「青く沈む」



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 腹部に突き刺さったナイフはそれほど大きいものではなく、手のひらにすっぽり収まった柄の付け根から白く刃がのぞく。
 血に濡れた刃が放つ不気味でおぞましい輝きは、彼らから声と思考を一瞬奪いとり、凍らせた。
 やがて何が起きたのかを理解すると、多くの者から血の気が引いた。それは真知が持っていたナイフと柄の形が似ている。
 誰も真知から取り上げていないし、尚人に渡してもない。そこまで思い至ったのが何人いたか。だが、目に見えるこの状況がありとあらゆる物事を否定し、人々から冷静さを奪う。
 尚人が、航市を刺す。誰も、刺された航市自身さえ信じられないようだった。目を丸くして自分の腹を見下ろした航市の体が傾ぐ。どさりと音を立てて倒れ込んだ姿にその場にいた全員が我に返った。
「おい尚人様…気でも狂ったか」
 根津はこの予想外の事態にまったくついていけないようで、きょどきょどと視線を彷徨わせた。
 思わず声が掠れていたのにも気付かず、そろそろと自分の手もとを見下ろす。負使いとしての力が暴走したのかと思ったが、そんな感覚はない。
「航市ッ」
「このばか、…っ」
 短く罵りの言葉を吐いた史行はすっくと立ち上がると、呆然としていう男たちに背を向けた。驚いたのはお目付役たちである。はじめの衝撃が抜けきらず立ち尽くしたまま彼らに史行は冷ややかな一瞥を向けた。
「解いて」
「…っ」
「解け」
 言い捨てた声はこの上なく冷たく、彼らを正気付かせるには充分なだけの威力があった。
 史行のひと言に気圧され、ひとり、ふたりが慌てて腕の拘束に飛びついた。お互い手足が拘束されたままなのでやや手間取ったものの、やがて外れる。自由になるなり航市の傍に駆けつけ直した史行は、手持ちの袋をひっくり返して薬の山を築いた。
「待て。治療ならひとりでいいはずだ」
 便乗しようとした浩明を根津がにらむ。浩明がちっと舌を打つ。拘束に使っている縄は術者の力をも封じている。驚きから立ち直った根津が苛立たしげに止めに入るのを、浩明はにらみ返した。
「ひとりよりふたりの方が効率がいいだろうが」
「余計なリスクは負わない主義なんでね。バイタルサインが弱まることで、腕輪から自動的に発せられる緊急信号を狙ったんだろうが、自分のためなら従兄を傷つけても平気とはねえ。本家の人間は恐ろしい」
 根津の揶揄は尚人に向けられていたが、応えられる状態ではない。
 わずかに残っていた体力もすべて使い果たして、起き上がることさえ出来なかった。
 刺された方より刺した方が状態が悪いようでは意味がない。だが同時に術のひとつふたつ放てば逃げ出すことはできたかもしれないが、見込みが甘すぎる。思っていたよりも、体力が残っていなかったのがこの無様な結果だと、根津は口もとにうっすらと笑みをうかべた。
 根津にとって航市の存在はうっとうしい目の上のこぶだったが、それを尚人自身が無力化してくれたのだから、こんなおかしくて、ありがたいことはない。
 とはいえ、これでは尚人の腕輪から緊急信号を出されてしまう。それを防ぐため、印の拘束に温情を加えようと根津は真知に顔を向けた。
「真知様、あの可哀想なお方を……」
 ひっ、と息を吸い込む。根津は顔を引きつらせ、悲鳴をのんだ。
 そこには炎があった。
 ごうごうとうねり声をあげながら火の粉を舞い立たせる炎がすぐ近くにある。
 真知の全身が赤いもやに覆われていた。
 感情の波をそのまま現したような烈しい気の流れが、ほっそりとした体のどこからと思うほど大量にあふれ出て、時折ちりちりと白い光りを弾けさせる。これ以上もないほどの怒りが真知を満たしていた。
「なお…と……」
「…………」
 ゆっくりと瞼をあけた尚人はうれしそうだ。恐れも驚きもない。してやったりと言わんばかりの表情である。
「………真知のあほんだらーあんぽんちーん」
「ッ黙れこの外道」
 真知の手もとで白く気の塊がまるまる。
 怒りで我を忘れた真知に加減という言葉はない。
 掲げられていた手が振り下ろされ、白い球体が風を裂く。ほぼ直撃という場面で、不意に現れた一振りの長い剣が飛び込んできた力をまっぷたつにした。
 白い鋼に刃の鈍色が危うい光りを放つ。
 美しい剣だった。佇まいは凜として、しなやかだ。幻のように美しい刃は人をすり抜けたかと思えば、草を薙ぐ。持ち手の意志によって岩を砕くこともできれば髪の毛ひとつ傷つけない特別な剣である。
「真知、落ち着け」
「…こっ、航市さん?やめてください、傷が開きます…っ」
「大丈夫だ」
「血が、ものすごくでて…っ」
「大丈夫だ、よくみてみろ」
 促され、真知ははっとした。
 血がない。ナイフもなかった。
 航市の家系は力を具現化できる特殊な能力を持つ。その血は父親を通じて、尚人にも一応受け継がれている。
 真知は長剣を手にして立つ航市を呆然と見つめた。
「ま、まさか…じゃあ、あの、ナイフは…」
 負使いと同じようにあまり人数のない特異な力で、異端の力である。恐れられるのと同時に忌み嫌われる、そのせいか人前で使用されることは滅多にない。だから真知も忘れていた。
 尚人はその能力をほんの少ししか受け継がなかったので、航市のように大きさのあるものを自在に生み出すことはできないが、簡単な手品程度のことならできる。この能力はただの幻とは違って無から有を生む。実際はないもの、とは違い、たとえ術を使うその時だけと限られても、ちゃんと存在した。
 つまり、尚人はただ航市を刺したわけではない。あらかじめ柄と刃の付け根部分だけを作り、先には幻を繋げた。ナイフで従兄を刺すという異様な事態に周囲が驚いているうちに、航市を拘束していた縄を切り落とし、あふれ出す血を航市が付け足したという、そういうことである。
「正気を取り戻したな」
「お、おれ…そんな…尚人…」
 事態を悟ると、真知はみるみるまに青ざめた。
「し、印をみせろ、…っ」
 尚人に飛びつき、胸もとを掴んで露わにさせる。印の上に重なっていた黒い文様が肌を裂き、薄く血をにじませていた。真知がかけた術によって抑え込んでいた力を無理矢理引き出したせいで、呪いが放たれているのだ。真知は急いで解法を口にした。
「き、消えないぞ、どうして消えない…っ」
「…ま、ち……」
「おれは、か、完璧に…覚えたんだ、一言一句まちがえてなんか」
「ん…、…真知…あれは…違う……間違いなんだ……だから…」
「…ッ」
 真知は呆然となった。解く方法のない不完全な術をかけた。解けないとなればどうなるのか。つぐなうことなど出来ない罪を前に全身が凍り付き、震えが止まらない。このままでは尚人の命が危うかった。
 山ほど薬をつみあげた時点で航市が無傷だと気付き、治療先を尚人に切り替えていた史行だが、実のところ為す術などなく、やれることといったらほんのわずか痛みを和らげてやることだけだった。胸もとにある榊家の紋をもとに何か複雑な術が組まれているのは分かっても、その正体も、仕組みもまったく分からない。
 脈が弱まってきたことに気付き、史行は術のかかった印の上に薬液を滴らせると、素早く幾つかの治癒術をかけた。
「とりあえず体力を戻さないと。そこのお目付たち、気をわけて」
「……っは、はいっ」
「待てよ、ここの主導権は俺が握っているってことを忘れて貰っちゃ困る」
 この忙しいときにまったく状況が分かっていない男である。
 不満そうに鼻を鳴らした根津を、史行は面倒くさそうに一瞥した。
「……浩明」
「はいよ」
 どさくさに紛れてちゃっかり拘束を外していた浩明が屈伸をしながら軽く答えて、弾みを付けて飛び上がる。
 人質もなければ邪魔もない。そうなれば浩明を阻むものなどなかった。とっさに術を組もうとした根津は反応が遅れ、問答無用の蹴りが決まる。ばからしいぐらいあっけなかった。
「おみごと」
「いやいや、これぐらい…………!?」
 自分が縛られていた縄を使って、気絶した男の自由を奪い、近くの木へくくりつけるまでの作業をてきぱきこなしていた浩明は、褒め言葉を向けた相手に照れ笑いを向け、驚きの余り根津の肩に縛り付けるはずのものを首に巻いて締めかけた。
「っと、ととと…」
「危ないね、拘束のはずが絞殺未遂」
「そうなったらなったで不慮の事故なんで。……じゃなくて」
「ん?」
「俺の目がおかしくなっていないのならだが…」
 錯覚なのか、幻なのか、少なくとも本人そのものだとは信じたくなくて目をそらそうとした浩明に誰かの叫びが重なった。
「そ、宗主っ!?」
 可憐といってもまちがいではないぐらいの愛らしい顔立ちに、壊れそうなほど細い手足。幼さが残る立ち姿は気品に充ち、小さな体のどこからと思うほどの気迫に圧倒される。
 いまいち状況が掴めず空回りする思考を持て余した男たちを見渡し、美しい子どもは見た目に似合わない艶やかな笑みをうかべた。
「こんにちはみなさん。なんだかいろいろ忙しいみたいだけど、手伝う?」
 この場の空気と合わない朗らかな笑みうかべた榊家宗主に、その場にいた(意識のある)全員がそろって絶句した。



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