「青く沈む」



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 天井に開いた空気孔から薄く星明かりが射し込む。
 昼間ならある程度明るかった洞穴の中は夜になると、外にいるよりも尚深い闇が広がった。
 この地底湖には魚がいない為、夕食は外で摘んできた山菜とキノコ、米を塩で煮込んだものが振る舞われた。薄味だが疲れた体には良く、作り手である宗主は満足そうに木の匙を口に運んだ。
「我ながら良くできた。どう?」
「おいしいです。手際も良くてびっくりしました。宗主は料理も上手なんですね」
「そうだよ。今はともかく、昔は良く作ってたからね」
 それがいったいいつのことをさすのか、尚人は知っている。
 宗主は幼い頃に母を亡くし、その後父方の伯母に引き取られたが彼女は夢棲みだった。夢棲みは現実と夢想の境目が極めて曖昧で、思うような会話が成立することも殆どない。それでも彼女は優れた術者であったので、新しい術を作り出すことができる。
 生まれつきの夢棲みには良くあることで、日常生活には常に誰かが伴わなければうまく暮らせないほどでも、天才的な閃きを持ち、後世に名を残す優秀な人物が多い。宗主の伯母もそういうひとりであり、彼女を支えるために多くの人が傍で立ち働いていた。
 尚人は彼女と何回か会ったことがある。
 勝ち気そうなややつり上がり気味の双眸に薄い唇。華やかな雰囲気をもった女性で、いつも誰かしら女の人が傍にいた。
「尚人?どうしたの。ぼんやりして」
「いえ…。僕も…こんなふうに作れたらなと思って」
「何なら圭也に教わる?なかなかうまいよ」
「えっ、いえ…っ」
「どうしてそこで即座に断るのかな。真知はどう思う?」
 急に話しかけられた真知はあからさまに強ばり、匙の手を止めた。
「真知?」
 焚き火向こうの真知を心配するように小首を傾げた尚人に、きつい視線が返る。
「なんでもない」
「なんでもなくはないよね。真知?そういえば、尚人へのごめんなさいのひと言をまだ聞いてない気がするけど」
「…………っ」
 宗主の言葉なら従順に答えを返すべきだが、とっさに罵りの台詞を返しそうになって真知はぐっと堪えた。
 自分が犯したことへ責めは幾らでも受ける覚悟はしても、嫌いな相手へ頭を下げることだけはできない。悶々と悩んでぴくりとも動けなくなった相手にさすがの宗主も降参の旗を振った。
「分かった分かった。強情なのはようく分かったからね。でもね、ふたりとも。自分に何が起きたか、何をしたかちゃんと分かっているの」
 尋ね返されたふたりは揃って体を硬くする。
「「それは…」」
 声が重なって不本意そうな顔をうかべる真知に、尚人は素知らぬふりをよそおって先に言葉を繋げた。
「何をとは…どういうことをお訊ねなのでしょうか」
「慎重だね。でも言い逃れできる状況でもないと思うよ。真知が使ったのは誰でも使える術ではない。封じられた書のひとつを見たものであるのは確かだ」
「封印の書は門外不出。厳重に保管されているはずです。一介の術者が見られるものでも、扱えるものでもありません」
 否定しながらも、その可能性がもっとも高いことは事実だった。
 封じられた書に載せられた術の殆どは、その術そのものが人倫にもとるような代物であったり、人の手には負えないようなものだったりする。そういった術を人の記憶から失わせ、再び世にでないようにしたものが榊家には幾つか保管されていた。
 宗主であれば閲覧は可能なものの、使ったことが分かれば誰であっても罪を問われる。
 こういった書は、見れば誰でも使えるわけではない。読み解くための豊富な知識と、適性が要る。それは相性とも言い換えられる。封印の書を読めても使った瞬間、自分が放った術に喰われて身や心を滅ぼす危険性が高く、よほどのまぬけでなければむやみに使ったりなどしない。
 封じられた書は危険度の高いものからつよい防壁がかけられた奥にしまわれて、姿形を目にすることさえ困難なものになり、比較的浅い階層内になれば、たまたまとか出来心で覗けるものもある。人には決して言えないが、尚人自身幾つかの書を目にしていた。
 真知にもそういった機会はあったろうが、使用は今回が初めてだったのだろう。初めて使った術を放って無事に済んでいるのだから大したものだが、ここで褒めるのは場違いも甚だしい。
 しかしながらその術が載った書はかなり深い階層にあるのはまちがいない。読み解けるだけの素質に恵まれたのだとして、なぜ、その書を目にすることが出来たのか。そういったこと自体が問題だった。
「封じられた書の術には殆どといって解き方がない。載せてあるのは不完全なものか、術を放つことよりもずっと難しくて、使えたものじゃないものだ。真っ当な書ではないからね、そうしたことがふつうなんだ。危険度が低いものをこっそり試したことがあるような火遊び組は例外なくその事実を知っている」
 宗主から向けられた含みのある視線は、尚人が火遊び組だと言っているようなものだが、うっかり同意するわけにもいかない尚人は黙っていた。
 不品行とは縁がない生活を送っている真知はむろん火遊び組ではなく、だが前もって火遊びをしていれば思い留まったかもしれない。
「すぐに解くことができたことからして、あんまり出来のいい術ではない。だから多少、保管も甘くなっていたのかもしれないけれど、…分かっているね?どんな理由があろうとも、封じられた書の使用は許されない」
「………はい」
 重く項垂れながら頷いた真知には言い訳を口にするつもりがなく、そのまま黙ってしまう。
 宗主は絶対。今ここで判決を言い渡されたとしても、逆らうことは許されない。焦ったのは尚人だった。
「ちょっと待ってください。決めつけるのは早すぎます」
「そうかな。彼はもう覚悟しているように見えるけど」
「真知、自分のことなんだから何か言ってよ。どこからどうやって書を目にすることになったのか、なぜ使おうと思ったのか、だいたいすぐに解かれたのだから封じられた書などではないとぐらい言って。ふだんのふてぶてしさをどうして発揮しないわけ。簡単な術だったのに僕がへなちょこだったせいでとか、術を練習していた際の事故とか、…宗主、あれは事故だったんです。3:7ぐらいで僕が悪かったんです」
「……………」
「…あ、いえ…2:8でも」
 いちばんの被害者であり、苦しめられた本人がそんなことはなかったと言えと勧めて、率先して無罪を訴える。あきれ返ったのは榊家の主であり、裁き手だった。
「尚人、自分で自分の首を絞めにかかりながら、まだ大丈夫、まだそんなに苦しくない、とかやって、楽しい?」
「……お言葉ですが、そんなことはしていません」
「いやしてる。術の影響でとうぶん務めも果たせない。真知の行いをなかったことにすればどうなるか。尚人はそれでいいの。巫のように閉じこもった日々を生きていけると?悪いけど、そうは見えない」
 怪我ひとつ負うことなく終える、そういう約束をしてこの山に来た。
 来年の修行日に参加できなくなる、それだけで済むならまだいい。これから先、本家の奥に閉じこめられるとも考えられた。
 遣え人としての役目に差しつかえただけでなく、山の負の気を不安定にさせた要因になったとなれば、継役たちはここぞとばかりに不平不満を訴えて、今の遣え人に与えられている自由や安らぎを取り上げにかかるだろう。
 継役の孫である真知が関わっているとなれば、彼らへの牽制になるし、使いようによっては切り札にも出来る。その事実をなかったことにするのは、自分の手で希望という札をどぶに捨てるようなものだった。
 真知のことを隠しても尚人には何の得もない。というより損にしかならない。
 ただし、封じられた書のことが知られれば真知に未来はなかった。
 遣え人を害したこと、封じられた書の術を使ったこと、ふたつが合わさってしまっては極刑は免れない。
「……おまえは、なぜそんなまねをする」
「……ん?」
「おれへのあてつけだとしてもほどがあるぞッ」
 堪らないのは真知だ。かばわれる謂われがない。
 減刑を乞われることさえ腹立たしいのに、ささいなことだとでもいうような態度を返されて、真知は目の前が真っ白になるほどの怒りに襲われた。
「自己犠牲のつもりかなにか知らないが、それでおれをかばって、優越感にひたるつもりならそうはいかない。おれは見てはならない書を見て、使ってはならない術を放った。おまえを支配下に置こうとしたんだ。尻ぬぐいは自分でやる。おまえの手など借りるものか…ッ。あれが何かの間違いだというのなら、今ここでもう1度やってやる…っ」
「真知様…っ。なりません、お気を静めてっ」
 尚人に向かって飛びかかろうとした体を男たちが飛びついて取り押さえる。
 真知は小柄ながらも引き締まった体付きをしていて、腕力もある。我を忘れて暴れれば、生半可なやり方では止められない。止める方も必死だった。
「宗主、失礼を承知で申し上げます。どうか真知様にご温情を。そもそも尚人様をお狙い申し上げることになったのはあの男のせいなのです」
「黙れ、余計なことを言うなっ」
 お目付役らの口出しによりいっそう抗いは激しくなったが、彼らも負けない。
 自分たちの主人のこれからを考えるなら、ここがとても大事な局面である。
「いいえ、黙りません。負使いの言うことなどはじめから聞くべきではなかったのです。負を潜らせて人を操るような外道など、それこそ庇う必要などない」
「おまえたちが口出すことではないッ」
「いいえ、いいえ。わたくしどもは真知様にお仕えしているのです。間違った道を進もうとする主人を止めなかった、その責がわたくしどもにはあります。そもそもが死者を甦らせるなどと、ましてや尚人様がそのお力を以てご両親を甦らせたなどと、荒唐無稽にもほどがありますでしょう」
「だが生きている。それは確かだ。おれはこの手でこの目で、懐かしい気を感じ取った。あれは今生きている人のものだった…!」
 真知が根津に声をかけられたのは、祖父に代理を命じられ赴いた継役の集まりでだった。
 継役の孫たちの中でも際だって優秀な真知は将来有望だと思われていて、お追従のおおばんぶるまいを受ける。あの手この手で機嫌を取ろうとする彼らの熱意はすさまじく、時間もお金も惜しげもなく豊富に使う。
 そういった席で真知への贈り物として用意されていたひとつが、白い蝶の銀細工だった。髪飾りになるよう留め金の付けられたそれは、それほど高い品でもないようだったが美しい品で、手にした途端、真知は懐かしい気配を覚えた。
 大事に扱われてきた品物には持ち主の気配が染み込んでいる。
 すぐに贈り主である根津を問い詰めたが、彼から持たされたのは思ってもみない話で、はじめは取り合わなかった。
 遺品を持ち出してきたのだとも考えられたので、そのことを調べるためだけに預かった。そうしてようやく根津の話の一部分を信じてみる気になったのだ。
「ごく最近作られたものだった。有名とは言えないが作家の一点物で、裏も取った。決して何の根拠もないわけじゃない。少なくとも根津の言うとおり、死んだはずの彼らと同じ気配を持った者がいることは間違いない」
   明かされた真知の動機の一端を前に、尚人たちは揃って口を噤んだ。



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