少年たちのもとに駆け寄った尚人は、まずその頭上で渦を巻いた負を片手で撫でるように祓い、自分を含めた少年たちの周りに護りを張った。 実のところ、尚人はきちんと術を使うのは久しぶりだった。同い年ぐらいの一族の者なら、それほど難しくない小さな依頼を請け負っている頃だが、尚人は遣え人として自由に外に出ることもままならない。術を使う機会など殆どといってなかった。簡単なものでさえその感覚を思い出すのに一瞬の間があくのに、小さく舌を打つ。予想よりは勘が鈍っていないようだったが、何がどう足を引っ張るか分からないので気をつけなければいけない。 込み上げる苛立ちから目を背け、意識を集中させる尚人の後ろで少年たちが動く。両腕に重みが来て、尚人は一瞬、何に飛びかかられたのかと思った。 「な、な、尚人様っ」 「うわっ」 「尚人様、あの、ど、どうしてこんなことに」 詰め寄ってくる少年たちは怯えの余り我を忘れていて、溺れる人のようにしがみついてくる。邪魔だと払いのけるのは簡単だが、その表情があまりに必死で、尚人はとりあえず宥めにかかった。 「落ち着いて、大丈夫だから」 「あのっ、あのっ、おれたちどうすればよいんでしょうか、どうしたら、いいんでしょうか」 「落ち着いて」 縋り付いてくる体をさりげなく離そうとした拍子に護りがぶれて揺らぐ。その隙を付いて烈しい風が護りを破りにかかるのを留めようと虚空にかざした手が、風の音に驚いたのか、後ろから飛びかかった少年に崩され、尚人は焦った。 「わ」 「お、おれたち…た、助けてください…っ」 「…っ」 「おまえら、それでも術者か!?こいつから離れろ、術の邪魔だぞ」 「…!?」 「おまえもおまえだ、このまぬけ。いちいち構おうとするなっ」 唐突に現れ、口答えを許さない口調と雰囲気に気圧された少年たちがようやく掴んでいた手を離す。自由になった手を使って護りを補強しながら、尚人は呆気にとられたのと訳の分からないのとで、飛び込んできた相手にぴたりと視線を合わせ、頭の先から下までをしっかり確認した。 「真知(まち)…?あ、ありがとう…でも…あの、真知だよね?」 どうみても目の錯覚ではないようだが万が一ということもある。 「うるさい。おれがおまえを助けるのがそんなにおかしいか」 「そんなことないけど、…ひとりっ子だったよね。双子の兄弟とかいないよね」 「………言い残したことがあるなら今言え」 「冗談だよ、ごめんなさい」 ほっそりとした手足に、華奢な肩。背格好は尚人とそう変わらないが、まとう雰囲気はずっと雄々しい。瞳が大きく、柔らかそうな髪はゆるく渦を巻いた癖っ毛で、見るからに愛らしいのに、容姿の良さも性格の善し悪しも全てどうでも良くさせてしまうほどふてぶてしいのがご愛敬だ。 尚人からひと2人分ぐらいの間を空けた場所に立った真知は、片手を振って少年たちを追い払った。人の扱いには慣れているせいか愛想がない割りにはそつがなく、落ち着きを取り戻した少年たちが、小さく頭を下げて護りの外へ脱出する。さりげなくそれを助けて術を放つ真知を横目に、尚人は小さな微笑みをうかべて気づかれないようすぐ消した。 浩明が協力者の提案をしたとき、数人の少年たちの向こうに守られるようにしていたのが彼だった。彼の祖父は継役の中で最も力のある人物であり、今の美矢の主でもある。尚人とは1つ違いの幼友達であった。 「それより…具合でも悪いの?」 「なんだと?」 真知の祖父は一族内の競争ごとになると、1番か、もしくは他より上であることを望む。真知は期待に応えて常に優秀な成績を収めていたが、気苦労の絶えない祖父孫関係であった。 良い成果を得られなかったとき、またそうなるだろうと思われるとき、本人よりも、親や師よりも、真知の祖父は落ち込み、怒り狂う。もっとも目をかけている孫である真知のことならなおのこと、すさまじい怒りを見せた。 まず物や人に当たり散らす。家人たちは老主人の傍から壊れやすい陶器や硝子などをすべて隠し、何を言われても口答えはしない。時には杖や拳を振るわれても、ただひたすら嵐が過ぎるのを待つ。 尚人も実際何度か、真知の祖父が激怒する様を目の当たりにしたことがあった。継役である彼は尚人を忌み嫌う、まさにその人でもあって、孫が尚人よりも下の成績をとることを決して許さない。尚人が首位を得た前年度の修行日のあと、尚人に対して継役側近たちからの嫌がらせが増えただけでなく、孫である真知自身からもしばらく生傷が絶えなかった。 「ふん。おまえでもあるまいし、大切なこの日に熱を出すような失態などおかさない」 「…ならどうして、真知ならまだ、今からでも上位入賞をねらえるだろうけど……でも」 「うるさいっ、おまえごときに気遣われなければならないおれではない…ッ」 ぞっとするほど暗く、貶め、蔑む視線を向けられて、さすがの尚人も口を閉ざすしかなかった。 継役の孫であり、その優秀さから本家の主立った人々からも信頼が篤い彼は、かなり奥まった場所へも入ることが出来る。物陰や暗がりで行われる忌まわしい出来事にたまたま遭遇してしまうことも、ないわけではない。 ひと目もわきまえず、情交に耽る淫売と、あからさまに誹られることもある。やや潔癖の質である真知には到底信じがたい行為であり、軽蔑の対象だ。意に染まない行為だと主張することはあまり効果がなかった。 本家の奥で何が行われているのか、尚人は東伍にも航市にもはっきりと言ったことはない。もちろん圭也にもだ。けれど実際に目撃されている真知にだけは、言い逃れも誤魔化しも何もできない。 それでもそうした感情を突きつけられる度、尚人はどうしたらいいかわからなくなる。これが現実なのだと思い知らされてしまうからだ。 優しくしてくれている人たちが彼のようにあれら忌まわしい出来事を見てしまったら、本家の奥や守護のもとで何が行われているのか予想がついているのだとしても、目の当たりにしてしまったら、些細な労りや同情など吹き飛んでしまうのではないかと怖くなってしまって、身動きが取れない。 嫌がっていられるのなど最初の内だけで、いつのまにか悦び、縋りつく様を見られたら。肉体だけでなく心までも満たす愉悦の海に溺れて我を忘れてしまう、そういったことが度々繰り返されるごとに、尚人は恐ろしくなるのだった。 「…い、おい…っ」 「……っ」 ぴしゃりと頬を打たれた尚人は視界の薄暗さに驚いた。夜のようだ、と思い、真上を見て、我に返った。術の途中に我を忘れるなどとんでもない失態だった。 「ごめん…ぼうっとしてた」 「航市さんがおまえごときに動いてくれているのに、気を緩めるとはなんだ」 「うん…」 航市たちの働きによって徐々に集められた黒い風の群れが、尚人の頭上で雷雲のように重く垂れ込め、低く唸りながら渦を巻いている。半球の形で張られた護りが微かな燐光を放ち、びりびりと震える。尚人が頼んだのは、負の風を1カ所に、敢えて言えば自分の前に集めてもらうことだった。作業は順調に進んでいて、あとは尚人が締めの術を組むだけである。 相変わらずの従兄の優秀さに感心しながら、浩明たちが加わることによって想像以上に楽に事が進むのに、尚人は内心舌を巻く。やはり現場に出て祓いを行っている者は、そうでない者よりずっと巧みに術を使うようである。 「さっさとしろ。もういいだろう」 「うん、だね」 尚人は片手を目の前に出し、軽くこぶしを握った。力の発動を導く詠唱は言葉としては聞こえない。言葉でも旋律でもないその音の流れは、尚人の周りを囲むように広がり、ぴったりくるんでいく。 負を祓う能力者たちは負の気を陽でも負でもない気に中和し浄化する。その能力は生まれつき持った力をもとに、理論を知り、言葉を覚えて訓練を重ね、身に付けた。 集められた負は強い力の渦となって、清い気配を放つモノを押し潰そうとする。それは深海の水が、底に落ちようとする小さな硝子の玉を壊そうとするかのようだ。 大量の負を浴びれば、取り憑かれるどころの話ではなくなる。浴びたその一瞬で、命を失うことさえあった。 護りの壁が軋み、ひどい歪みが広がっていくのが目に見えて分かる。詠唱を終えた尚人はちらと上を見上げてから、護りを解いた。 その瞬間、息をのむ音が大きく響いた。張り直すわけではなかった。壁は小さな揺らぎと共に、完全に消える。 尚人の行動を見守っていた他の参加者たちは、揃って目を疑い、術者の正気を疑った。 遮るものを取り外され、邪魔なものがなくなった負の渦がどうなるかなど考えなくても分かる。重たく澱んだ負によって骨が砕け、肉が裂ける、あるいは取り憑かれ、暴走するのだ。最悪の事態が周囲の人々の中に過ぎり動揺が走る。どぅんと空気が鳴り、悲鳴が上がるが、誰も動けず、また動かない。溜まっていた負が落ちていくのを、何人かが絶望の想いと共に目撃した。 だが最悪の事態にはならない。それはあらかじめ決められていた行為であった。 尚人はゆっくりと、目の前に突き出した片腕を振った。やわらかなその動きは、まるで空中で何かを掴み取るようである。降りてくる負に向かって小さく呟く。 「─────」 力を持った言葉が外に向かって広がり、霧状の負が尚人の手の内の中に吸い込まれていった。 辺りを満たしていた黒い粒子が急激に薄まり、少年たちが自分たちの無事に訝しさを感じたときにはもう、周りはいつもの穏やかさを取り戻していた。 |