「青く沈む」



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「……、っ…」
 片腕に走った鈍く重い痛みに目を覚ました尚人は、そっと体を起こした。
 辺りはまだ暗く、日が射しそうな気配もない。深夜と言うよりは明け方にさしかかっていたが、暗闇に目が慣れるのを待ってから周囲を見渡すと、すぐ近くに3人の寝顔を見つけられた。
 周りを取り囲むように体を横たえた彼らの眠りは深く、ちょっとやそっとのことでは起きそうにもない。大丈夫だと見て取ってから、手当を受けたのと同じ袖をまくりあげ、焚き火にかざす。
 包帯の巻かれた箇所から広がる墨を散らしたような薄い斑点。目の錯覚でないことを確かめてから無言で袖を直した。
「困ったな…」
 ひとりごちて、ため息を吐いた。予感はあったものの実際目にすると困惑が先立つ。
 川のせせらぎや葉擦れがたえまなく聞こえてはいたが、夜の山は静かで、気をつけていないと息吐くさえ大きく響きそうだ。
 結界が壊れた際には残っていた参加者たちも今はもういない。休憩地で残ったのは尚人たちだけだ。
 丸みを帯びた石で埋め尽くされた河原はがらんとして、月下を浴びて白々としている。なるべく音を立てないように立ち上がり、尚人は川縁に歩いていった。
 ぐっと近付いて水面を覗き込むと、じくじくとした痛みと熱を放つ腕を小さな言葉と共に川の中に潜らせた。
 言葉は力をつくり、浄化の術が淡い光を帯びて円を描く。
 黒い斑点は負の毒。
 これで手に憑いた負が祓えればいいが、自分で自分の体を浄めること術が尚人は苦手だった。せいぜい進行を遅らせるとか、そのぐらいことしかできなかった。
 体力が落ちると体の抵抗力が弱まり風邪をひきやすくなる、そういったことが負の気に対しても起こる。体調が悪ければそれだけ負が入り込んだり、憑きやすくなった。
 痛みの元は、泉の傍で受けた傷である。泉の傍で負の塊が現れたとき、とっさに壁を作って身を守ったので大きな怪我からは逃れられたが、小さな傷から負が入り込んでしまったらしい。
 全身に毒が広がる前に、浄化の力を扱える誰かに診てもらわなければならないが、尚人の気は進まなかった。こんなことで下山したくはないし、不調を気取られるのもいやだ。
 月明かりに照らされた薄闇の中を、夜鳥が低く響く声で啼きながら通り過ぎていく。
 山の葉擦れが風に煽られよりいっそうざわめき、川のせせらぎが静けさを引き立たせる。一瞬、紺青の雲が白く輝く月の光を覆い隠すと、闇が深く立ちこめた。
 水の中から腕を引き上げ袖を元に戻した尚人は、はっと振り返った。
「誰?」
「おまえにそんな誰何を受けるとはな。鈍くなっているのではないか?」
「…真知?どうして……」
 間近に寄るまで気付けなかったことを皮肉られたのを甘んじて受けて、尚人は首を傾げた。
 白い式服に端麗な顔立ち。尚人は幼友達を見上げて途方に暮れたような顔をうかべた。
「どうしたの?忘れもの?」
「とぼけたことを言うな!忘れものかだと?貴様と同じにするな!」
 ひとつ言えば倍以上で返ってくる相変わらずの剣幕に苦笑いをうかべながら、尚人は穏やかな心持ちでそれを聞いた。言葉尻は荒いが、彼の言いようには棘がない。耳に馴染んだ怒鳴り口調は悪い後味を残さず、さっとかき消えて余韻を残さない。
 苛立たしげに怒鳴り返した真知は、隣に屈み込んで尚人の袖をまくり上げた。黒い斑点を月明かりに照らし出す。
「ずいぶん進行してるな」
「…少し疲れているせいかな。もともと僕は穢れにつよいから、放っておいても治ると思うけど」
「過信が過ぎるな。腕が使い物にならなくてもいいのか」
「それは困る。…真知はこういうの得意だよね。負毒祓い。お願いしたらやってくれる?」
「ああ、祓ってやろうか」
 即座に断れるだろうと思って何気なく持ちかけたことをあっさり受けられて、尚人は驚き、無理に動かした衝撃でじくじくと痛みを放つ腕を庇うように、もう片方の腕で支えた。
 巫脈の人間は「気」に聡い。そのせいか普通なら特別に訓練しないと使えない浄化の術も生まれつき扱えることがある。巫脈といっても傍系の真知にはさして関係ない話だが、負毒を祓うための浄化術ぐらいなら彼も難なく扱う。
「…もしかして、気づいていたの?昼間から」
「あんなに傍に寄ればな」
 怯えきった少年たちを追い払い、助けてくれたその時に知って気にかけてくれたのだ、と思うと尚人は少し嬉しかった。
 周りがお膳立てした幼馴染みとはいえ、尚人にとっては唯一の血縁以外の幼友達だし、本家奥での実情を知られたからには、生来の潔癖さを持ち合わせた彼がおぞましく忌まわしく思うのは仕方がないという諦めがある。
 それでも相手をどんなに嫌っていても良心に反するような真似はできない真知は、自分で戦いのひぶたを切って落としながら何のてらいもなく敵に塩を送るタイプだ。だからこうして、来てくれた。
「損な性分だよね、真知」
「知ったふうな口を利くな。黙ってろ」
「…ありがとう、真知」
 微笑みをうかべた尚人に対して真知はしばらく感情を凍らせたように沈黙し、込み上げた何かを振り払うように首を振った。
「だからおれは貴様がきらいだ…」
 それ以上話をしたくないというように口を噤んだ真知が黒い斑点の上に手をかざす。
 片手をかざした真知から、短く、力ある言葉が発せられた。
 自分のものとは違う力が体内にそそがれるのは、あまり心地がよいものとは言えない。だが贅沢を言っている場合でもないので、固く口を閉ざす。入り込んだ負が祓われて、おぞましい斑点が姿を消していくのを尚人は大人しく見守った。
「ありが………っ…、?」
 すっかり祓われたのを感じ取って、真知に向けて微笑みかけた尚人はそのまま口もとを強張らせた。
 胸もとが棘でも打ち込まれたように灼けつき、堪えきれずにふらついた。
 体の中にある臓器をすべて撹拌されたようなひどい感覚が来る。体温が下がり、全身が震えた。
「ま、ち…」
 どうしてという言葉はうまく声になってくれない。体に力が入らない。まるで砂袋を全身にくくりつけられたかのように重く、声を出すことさえもたいへんな労力を費やす。
 立てなくなった尚人をしっかりと抱きかかえ、真知は更に幾つかの言葉を足して術を補完すると、鋭い視線を闇の中に向けた。
「遅かったですね、航市さん」
「尚人に何をした、真知」
 低く唸るような声をもらし、航市は幼友達であったはずの同級生を見る。
 尚人が抜け出したことにすぐに気づいて後を追った航市は、今まで様子を窺っていたのだ。もし真知が尚人の治療を請け負ってくれるなら、それに越したことはない。
 どんなに過激なことを言っても、真知が尚人を害するはずがない。その思い込みが航市にはあった。己を慕ってくれる真知への信頼もあっただろう。だがその気持ちが裏目に出た。
 真っ向から対峙したふたりはお互いをにらみ、一歩も動かずに制止する。
 真知と尚人はもともと喧嘩するほど仲がよいといったふうで、お互いの立場が変わり、仲がこじれたようになっても悪意や憎悪で争い合うことはない、そんな一線が常に保たれていた。
 そのはずだった。
「航市さん。おれは本気です」
「真知」
 近寄ろうとする航市を牽制するように一歩引き、真知は尚人の襟首に腕を入れた。荒い手つきで胸もとをさらけ出す。航市は息をのんだ。
 尚人の胸もとにはうかぶ印。淡い光をはらんだその印に、まるで蛇が絡んだような黒い文様が重なっていた。邪な気配を漂わせるそれが良くない術であることは、それだけで見て取れる。
 航市は信じられない思いで幼馴染みを見た。冗談にしては質が悪すぎ、本気だとしたらとんでもないことだった。
「どういうことだ…」
「どうもこうもないでしょう。おれが尚人の印を封じました」
「ありえない」
 遣え人は印によって制御を受けている。能力に枷を与え、守護や宗主から力を加えられやすくなっているだけでなく、自ら使えないようにされていた。印を支配されれば尚人にはどうすることもできない。肉体の自由だけでなく、命を含めた丸ごと全て相手に握られることになった。
 制御をゆるめられるのが守護と宗主だけなように、印を支配できるのもそのふたりだけ。他はないはずだ。しかしそれは目の前の事実の前に霧散する。
 真知の手が印の上にかざされと、黒い文様がうごめき、尚人は体を引きつらせた。激痛が走り、悲鳴を飲み込んだひゅうという声が喉から洩れた。
「尚人!!」
「大人しくしていただけますか。不用意な真似は人質を苦しめるだけです」
 闇の中から姿を見せた影がナイフをあてる。
 気配などなかった。航市はぎりと唇を噛み、現れた男たちを睨んだ。
 身動きを封じられる形となった浩明と史行も両手を挙げて従う形をとってから、影の正体をちらと見やった。
「金魚のふん」
 史行が言うと、浩明もまた応えておかしげに頬を歪めた。
 彼らは真知の周りを取り巻いていたお目付役たちである。修行日をつづがなく終えさせるため、主人にぴたりとついて回る様はまさに金魚のなんとやらである。史行たちの嫌味にはみじんも反応せず、他の目付役たちも姿を見せ、航市たちを取り囲んだ。
 尚人を人質に取られた上、この包囲網では絶体絶命である。だがそれに動じるような三人でもない。
 史行は喉に刃をあてられたまま、真知に微笑みかけた。
「負をまとわりつかせていたのは君?」
「おれではない」
「だが関係者ってところか」
「…………」
 沈黙が答えを示す。正直、彼は嘘をつくには向いていない。隠し通そうという考えもないのだろう。
「お目付役が、こんな馬鹿げた真似を許すのか」
「わたくしどもは真知様に従うだけです」
 からかうように訊ねた浩明への答えは刃先に力を込めらることで返り、浩明は大仰に肩を竦めた。真知に護衛がついていることは見知っていたものの、積極的に協力者となって動くことは予想外だった。彼らは真知を止めなければいけない役どころのはずだ。
「真知様は先に行って下さい」
「わかった」
 頷いた真知が尚人の肩を抱えあげた。印を外からむりやり封じられた尚人はじっとりと脂汗をうかべ、息ひとつするのも苦労しながらどうにか立ち上がる。
「ま…ち…」
「動くな。落とすぞ」
「こんな…こと…わざわざ…しなくても……」
「うるさい。さっさと歩け」
 いらついた真知の意志に従うように印からぴりりとした痛みが走る。仕方なく足を踏み出しながら、尚人はあきらめ悪く真知の横顔を見つめた。
「真知の…おじいさまなら喜んで…手を貸したはずなのに……」
「黙れっ!少しは静かに出来ないのかきさまはッ」
 苛立たしげに返る返答がなくても、これが真知の独断であることは明らかだった。
 反尚人派の継役たちは弱いものいじめは大好きだが危険な橋は渡らない。少なくとも表だって遣え人の身を害するような真似はしないはずだ。禁じられた術を使ってまでどうこうする気概など彼らにはない。
 これまでの真知は尚人を蔑んでも決して祖父や祖父のまわりにいる反尚人派に手を貸したり、加わったりしなかった。何が行われているか察しながらも黙殺してきたのだから、止める気はなかったのだとしても、おそらく彼らのやり方は真知の主義に合わなかったのだろう。それが分かるだけに、今回のことが尚人には理解できない。
「真知…らしくないよ……」
「きさまに何が分かるッ、大人しくついてくればいいんだ…っ」
 肩を担がれたまま怒鳴られたので、耳の奥がじんとしびれる。眉をひそめた尚人は足を止めた。不意を突かれた真知が前へつんのめる。
「っ尚人…っきさまっ」
 バランスを崩した真知に引きずられる格好で尚人が転び、やや前へ出ていた真知ともども倒れ込む。受け身を取った真知はすぐに起き上がって尚人を振り向いたが、尚人もただ転んだわけではない。
「う、わッ」
 ぱっ、と閃光が走る。
 目を眩ませた真知の腕を振り払い、尚人は急いで立ち上がった。
 修行日用の式服には小道具などが縫い込まれている。尚人は服の中に術を仕込んだ紙切れや玉を仕込んでいた。小道具にはじめから術をかけておくのは宗主好みのこしらえで、ふだんの尚人はあまりそういったことはしないが、今回は宗主の近くで仕込みをしたので、たまたまそういうものを用意していたのだった。
 抵抗できないと思って油断していた真知が思惑通り油断した隙に逃げようとした尚人は、走り出そうとしたところで足下を掬われ派手に転んだ。
「…っ」
「さすが本家の人間が違いますねえ。服にもいろいろ小細工があるようで。だめですよ、真知様。油断しちゃ」
「根津…」
 梢から現れた男は枯葉と泥にまみれた尚人をにやにやと見下ろし、真知を見て大げさに首を振ってみせる。
 男は真知は一瞥し、尚人に近寄った。体を起こすのを手伝い、髪や服についた枯葉を摘んで外しては顔についた土を指先で払う。その指がねっとりと肌をはい回るのを、尚人は眉間にくっきりしわを寄せて不快を示した。
「ねえ真知様、あなたはどうもお優しすぎるようだ。幼友達に遠慮してしまって、こんなふうにつめが甘くなる」
「おれのすることに口を挟むな。貴様の出番はあとに残してある」
「どうもねえ不安なんで、保険をかけたいんですがね」
「…保険?」
 首を傾げた真知に根津の指先が動いた。
 根津の手もとから薄く暗いもやが流れていく。気付いた尚人は総毛だった。
「真知、真知…っ」
「なんだ、うるさいぞ」
「負が、…っこのばか…っ」
 黒いものが足元にまとわりつき、祓おうとしたが力が入らない。印に重ねられた黒い文様がぞわりと蠢いた。真知が放った術によって力を封じられた尚人は負祓いができない。真知自身も印を封じる術で消耗したためだろう。不穏な気配に気づかないようだった。
 薄いもやだったものが、墨を落としたような暗さを帯びて揺らぐ。
 触手が伸びるように這い上がり、止める間もなく真知の中に入り込む。重くねっとりとした闇色が真知の体から溢れるのを目にした尚人はぞっと背筋を凍らせた。何が起きたのか分からず、一瞬身じろいだ真知の目から輝きが失せる。
 それがまっとうな、ただの負なら真知も気付いただろう。だがそれそものは殆ど他の大気と変わらないような薄さで、運が悪いことに根津の手もとを目に出来たのは尚人だった。他の居合わせた人々は死角にいて、気がつくことができない。
「さあ真知様、まず尚人様にかけた術をもっと深く、強く、かけ直してください。今度こそ何も出来ないようにね」
「………っま、ち…」
 暗い瞳が尚人を見下ろし、負を通して操られた真知の手が動く。
 脳髄を揺さぶられたような衝撃に、尚人は悲鳴をあげた。



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