「青く沈む」



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 鉛のように重いからだはなかなか思うように動いてくれない。咳き込んだ息苦しさ目を覚ました尚人は、自分でも呆れるほど時間をかけて周囲を見渡した。
 ちょうど白々と夜が明けるところで余り時間はたってないらしいと見て取る。少し離れたところに両腕を後ろ手に縛られた航市たちを見つけ、そのまた少し距離を置いたところに真知が座り込んでいるのを確認した。
 真知はまるで目を開けたまま意識を失っているような状態だった。黒い瞳は人形にはめ込まれた硝子だまのようで、ごくわずかな感情さえも読み取れない。見るものを全てを丸ごと喰らう闇がそこにあるように、ただ黒く深い淵がある。そこにいるのは真知であって真知ではなかった。込み上げた怒りを飲み込んで、尚人は根津をにらむ。
 男は手もとに黒いもやを集めて丸め、ふわふわ浮かせては握りつぶして散らし、また集めて同じことをしている。手慰みにしてはずいぶんと物騒だが、おそらく男にその意識はないのだろう。
「あたは…、負使いなんですね」
「おやもう起きてしまったんですか。もう少し気絶していらっしゃれば良いものを」
「……あなたがた負使いがその力をふるうことは二度とないと思っていましたが」
「言ってくれますねえ、そうですよ。負使いは力を使えないようにされた。榊家の奴ら、あなたの祖先にだ。負使いの力は罪だという、そんな理由です。下らない。気味が悪い力だと、罪になるんですか?」
「僕が目的なら、僕だけ狙えばいい……」
「お優しいことで。今からでも構わないんですよ。まず、そこで今すぐにでも牙を剥きたがっている従兄殿に指示して、お仲間を行動不能にする。これには骨の2、3本折れば良いでしょうかね。その際にはあなたも手伝って、より重傷を負わせてくれれば考えも改まるというものです」
 根津はからかい口調で応え、口もとに笑みを張り付かせたまま尚人に近付いた。睨みつける尚人の体を起き上がらせ、封じられた印を指先でなぞる。
 吐き気がするほどの不快感が襲う。おぞましさと同時に走るのは目眩がするほどの強烈な愉悦。払いのけようとした腕は動かず、わずかに揺れるだけに留まった上、その些細な衝撃に船酔いをしたように気分が悪くなる。
 堪えきれずに茂みに吐き戻したが、僅かに胃液だけが上がっただけで辛さは治まらない。
 異変に気付いた航市が弾丸のように飛び出して根津を押しのけ、傍らに膝を付いた。後ろ手に縛られているので、水筒ひとつ取り出すのに苦労しながらもどうにか水を含ませる。
 尚人の印は真知に握られ、その真知は根津に握られている。尚人の安全を思えば下手な抵抗はできないのが現状だった。それを根津もよく分かっているので、この航市の振る舞いにはせせら笑いをうかべただけで止めはしない。
 尚人が意識を失っていた短い間に、主人への暴挙に気付いた真知のお目付役たちが根津に掴みかかったが、主人を盾に取られて失敗する、という一コマがあった。不快げに見渡した根津が負をまとわせた片手をあげる、それだけで彼らは何もできなくなってしまうのだから、勝ち目などない。
「根津ッ、真知様を解放しろッ」
 だからといって、彼らは諦めるわけにはいかない。
 慎重に言葉を噤んだ尚人の代わりのように、お目付役のひとりが声を荒げた。
 それをいちべつした根津は、口もとをいやらしげに歪め、ちらと真知に視線をやる。お目付役たちはぎょっと息をのんだ。
 いつのまに手にしたのか、真知が小さな刀を自分の喉に突きつけていた。何の恐れも戸惑いもないぼんやりとした表情で、無造作に刃を立てる。浅く傷つき、血が流れるのを目にした彼らは、きつく唇を噛んでただ男をにらむことしか出来ない。
 根津は負使いと呼ばれる人間だった。負を操り、その負を使って人を操る。
「あなた方のご主人さまは俺の思い通りになるってことをお忘れなく」
 尚人や真知を大切に思う彼らだからこそ、何も出来ないと見抜いている根津は余裕の表情だった。負の多いこの山では負使いである彼が絶対的優位に立っているのは間違いない。
「聞いて良いかな、根津くん」
 水を含んだ尚人が少し落ち着いて瞼を伏せたのを視界に入れながら、史行が根津を見上げた。腕が自由になるなら、片手をあげて指名を待つように大人しく返答を待つ。
 根津はにこやかに頷いた。
「どうぞ」
「さっき尚人くんも少し言っていたけど、負使いは人に対してその力を使えないようにされているんだよね。君は違うの」
「されているさ、下手すりゃ死ぬだろう」
「そうなの?」
「俺は大丈夫だけどな」
「どうして?」
「そこは企業秘密だ。これは呪いさ、ずっと昔の榊家宗主がかけた、一族への呪い。不当だとは思わないか?なぜおれたちばかりがそんな目に遭わなければならない」
「お前たち一族は、罪を犯した。制約がかけられたのはそのせいだ。つまりおまえのような人間が前にもいたというわけだ」
 皮肉たっぷりに口を挟んだ航市を根津が振り返る。口もとが震え、眉間にしわが寄せた根津は大きく腕を振った。その手の先から黒いもやが溢れ出す。
「お前に何が分かる、負使いというだけで疎まれ、格下に見られ、どんな努力も正当に評価などされない」
「それがどうした。そんな話、尚人には関係ない。今の宗主に対して言え」
「お前は犬だ。体よく榊家に使われる犬。俺は違う。呪いの意のままになどならない。自分の力を思うように使うんだ」
 根津の指先の動きに従い、ふらりと真知が立ち上がる。
 暗く輝きのないふたつの瞳に真正面から見据えられることになった航市は、わずかにたじろいだ。幼い頃から良く見知っている相手だけに、生気のない目で見つめられると激しい違和感がある。
「真知…目を覚ませ」
「むださ、お前の声なんて聞こえない」
「そう…かな……聞こえているよ…きっと…」
「尚人、寝ていろ。まだ真っ青だぞ」
 航市の腕にしがみつき、崖でも登るような真剣な眼差しで服を掴んで起き上がった尚人は、少し動いただけで鼓動を早める胸を押さえた。
「そうそうお姫さまは静かに眠っていればいい」
 尚人の無茶をあざけり、どうせ何も出来やしないとみくびった根津の嘲笑には耳を傾けず、ほんの少し動悸が収まったのを見計らって、なかば睨むように、真知を見つめた。
 立ち上がったままじっとこちらを見つめている真知には何の感情の変化も見られない。まるで出来の悪い機械人形だ。
「真知…は…僕が嫌いなんだよ…こう…して…航市の傍にいるのがゆるせないぐらい。いつも…ひとりで立て、って言って…」
 真知は尚人が知る中では誰よりも感情の起伏が烈しく、表情豊かである。
 そういう真知が尚人は好きだった。真知だけが、潔いほどはっきりと好悪を露わにする。裏表がなかった。多少はあっても、バレバレだ。
 だからこそ尚人はゆるせない。
 子ども同士の喧嘩に事情の知らない大人が余計な口を利いてきたような不快感があった。尚人は真知によって印を封じられたが、今の真知にその文句を言っても仕方ない。まっとうな応えは返らないし気持ちも収まらない。真知にとっても不本意だろう。
「真知は体が小さかったから、僕はずっと同い年だと思ってて…」
 脂汗で首筋に髪が張り付く。その不快さに尚人はため息を吐き、印の上に手をあてた。
「真知…僕は…真知が好きだよ。そういわれることさえ…真知は嫌がるだろうけど…」
「……尚人、…休め。後で幾らでも、真知と喧嘩させてやるから…」
 青ざめた尚人の唇は貧血でかさつき、紫を通り越して白い。
 熱が出ているのか涙で潤んだ尚人の傍に膝を付き、抱き上げてやれないのが焦れったいように舌を打った航市に、尚人は小さな笑みを向けた。
「航市……ごめんね…」
「謝る必要なんかあるか。俺は…おまえの無事だけが……」
 言いかけた航市の声が止まる。
 訝しく思い、2人を見た根津も動きを止めた。とっさに真知を見たが、真知の動きも止まっている。
「なぜ…」
 呆然とこぼれた声は誰のものだったのか。
 そろって己の目を疑った彼らの視界に、赤い染みがじわりと広がる。
 航市の腹に突き刺さったナイフから血が滴り落ちていた。



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