「なぜ助けになど行かれたんです?放っておけば失敗したに違いないのに。怖じ気づかれたんですか?」 薄ぼんやりとした光で象られた半円状の力の波が、最後の仕上げとばかりに河原を覆って完全に負を祓う。 登っていた岩場から飛び降り枯葉の積もった地面を踏みしめた真知は、こうるさくまとわりつく声を払うように、小さく手のひらを翻した。 向き不向きなどはあるが、尚人の力を目の当たりにしてしまうとそう思うことさえ憚れる。 尚人が負を祓う術を終える前に河原から抜け出し、適度に離れたところで様子が伺っていた真知は、すべてが無事済んだことにほっとしながらも、スッキリとした気分には到底なれずに唇を噛む。 いったいいつになったら、あの力に届くのか。真知は考えずにはいられない。 「おまえには関係ない」 「へえ、関係ない。良いですけどね、それでも別に」 男は揶揄をたっぷり含んだ眼差しで真知を見下ろし、軽く鼻を鳴らす。 嫌っているのに助けに入ったことが不満らしかったが、あくまで尚人個人とのことで、いちいち口出しされなくてはいけないのかが真知には分からない。 「根津(ねず)。心配しなくてもおれはすべきことをする。おまえはただ待っていればいいんだ。信用しろとはいわないが、邪魔して貰っては困る」 信用していますとも、と男は笑うがとてもそうは見えない。山に入ってすぐに同行を申し出てきた男は、許可したそのすぐに行方をくらまし、たまに戻ってきたかと思えばこうして不満を露わにする。 根津は粘着質なしぐさで相手の姿を上から下まで眺め、ゆったりとした足取りで追い抜いた。 その行動にも意味もなく自分の優位を誇るような、あからさまな感情が見え隠れしていて、真知は内心あきれ返ってしまう。一応協力者という形をとってはいるが、まったく別の目的を持つ真知には男がどう思おうが他人事でしかない。 無関心を示す真知の態度をどう読み取ったのか、根津は笑みで顔を大きく崩した。 「虫の居所が悪いようですねえ、真知様は。子どもの頃にお友だちをさせられていたからって、今も引きずる必要は全くないんですよ。何たって橋沢といえば巫脈の流れも汲む由緒正しい家柄。一方の彼と言えば先々代の血を引くとはいえ、祖母はどこの出ともしれない娘。真知様の方がずっと格上です」 「…………」 慰めるように丸みを帯びた声色を使った男を一瞥し、真知は押し黙った。呆れてものが言えなかった。 「……巫脈の血を引くのが由緒正しいか?」 「またまたご謙遜を。隠さなくてもねえ、いいと思いますよ」 「…隠す?」 「コンプレックスですよ」 「おまえは確かに隠してないが」 真知の返答に、男の顔色が変わる。 「どういうことです?」 「おまえは家柄や血筋にこだわっているのだろう?」 暗い、憎悪の色が男の顔に過ぎる。 それを真知が見咎める前に、男はにやにやと唇の端を歪めた。 「真知様は本当にご機嫌斜めのようだ」 これ以上の会話は堂々巡りをするだけで、付き合っていられない。真知軽く手を振った。それに応えて森の間から数人の男たちが姿を現す。 真知の目配せに現れた男たちが頷き、根津の腕を左右から捉えた。 「お引き取りいただきましょう」 「あなた方も大変ですねえ、わがままなご主人様を持つと胃に穴が開きませんか」 「従っていただけないということでしたら実力行使もやむを得ません」 「…………」 頑なな応答に急につまらなくなったのか唇を曲げ、森の奥を示す目に無言で従う。根津の姿が見えなくなってから、真知は離れていく男たちの1人を呼び止めた。 彼らは継役である祖父が用意した者たちだった。 この山の中で真知を守り、力となることを誓っている。 「いかがなさいましたか」 呼び止めたが何も言わないことに気遣ってか、しかつめらしい顔つきに合わないほど優しい声で訊かれる。真知は首を横に振り、その後でまた否定するように視線を下に落とした。 「…いや、…うん」 無理矢理追いやられる腹いせのつもりで言ったのだろうが、根津の台詞が甦り、言葉に詰まる。拒否も選択も与えられてはいないだろう彼らを、真知は自分のわがままで振り回している。 彼らにしてみれば、真知の祖父に従うことで得られるものがあるのかもしれないが、真知は今になって少し後悔していた。護衛にさせられていることと、真知のわがままに付き合うこととはまったく別のことである。彼らには真知に付き従わなければならない理由などない。 「…根津はやかましいぐらいだが、おまえはひとつとして文句を言わないな。おれでない誰かには言っているか?」 「…………」 「…、あ、いや、おれにおれの文句を言え、と言っているのではないが。そんなことをされても困るし…」 「…………」 押し黙る男へそっと視線を遣り、止まってしまっていた足を緩く斜面に歩み出した。平坦な道を行くような軽い足取りで山を上がる。僅かに沈み込むような柔らかい土が指先に触れた。 頭上を覆う木が作る暗がりは、目にも体にも馴染みが深い。幼い頃によく山遊びをしていたからで、その記憶に並ぶのはいつも決まった顔ぶれだった。 行くのは本家所有の山。本家に近い人々が子ども時代に代々遊び場にしていて、簡単な負祓いなどはそこで身に付ける。 尚人と尚人の子守で美矢と東伍。従兄で幼馴染みの航市と、和真。和真の傍には必ずいた圭也が加わり、真知が入って計7人。唯一血縁者でない真知は、大人たちが次期宗主の友人として手頃だからと引き合わせた幼友達である。 先々代宗主の寵愛を得ていた尚人に、大人たちは気を遣っていた。危険な真似などさせないよう、全員が言い含められていただろう。それをどう受け止めていたのかはともかく、皆、尚人を中心に据えて動いていた。 年の近い真知から見ても、尚人は稚く、賢く、手指を扱うように難しい術をあっさりこなす類い希な子どもだった。幼い頃は今よりずっと愛らしさが際だっていたし、守ってやりたいと思うような可憐さと、目映いぐらいの優秀さで、何度も魅了された。 血筋や先々代宗主に可愛がられているという事実があるからだと根津なら言うだろう。真知は尚人に従ってしまったことのある1人であるからこそ分かっていた。あれは人を惹き付けるという天性の力。真知は持っていないものだった。 「おれは尚人とは違う…」 「…………」 「今回のことでおまえたちにかける迷惑を、いつかきっとつぐなうと、そう誓うことぐらいしかできない…。だからといって許して貰えることでもないが…今はおれの好きにさせてほしい…」 自分勝手な願いだと分かっている。ささやかな願いを叶えるために、どれだけのものを巻き込み犠牲にするつもりだと、自分でも時折恐ろしくなる。けれどもう後には引けない。今進まなければ、2度と機会がないかもしれないのだ。 森の緑の葉の合間を昼の陽射しが突き抜け、真知は顔の前に手をかざした。 薄暗い静かな世界に伸びた光の白い道筋は、所々途切れながらも森中に行き渡って、そこだけが明るい。光は真知にとって遠く、手を伸ばしても届かない光の道。 「わたくしどもは真知様に従います。ただそれだけです。お気に病むことは何もありません」 「…ありがとう」 小さく頷き、真知はいちどだけ河原の方を振り返って、梢を見上げた。 尚人にとってこの山が解放の場であるように、真知にとってもここが好きに振る舞える数少ない場所だった。 |