「青く沈む」



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 手伝うかと訊ねてはいるが彼らはそのままハイと答えられる立場ではないので、口を噤むしかない。宗主にしてみても答えを待っているわけではなく、辺りに漂う緊張感と動揺などどうでもよい様子で、人々の間を悠然と横切った。
「尚人」
 なんとか治療を試みようとしてる史也をやんわりと退け、航市に抱えられた尚人の頬を軽く叩く。血の気が失せた顔は紙のように白く、息も弱い。
「ひどいな。解いている暇はないね」
 その言葉に色を失った航市を見おろし、宗主は苦笑いをうかべた。
「辛いのは尚人だろう。君ではない」
「術を引き抜くつもりですか」
「そのつもりだよ」
「…なら、痛みを俺に移してください」
「だめだ。余分な術は使わない。抜きはけっこう難しいし、尚人の身に危険が増してもいいの?」
 美しい顔をやわらかに笑ませた宗主はぞっとするほど冷たい声音で囁く。その声に現状をわきまえない相手への苛立ちと皮肉が込められているのを悟り、航市は頬を強張らせ、ゆるく首を振った。ここで尚人を救えるのは宗主だけで、宗主の決定に口を挟むことが許されるものは、おそらく、施術を受ける本人だけだ。
「…差し出がましいことを申しました。どうかお願いします」
「うん」
 言い争いをしている場合でもなければ、それが分からない2人でもない。気持ちを切り替えるように尚人の体をしっかり抱えた航市に、宗主は細かく指示を与えて尚人の姿勢を直させた。
「航市。数を数えるから、1、2、3で、気を流し込むこと。少しでいいから、より早く奥へ行き渡るようにね」
 胸もとの結び目を解いて尚人の上半身をはだけさせた宗主は、露わになった印の上に手のひらをかぶせる。長たらしい術言は使わない。体内で気を練り、力を編んでよりつよく流し込む。かけ声をかけるのと同時に宗主の手もとから閃光が迸った。
「!っ…あ、ああ……ッッ…っ」
 ぱっと見開かれた瞳が苦痛に潤み、全身が跳ね上がる。
 胸に押し当てられた手を引きはがすように藻掻くが、か細いはずの腕はびくともしない。
 誤って舌を噛まないよう、後ろから二の腕を口にはめ込んだ航市が更に気を流し込み、宗主が幾つかの言葉を紡ぐと、薄青の光に黒いもやが絡む。それを指でつかみとり、手のひらに巻き付けるようにして引いた。
「っ、ん、んーっっ…ッ」
 大粒の涙をこぼし、尚人が暴れる。その体を押さえ付け、抜き出されていく術が戻らないよう丁寧に力をかぶせた宗主は、荒っぽい施術とはかけ離れた複雑で繊細な処理をひとつずつ確実にこなす。
 ひとしきり暴れた体が力を失ってぐったりする頃には、あふれだしていた光も止み、胸もとには何の痕もなく印も、それを覆う黒い文様もきれいに消え去っていた。



「無理しないと言ったのはどのお口?これかなーそれともこう?」
 そばにあるむにむにと白くてふっくらした頬をこねくりまわり、口の形を変えながら宗主はにこにこしている。
 笑っているのに小さな体は冷ややかな空気を放ち、同時にひどく楽しそうだった。怒っているのかそうではないかはっきりせず、とても怖いが、怖すぎて誰もが目を離せない。にも関わらず、その当人たちはこの上なく和やかな会話を続けていた。
「ひたいれす…そーす…」
「そーすってなに。まさかわたしのこと?」
「ひたた…」
 ひと抓りして離れた指を尚人はじっと目で追う。少しでも攻撃の気配を感じたら、両手で頬を死守する心づもりであるが、あまりに隙だらけである。きらりと輝いた宗主の双眸が獲物を捉えた。
「尚人は耳も良く伸びそうだね」
 あわてて肩を竦めて頬から耳にかけてを隠すが、間に合わない。罠とも言えないほど他愛ないひっかけに見事にはまった従弟に宗主はにんまり目を細めた。
「甘い」
 無防備な額を指で弾くと思いの外切れの良い音が響いて、涙ぐんだ尚人が両手で額を押さえる。ふふんと機嫌良く唇の端をつり上げた宗主は、ようやく冷え冷えとした空気を引っ込め、穏やかな表情をうかべた。
 尚人の治療を最優先で済ませてから、気絶中の根津を極めて適当な指示で森の中に転がし、宗主はただちに移動を開始した。向かった先は宿営地に戻る方向とは逆、山を浄化する仕掛けがある方向からも微妙にずれた場所である。
 いったいどこへと誰もが思ったが誰も聞けずに押し付け合うことで、彼らの間には沈黙が保たれたまま、移動が優先された。
 意識のない尚人を背負って歩く航市は、重苦しい沈黙などまったく気にならないようで黙々と進む。
 そもそも航市は尚人のことが絡まなければ宗主と口を利く必要性を感じていなかったし、地区の代表者とはいえ宗主と個人的に話が出来るような立場ではない航市の友人ふたりは、友人が宗主の後を付いていくのでそれにならっている。
 残る真知と真知のお目付役たちは、見られてはならない現場を見られたわけであり、自分たちから質問を投げかけるなんて大それたことはできない。
 結局誰もひと言も口を利かずにぞろぞろ移動するはめになっていたわけだが、それを意に介さない者がひとりいた。航市に背負われた尚人である。
「宗主…どうして下へ向かっているんですか?ここからなら、入り口に戻る方が早いですが」
「おはよう、尚人。目を覚ましてまず言うことがそれなの?他に言うことは?」
「……あ、ええと、こ、この度はご面倒をお掛けして…」
「やり直し」
「……今回のことはすべて僕の責任で…」
「まったくだめ」
「ええと、ええと…」
「ありがたく感じてる?わたしが来たこと」
「はい、あの…その、来てくださって助かりました。ありがとうございました」
「そうそう、それだよ。まったく手のかかるねえ、尚人は」
 ひとつずつ丁寧に教えなければならないのかと不満そうな宗主である。
 何を思ったかそれから頬抓りとデコピンに続くのだが、気がついたのを幸いに航市を屈ませ、尚人の首筋や下瞼に触れて状態を診た宗主は、吐き気や頭痛がないことを尋ねて良い答えを得ると、小さな笑みをうかべて再び先を促した。
 改めて歩き出しながら、はじめの問いへの返事を返す。
「確かに入り口に戻る方が早いけどね、尚人はこの山の仕掛けのこと、どう思っている?」
「この山の…?…浄化機能が入り口から離れたところに据えてあることについて、ですか?」
 山を浄化するだけなら、もう少し簡単なやり方があっても良いだろう。仕掛けを作動させるのは未熟な者たちばかりなので、誰も行き着かないことも有り得る。そうなった際にいちいち誰かが山の奥まで行くのは手間がかかってしょうがないが、修行だけを思えば都合がいい。
 自分の答えが正解ではないと感じ取って、尚人はほんの少し気になっていたことを尋ねてみることにした。
「お訊ねしてもよろしいでしょうか」
「うん、なに」
「ここの浄化装置は地下水を利用していますか?」
「だとすれば?」
「参加者が向かうのはただの遠隔操作用の場所で、本来は入り口の近くに直接動かすための場所がある。向かっているのはそちらでしょうか」
「そうだね。この山の下には大きな水瓶があってね、本来の浄化機能はそこに仕掛けられている。良く気付けたね」
 手放しで褒める宗主に尚人は少し気恥ずかしそうに目許を染めた。
「負に染まらない泉を見つけて、ここであれだけの清浄さを保つ理由を考えていたんです。何らかの術に関係していているのは間違いなかったですし、それならこの山全体の術に関わっているものではと」
「そうだね。わたしもそういった泉なら見つけたことがある。今この山の負はひじょうに不安定なんだ。人為的に濃くされたせいで、誰かが上に辿り着くのを待っていられない。尚人の体に残った術の残滓を消す必要もあるし、この山の浄化機能を動かす手伝いをしてもらいたい」
 根津は負を操り尚人にまとわりつかせていた。それだけでなく部分的に負を集めたり、休憩地を襲わせるためにより濃くつよい負を人為的に作り出している。そういった術の影響で山の負は揺らぎ、小さなきっかけで暴走しかねなかった。
 お願いしているようであからさまな決定事項を告げる宗主に逆らえる者などない。
 今から外へ人を呼びに行くよりも直接向かった方が早いだろうことは、彼ら全員が考えつくことでもあり、こういった地の気の乱れは大きな災害を引き起こす可能性がある。その為、誰も異論を挟むことなく一行は浄化のための術が仕掛けられている地下の水瓶に向かうことになった。
 宗主の案内で小一時間は歩いただろう。目的の場所は彼らが予想するよりもずっと近い場所にあった。地下の水瓶へと続く門は、どこにでもあるような苔むした岩につくられており、じっくり眺めてもただの岩にしか見えない。
 案内役が宗主でなかったら、ここがそうだと言われても信じられなかっただろう。岩の前に立った宗主は短い言葉を唱え、指先を小さく動かした。
 淡く白い光りと共にうっすらと榊家の紋がうかびあがる。湿り気のある冷たい風が岩の間からあふれ、清浄な気の気配が感じ取れた。少し前には姿のなかった洞穴の入り口に、ためらいもなく宗主が足を踏み入れる。後に続いた一行は、人ひとりがようやく通れるほどの暗闇の道の先に、信じられないほど大きく、広々とした空間があり、たっぷりと水が蓄えられた地底湖を見ることになった。
「説明したとおりに支度をしてね。尚人はわたしの傍にいなさい」
 顔色はだいぶんましになってきていたものの立ち上がるとふらつくので、忙しく動くことになった面々を手伝うことはできない。
 立って動き回れなくても手伝えることはあるのに、端から戦力外にされた尚人は不満だった。
「…小道具への術込めぐらいなら……」
「大人しく座ってなさい。尚人にはとっておきのお仕事を残してあるから」
「とっておき…?」
 首を傾げた尚人に頷いた宗主は、ひとつ所に集めた枯れ枝の中に火を入れた。




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