけた様子が目に浮かぶ。 愛おしい、大切な時間、優しい空気。 それこそが尚人だけに与えられてきた不条理で、憎むべき光景だと、非難する人もいる。 大好きな祖父と祖母に可愛がられていたことをなかったことにはしたくないし、そんなことはできない。 『尚人、こんなばあさまでごめんよ。おまえがかわいい、…けれどいつかきっと…おまえはわたしが嫌いになるだろうね』 祖母の体から木の香りのようなほの甘い匂いがして、抱きしめられるつよい腕の感触が苦しくて、暖かくて、けれど囁かれた言葉は尚人の中に深く鋭い疵をつけた。 そんなことにはならないと答えたはした。そうだねと頷きを返した祖母が、自分の行った言葉を取り消すつもりがないことだけは分かった。 あの時の尚人は真意を掴み取ることが出来ず、今でも分からない。 考え出すと、不思議なことはたくさんある。 祖父の偏った愛情を一身に受けることをどう思っていたのか、取りなしたり、橋渡しを担うことはなかったのか。 祖母の後を追うように先々代宗主は逝き、尚人がなぜと、訊ねることは叶わなかったけれど、あれはなんだったのだろうと、思うこともある。 年齢差を思えば後に残されるのは尚人と決まっていて、祖父母は自分たちがいなくなった後のことを考えただろうとも、考えたことがある。しかし、想像以上にそれが早く来たのだとしても、また立て続けに両親を失うという凶事が重なろうとは思いもしなかったとしても、彼らなら何らかの手を打てただろう。 そうしなかったのは、自分たちに不満を抱いた人々がいることを全く気付かなかったと…そういういう可能性もないわけではないが、それではいったい何に対して祖母が自分を嫌うだろうと言ったのかが分からなくなってしまう。 彼女には血縁がなく、人柄を知ろうにも親類から話を聞くということはできないし、娘である尚人の母親はすでに亡く、息子である圭也は宗主である父親から母に近付くのをいやがられて、実母とあまり接点がない。頼れるのは幼い日に一緒に過ごした自分の記憶だけになってしまって、謎は解けそうになかった。 肉親を失い、ひとりになった尚人は、多くから憎まれ、疎まれ、裏切られた。いまだに終わりは見えない苦しみの一端に祖母にあるのだとしても、このままでは自分たちを恨む人々の怒りを孫が受けると予想していながら何もしなかったのだとしても、嫌いにはなれそうもない。 祖母が病を得てからは、尚人は遠ざけられ、あまり話すことも出来なかった。病み衰えた姿を見せたくないという、彼女自身の希望だった。 亡くなる数日前に許されて会いに行くと、腕や首筋は信じられないほど細く、やつれて、誰の目にも先は長くないとそう見えたが、何かをあきらめ、受け入れた祖母の表情はむしろ力強くさえあったと思う。 『ばあさまはおまえのもとを離れるが、いついつまでも幸せを願ってるからな』 「………僕は大丈夫です。嫌いになることもありません……」 応える者などありはしない。 水面に落ちた1枚の木の葉に波紋が重なり広がっていく。その震えに尚人は顔を上げた。祖母の残した最期の言葉に息が詰まりそうなほどの苦しさを覚え、深く息を吸う。 あんなに大切にされてきたのに、一緒に過ごしてきたのに、何も分からないまま、知らないままで。 祖母の亡い今となっては後悔ばかりがくる。とはいえまだ小学生だったのだ。できることとできないことがある。尚人はそう自分を慰めるしかない。 手にした水筒の栓を閉め、立ち上がった尚人はその瞬間、はっと森を振り返った。 「……何か」 来る、と呟くのを待たず、凄まじい音をたて、傍らの木が弾け壊れた。 |