「青く沈む」



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 負は本来、肉眼で見ることが出来ない。負を祓う能力などを持った者などは、その気配を感じたり、視ることが出来るものの、基本的にそれはただ分かる、というだけで、負そのものに決まった形や実体があるわけではなかった。
 負は在るだけでは、空気以前のものでしかない。ただ溜まったり、集まったりなどして、ある程度の濃さになった負は、誰の目にも捉えられるようになった。実体を持った負は物質的な破壊力をも持ち、辺りに被害をもたらした。それが、今の状態だった。
 目の前をごうと音をたてて過ぎた負の風を避け、史行はすぐそばに立つ友人を振り返った。
「ねえ航市、尚人くん、大丈夫かなあ。どこに行っちゃったんだろうね」
「…………」
「というか、…気付けよ。隣で眠る意味ないってお前」
「…………」
「うーんでも、気配消すの相当上手いと見た。それこそ繋いじゃうとか、せめて首に鈴でもつけないとだめなんじゃない?」
「確かに。…って、おーい聞いてるかー」
 動かない上に目を瞑ったまま突っ立つ航市を浩明はにらむ。わざと派手な音を立てて近くの負を祓ったが、閉じられた瞼はぴくりともせず、応えは返らない。この緊急事態に、航市はさっきからずっと置物のように突っ立っていた。
 休憩地の中は小さな黒い風が吹き荒れていた。
 本家御曹司の不在に気付いて、他より早く起き出した彼らは周囲を囲む結界が壊れた瞬間を感じ取ったが、別にそれで何か得したことはない。そのすぐ後には実体をもった負がなだれこんできたので、その場に居合わせてしまった参加者たちと同じく目先の対策に追われることになった。自主的に戦力外になった航市を挟んで守りながらだから、むしろ負担は増しているといっていい。
 負の風は幾つかに分散し、規則性のない飛び方をするため、祓うには慣れがいる。その風の色からそれほど濃い負の集まりでなく、触れたり、ぶつかれたりなどしても、軽い毒気にやられて気分を悪くするか、浅い擦過傷を負うだけだろうことは分かるものの、動きが早いため油断は出来なかった。
「────捉えた」
「はいー?」
 浩明は大きく首を傾げて見せた。
 ようやく目を開けたのは良いが、術のための言葉や風の音がうるさくて何を言っているか聞き取れない。
「なんだって?」
「尚人を見つけた。こちらへ向かっている」
「見つけたって…」
「こんな負の山で?」
 信じられないというように首を捻り合い、試しに自分たちも真似てみてすぐに諦める。何かつよい術でも放ってくれれば別だが、暗やみの中で手を振り回すような不確かな感覚ばかりが返って全く分からない。
「俺にはさっぱりだ。というかこの状況で気配を探ってたのかよ」
「まあまあ見つかって良かったじゃない。そんなに遠くなさそう?」
 身の回りを負嵐にぐるぐる取り囲まれている状況で尚人を探すことだけに集中していたのかと、感心半分呆れ半分のふたりである。
 自分たちを信頼して身の安全を任せてくれたと思えば嬉しくもあるが、そんな言葉では語り尽くせない無茶ぶりだ。
 負の山で、かつ負嵐に見舞われながらでは目に見えるところにいる相手感じ取れる限界だというのに、これでもし失敗していたら、もしくは彼らがうっかり守り損ねたらどうするつもりだったんだというところである。
 ため息を吐きながらもほっとした様子になったふたりは、目の前に飛び込んできた負の塊を無造作に祓い消し、最初よりはずいぶんと数の減った負の風を見渡した。
「水筒もないし、水でも汲みに行ったのかな」
「ああ…まったく、あれだけ単独行動はするなと言ったのに、…」
 まとわりつく羽虫でも払うように、片手であっさり負を祓った航市は、眉間にしわを寄せながら真後ろの森を気にする。尚人の気配は近付いているが、姿を見るまで安心しきれないと言わんばかりの顔つきである。
「で、これは嫌がらせの続きか?」
 負が荒れ狂う周囲を示した浩明に航市はそうだとも違うとも言わない。決めつけてしまうのは時期尚早だと言えるし、先走って答えを求めても良いことはない。せいぜい視野を狭めるぐらいだ。
 結界が失われたため、澱んだ空気の中にいきなり清浄な一帯が現れ、上から下へ冷気が落ちるように負が流れ込んできたというのが妥当なところだ。休憩地を護る結界が壊れる話は滅多に聞かないものの、決してないわけではなかった。
「これが人為的なものだったら、派手だよねえ。巻き込む人間が多いほど目撃者が増えるし、有名人相手なんだから、もっとこそこそ陰湿に、それこそさりげなくうっかり針を仕込むぐらいにしておけばいいのに」
 史行は単なる事故や自然現象とは端から思っていない様子で、通り過ぎようとした負を丁寧に負を祓う。優しそうな顔で過激なことをいう彼の格言は、攻撃は最大の防御に先手必勝、疑わしきは徹底的に疑う。
「うっかり針を仕込むって…そりゃどういう状況だよ」
「毒針とか。手紙にカミソリと同じ。古典的だけど犯人を見つけにくいし、ささやかな悪意を満たすには充分だし」
「………頼むから、フミはやってくれるなよ」
「もちろん。僕はね、やるときは徹底的にが信条だよ」
「あ、それ。僕もです。やっぱりちまちま仕返しなんて面倒ですし、やるならこうぱあっとが良いですよね」
「…………」
「…………」
「怪我はないか?」
「うん」
「この傷はどうした?」
 目敏く腕に走った細くごく浅い切り傷を見つけた航市は、他にもないかと丹念に調べる。無言で顔を見合わせた2人をよそに、再会したての従兄弟たちは普段通りだった。
「ちょっとね、負の塊で木がね。ぜんぶ祓ったけど、とっさに破片を避けきれなかった。でも、これだけだよ」
「消毒しよう」
「うん、でも航市、後でいいんじゃないかな」
「手当はすぐした方がいい。ばい菌がつく」
「ん?あそこまずいね」
 川縁の隅の離れたところで、小柄な少年たちが、頭を抱えるようにしてうずくまり、互いに寄り添って怯えていた。彼らの上には負の風が勢い良く渦を巻いている。孤立したところにいるせいで、攻撃が集中してしまっているのだ。今のところ何とか防御の術を張って避けてはいるものの、徐々に負との間隔が狭まっている。負に覆われてしまうと、取り憑かれてしまう可能性が高い。
「1つ1つは大したことがないけど、量が多いから…」
 尚人は従兄に腕をつかまれ、消毒を受けながら思案するように首を捻る。
 個別に対処しているうちに、体力を損なってしまう。負祓いに慣れていない初参加者たちでは、いつ誰が負に取り憑かれてもおかしくなかった。
「協力してもらうのは?アレとか」
 森の中から姿を現すなり口を挟む隙さえなく、おかえりのひとことも言いそびれていた浩明がようやく口を挟んだ。尚人はただいまと笑顔を向けると、示された方に視線を向けた。
 数人がひとかたまりになり、鮮やかな動きで負を祓っている。初心者が集まりがちな休憩地では異彩を放つほどの巧みさは、なるほど目を引く。彼らの背の向こうにいる人影に気付いて、頷いた。
「戦力にはなると思うけど、…協力はしてくれないと思う」
「知り合いか?」
「うん、本人には否定されると思うけど幼友達。でもどうしてまだこんな所に…」
 微かに首を傾げながら飛んできた負に軽く手を触れ、霧散させる。視線はよそに向けられたまま無意識のように負祓いをこなす慣れた仕草に感心した2人は、薬入れから消毒薬を取り出し、他人の切り傷に薬を塗りつけているもうひとりにもめいっぱい呆れつつ感心した。
 この状況でごくごく小さな擦り傷の手当を優先させる筋金入りぶりもすごいが、それでいて尚人の術を妨げない絶妙な間合いの取り方はさすがである。
「…ねえ尚人くん、航市って、いつもこう?」
「はい?…まあ、ええ」
 そっと小声で話しかけた史行は顔が笑っている。尚人も苦笑いをうかべて、従兄を見上げた。
「航市、僕あそこに行くから、ぐるーっとお願い」
「それだけで良いのか?」
「うん」
「気をつけて」
 言うなり、尚人はうずくまった少年たちのもとに走り出す。会話から外された浩明と史行には状況がつかめない。分かれという方がどうかしている。
 前振りとか、できればちょっとした説明とかしてほしかったが、向かった先ではそうして割く時間さえ惜しい状況になっているのも確かだった。全く逆の方に走り出した航市が負の風を祓わず追い立てるのを見て、彼らは意図を悟る。
 2人が航市の後を追い作業の手伝いをはじめた先で、尚人は少年たちの前へ立った。



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