内容:月吹く風と紅の王 番外
ルシエが見つけた思い出。
古い本を調べていると、思わぬものに行き当たることがある。
「ルシエさま?いかがなされましたか」
「……ううん、なんでもない」
開いていた本を手もとの本に重ねて、ルシエは立ち上がった。
「お持ちします」
「……うん」
花青宮の図書館には豊富な蔵書があるが、その殆どはルシエには興味のないものばかりである。
それでも退屈しのぎにだいぶ目を通していたので、ルシエは本好きだと思われていた。間違いではないが、どれもこれも楽しく読んだわけではない。幸いにも司書官たちは読書の結果を求めてきたりしないし、その辺は何が好きでそうではないのか、分かっている節がある。
物怖じしないルシエは司書官らと他愛ない話もするし、わりと仲が良かった。たまたまの話の流れで、閉架の整理をするので、処分してほしくない本があれば持っていって良い、というお墨付きを貰えたルシエは、さっそく本を見に行っていたのだった。
「では、こちらに置いておきますね」
「ありがとう」
一緒に本を運ぶのを手伝ってくれた司書官に礼を言って、ルシエはふっと周りを見渡した。
「………うん」
周りに誰もいないことを見て取ってから、積み重ねられた本を崩し、最後に手にしていた本を取り出す。
なんでもない顔をして天蓋から薄布が下がった寝台に上がり、布越しの淡い光の中で、そっと手にしていた本を見た。
くすんだ灰色の本は飾り気もなく、日に灼けているうえ、全面に使った粗めの布はすり切れて毛羽立っている。けれどこれまでずっと大切に扱われていたことが伺えた。角の綻びには補修した痕があるし、糊を付けなおしたところもある。
「……………」
本の中身も気になったが、それよりも確かめたいことがあって、ルシエは古くなった紙を傷めないよう気をつけて本をひらいた。
「ああ、…」
小さく息をこぼす。ルシエが見つけた時のまま本に挟まれていた写し絵は、良く見ると斜めに破れていた。
この本を書庫でひらいた時に、どこかへ切れ端を落としてしまったのかも知れない。ページをすべてめくってみたが残りを見つけることができず、ルシエはうなだれながら手もとに残った写し絵に目を落とした。
「…やっぱり、似てる……」
小さな子どもを抱き上げて微笑む女性は、腰元がふくらんだ少し古い形のドレスを着ている。豊かな髪を結い上げて、その大部分を背に流していた。
色は褪せてしまっていて、どんな色の髪や瞳をしているのかは分からない。けれどきりっとした口もとや、すっ、と弧を描く眉の形など、驚くほどエルシェリタと似ていた。
抱き上げている子どもの顔は残念ながら破れていて、確かめることは出来ない。けれどそうだという確信がルシエにあった。
「王后ユィシアン。…エルシェリタのお母さん」
精霊王オルディーアの唯一の正后である。彼には多くの后がいるが、王后を名乗れるのは彼女だけであり、彼女亡き後、空位のままになっている席である。
王宮には彼女の肖像画が飾ってあるが、ルシエは見に行ったことはないし、広く一般にそういったものが出回ることはないから、王族の顔を知らない者も多い。ルシエもそのひとりだった。
だった、というのは、王本人から生前の王后について少なからず聞かされているからだ。王のことは好きではない。むしろ恐い。いつもルシエにひどいことをするし、たくさんの后がいるのに、息子の人形に手を出すなど理解できない。
それでも、王が見せる穏やか顔まで嫌っているわけではなかった。エルシェリタがいなくなった後、寝台の上で目を覚ましたルシエに王は子守唄代わりだと言って聞かせることがある。それはエルシェリタの幼かった頃のことや、彼の母のこと。
王后ユィシアンは、大貴族の娘である。精霊王の后になるために生まれたような娘だったと、彼女を知る者は口を揃えて言う。けれどオルディーア王は変わった娘だったと、ルシエに言った。
「"あの女は人形になった日の寝所で、余の睦言をそれが義務か何かのように大人しく聞いていた"」
従順な女性だったといえば、それではない。
ひとしきり聞いた後は、あっさりと寝台から出て別れの挨拶をきっちり述べていたのだという。はじめて主人の寝所に上がった高揚も恥じらいもない。形式じみた態度だった。
「"なんと冷たい女だと思ったよ。壱の人形には彼女を据えることが決まっていたし、変えるつもりはなかったが、幾ら甘い言葉を囁いても眉ひとつ動かさない"」
つまらない、と王は思った。その時はまだ王ではなく、王子のひとりであったが、いずれ壱の人形が自らの王后になることは分かっていた。
王の義務として寝所に上げ、優しい言葉を囁きかけていたが、そんなふうに味気ない振る舞いをするのは彼女だけで、大抵はすぐに整った王の顔立ちに見惚れ、低く甘やかな声にのぼせてくれる。
王はそれに満足していたわけではなかったが、そういうものだと思っていた。
「"余が嫌いなのだろうと思ったよ。けれどそれは間違いだった"」
正しくは、"大嫌い"だった。
「"きっかけは何だったか忘れたが、珍しくあれから触れても良いかと言うから許すと言ったら、こぶしで殴られた。それで、止めに入る花青官とでもみあってな。ああ…、余の方が"」
花青官立ちによってすぐに取り押さえられたが、彼女は抗いもしなかった。
殴られた頬は正直痛かったが、彼女が感情をあらわにしたところをはじめて見た王は驚いて、花青官を下がらせて話を聞こうとした。それでややもめたのである。王を傷つける者を傍に置けない花青官と、何とかしてそれを追い払おうとする王とでは話が合わない。
それでもどうにか花青官をひとり置くことで妥協した王は、はじめて彼女に尋ねた。
「"余が嫌いか?"」
「"いいえ。大嫌いでございます"」
王はめげなかった。食い下がった。
「"言ってみよ。どこが嫌いだ"」
全てと言われるかも知れない、王はそう思った。
甘く優しい言葉は幾らでも吐いたが、そこに実が籠もっていないと詰られればそれまでだ。
「"では、言わせていただきます"」
そうして彼女が語ったのは、王子宮にある彼の花園についてのことだった。
そこには彼の名の下でつくられた庭がある。
「"庭の管理がなっていないと怒られたのだよ。余は。まったく信じられないだろう?より多くの花が咲いていれば良いと思って華やかにしていたものを、四季にそえと、花と花との相性を考えろと、そこは余の庭ではあったが、庭師任せにしていなかったことを褒められこそしても、どうして詰られると思おう"」
王子宮は内部で分かれており、それぞれの王子が独立した生活を営めるようになっている。だからそこは彼の庭で間違いはなかったのだが、自分のものだと確かに思ったこともない場所でもあった。
しかし、彼女の意見に従って花を替えてみると、驚くほどしっくりくる。人受けも良く、花木はより健やかになったようだった。
王后ユィシアンは、相手が誰であっても物怖じすることなくはっきり意見を言う女性だったのだと、ルシエは思う。
そして王はそれを好もしく思ったのに違いない。ルシエが彼女の息子の人形だから、というだけでなく、王は彼女のことを語って聞かせるのが好きなようだった。
それでもオルディーア王は王后のことを最も愛していたとは言わない。少なくともルシエの前でそれを言ったことはなかった。彼には彼女の他に后がおり、ひとりのみを選び取ることは王ゆえにしない。寝所においては誰であっても平等に扱うことを固く守ってきた王である。
「……すごく、幸せそう」
そう見えるのはルシエの思い込みかも知れない。
少なくともあの王があれほど気に入っていた女性なら、そうに違いないと思う勝手な想像。
けれど、彼女の顔は見慣れたものととても似ているから、ルシエには何となく分かるのだ。
写し絵の中ににじむ心の底からの微笑み。喜びと愛おしさ。
腕に抱えた幼子と、ユィシアンの双眸の先にあるものと。そのふたつにユィシアンの微笑みは向けられている。
「ルシエ?」
「ふ、わ、わ、……ああー…っ」
儚い音をたてて、写し絵がふたつに裂ける。
声の主から隠そうと慌てた拍子に無残に裂けてしまったそれを、ルシエは呆然と見つめた。
「どうしました?そんなに泣きそうな顔をして」
「………ごめん、…ごめんなさい、エルシェリタ。これ……」
写し絵にあった美しい顔が見る影もなく千切られてしまっている。
もともと破れていたとはいえ、勝手に持ってきてこっそり見ていた罪悪感と、目の前の人の母親の写し絵を台無しにした後悔で、ルシエの顔は紙のように白く青ざめていた。
怒るなり眉をひそめるなりすると思われたエルシェリタは、差し出された写し絵と人形の傍らにある灰色の本を見て、やわらかな微笑みをうかべる。
「懐かしいですね。これ、私が破いたんですよ」
「………僕。勝手に……え?」
「王にいただいたものですが、ある日弟に見つかって、取り合いになりましてね。力加減を誤って、斜めに破れてしまって。私も幼かったものですから」
自分よりも弟の方があまりに泣くものだから、急いで近くにあった本に切れ端を隠したのだと、エルシェリタは話す。それ以来、すっかり忘れていたとも。
「新しい写し絵を王からいただきましたし、ルシエがそのように気にすることはありませんよ」
「……でも、エルシェリタ。勝手に見ていてごめんなさい、それに破いてしまって」
「ありがとう。私の大切なものだと思ったのですね」
切れ端を握りしめた手のひらごと手に包み、エルシェリタはルシエの目もとに口づけを落とす。
「これはもういいのです。私はルシエをひとりにはしません。だからルシエも、私を置いて行かないでください。そのことの方が大切ですよ」
人の死を予測することは出来ないし、そんなことは分からない。
そう言おうとした唇を言葉ごと奪われて、抗おうとした手からひらりと写し絵の切れ端が落ちる。
あ、とそれを追いかけようとしたルシエをエルシェリタはやんわりと押し止め、その身体を寝台の上に倒した。
「約束できますね」
「………、わ、分かった」
はっきりとした約束ではなかったが、それで満足したようだ。
エルシェリタの微笑みを、ルシエはしばらくの間ぼんやりと見つめた。
それは、写し絵の中の微笑みと良く似ている。
腕の中に包んだルシエに向けるエルシェリタの微笑みと、それは良く似ていた。