内容:唄う花番外。
蓮と父とがふたりで暮らしていた頃のお話です。
火曜特価市!食パン69円(5枚切・6枚切)
そんなちらしを見たなら、行かねばなるまい。
幸いにもその日は午前中までで授業が終わるから、たとえ朝に売り切れてしまっても、午後の品だし時に間に合う。行きつけのスーパーだから、だいたいのタイムスケジュールというか、売れ行き具合とかは把握済みだ。
ちょっと足を伸ばせばお買い得な商品がそろっておまけもつく商店街があるけど。
おばちゃんごめん!今日はパンのためにスーパー行くよ。
パン、ちょうど切れてたし、というのは言い訳で。
お米があれば日々の生活は事足りる。オレにとってのパンはちょっと特別なものだ。
別にパンが嫌いとかごはんが嫌だというわけじゃない。
ふだんはやっぱりお米がいちばん。調節も効くしバリエーションも豊富だし、なんと言っても舌に合う。父さんもオレも断然ご飯派だから、お米を切らすなんてことはあり得ない。
でもだからこそ、たまにはパンに憧れる。
朝は専用のトースターで焼いた食パンにさっとバターをのせて、トマトとレタスのサラダとか、ハーブ入りのソーセージとか、エッグスタンドにゆで卵とかさ。そういう絵本があったんだ。大人の飲み物はコーヒーで、子どもはホットミルク。
それをトオ兄たちに言ったら、翌朝そのまんま朝ご飯としてでてきたのは懐かしい思い出だ。なんと食パンにはうさぎが焼き付けてあって。うさぎの顔がおっきく入ったすごい可愛いやつ。あ、でも、コーヒーは限りなく牛乳で薄められたコーヒーだった。ホットミルクに蜂蜜を入れたのを夜に飲んだりするから、それと区別するためのコーヒー牛乳だったのだろう。
とにかく。
どうしてもってわけじゃないけど。明日はパン。パンごはんに決定。
なんたって69円。すっごくお買い得。
ついでにジャムも欲しいな。たまに使うだけなのに勿体ない気もするけど…瓶ジャムは保つもんな。マーガリンはあったし、たまごもある。きゅうりを足してサンドイッチとかもいいなぁ。
「親父、朝飯」
まだ真新しい中学の制服の上からエプロンを着けて、トースターから出したばかりのパンをお皿に移す。
予算の都合上、食卓に並んでいるのはキュウリとレタスのサラダ。ベーコン。ジャムは止めておいた。次いつパンが安いか分からないし、イチゴかマーマレードで悩んでさ。オレ、イチゴ派。父さんマーマレード派なんだ。
ちょっと思っていたのと違う感じに仕上がったけれど、それでもパンごはんに変わりはない。
「お、めずらしいな」
「安かったんだ。なんと69円だぞ」
「ふくふくベーカリーは旨いけど、高いからってあんまり買わないもんな」
父さんの言うとおり、商店街行きつけのパン屋は旨い。旨いんだけど毎日買うのはちょっと困るお値段で。それ相応ってやつだとは思うんだけどさ。でも、あんぱんとかすっごくいいんだ。遠くから買いに来る人もいるぐらい。
「うん、たまにはパンもいいし。…いただきます」
「いただきます」
手を合わせてこんがりきれいに焼けたパンにかぶりつく。
ふわぁと来る小麦粉の味っ。薄く塗ったマーガリンの心地よい匂い。
歯ごたえはさくっ。
喉ごしはもきゅもきゅ。
ほんのり甘くて、それで…、………。
「んん?」
「…………」
「…………」
どうしてだろう。ちょっぴりへん?
いやいやまさか、うすうすとほのかに…、まずいような…。
そんなたいそうな舌は持ち合わせてないし。青色斑のパンだって食える。…てきめんに腹を壊して父さんに叱られるけど。いや、青色斑と買ったばかりのパンを比べるのはちょっと。
「ふくふくベーカリーはすごいなぁ…」
オレはぽつんと呟いて、楽しみにしていたパンを噛みしめる。
おいしいゆえの高さもあるけれど、あり得ない安さにはそれ相応の理由があるんだなぁと、オレは知った。
それを言ったら、そんなことはない、おいしいぞ、と父さんが付け加えた。自然と無口になったオレにそれ以上何を言ってもむだだと思ったのか、父さんの口数もだんだん減っていく。まあ、食事時には静かになりやすい家だけど。黙って朝食を終え、オレは洗いものを引き取った。
まずかったからって残すことはしない。昼ご飯はサンドイッチがいいな、という父さんの誘いにオレは首を振った。残りの4枚はオレが責任を持って引き取る。
「お弁当用のごはんなら炊いてあるから」
「…無理するな?」
「してないよ」
小さく笑って、仕事に出かける父さんを見送った。
卵と砂糖、ちょっぴり牛乳でフレンチトースト。
卵とマヨネーズでかんたん目玉焼きパン。
卵と砂糖、牛乳を多めでマグカップにパンプディング。
卵が多いのは、特売で多めに卵を買っていたから。
甘いのが多めのはその方が好きだから。
「最後の1枚…どうしよう……」
袋に入ったままのパンを眺めながら、食卓に頬杖をついて思い悩む。
正直、おいしくないことぐらい我慢すればいい。
しょっちゅう体調を悪くして、おいしいはずのものもおいしくなくなることも多いから、多少まずくたって食べられるだけ良いはずなのだ。
口に入れて、噛んで、飲み込む。じんわりと広がる味と舌触りと、病み上がりのときは特に食べられることだけがうれしくて、食べるもの、口にするものぜんぶがいとおしくなった。
ただだからこそ、おいしいものを食べたいという気持ちもある。まずいものを作ろうと思って台所には立たないし、どうにか片付けようとつくった最初のフレンチトーストが思いの外おいしくできたから、できれば最後までおいしく終わらせたかった。
けれど、普段パンを食べ慣れないせいもあって、ちっとも良い案がうかばない。
手持ちの料理の本にはパンを使った料理は載ってなくて、どんなふうに食べているのか聞ける相手もいなかった。
こんなことなら5枚切りにすれば良かった。でも5枚だと2人で割り切れない。
悩んでいるうちにパンを買って3日目の朝陽が昇りきる。
今日は日曜で家にはオレしかいない。父さんは仕事だ。
一時期残業も休日出勤もまったくしなかった父さんは、オレが中学校に上がってから残業をする日が増えた。たまたま忙しい時期なんだよ、と言っていたけれど、小さな子どもがいるからって無理していたのだと思う。
桜朱恩を卒業した今はどんなことでも父さんとふたりでがんばっていかなくちゃいけないし、オレはきちんと家計をやりくりして、なるべく父さんの負担を減らすようにして、学校のこととかで悩むことがあっても、ナギ姉たちに迷惑をかけないようにして、やれるだけやっていかなくちゃいけない。
少なくともこの頃は、そういきごんでいた。
食卓に頬杖をついたままうつらうつらしていたオレは鳴り響く電話の音に飛び起きた。りりりりん、という古い電話機特有のはじけるような音に耳がわななく。
「もしもし」
「俺だ」
「親父?」
珍しいなと思ったら、なんと忘れ物をしたようだった。言われるまま部屋をのぞくと、いかにもな茶封筒が置いてある。
「悪いが、どうしても必要でな。持ってきれるとありがたい」
「うっかりしてるなー。いいよ、どこ?」
言われた場所は商店街の裏側。今日は仕事の都合でそこへ行っているらしい。あんまり行かないところだけど、聞けばなんとなく分かる。
憎まれ口をちょっと叩いてから、軽く請け負った。父さんの忘れ物なんか1度も届けたことがない。急いで届けなくちゃと意気込んだのを見透かしたみたいに、のんびり来るようにと付け加えられた。
外を見るといつのまにか雨が降り出していて、茶封筒を厳重にビニールで包んでから肩掛け鞄につめこみ、その上からレインコートを着る。まるっと大きな釦がついたお気に入りのレインコートに長ぐつを履いて、家の戸締まりをした。
空の中から真っ直ぐに落ちてくるこまかな雨の中を歩いて40分。忘れ物を渡すと父さんは嬉しげに口もとをつりあげ、どことなくほっとした感じもある。すっかり濡れていた顔を父さんのタオルで拭われて、休んでいくかと言われたけど、大丈夫だと拒んだ。
見知らぬ大人たちに囲まれた父さんはいつもと少し違って見えて驚く。わずかな気後れを覚えて、たとえ人見知りしない質とはいえ図々しく長居はできなかった。
「最初の道を右に曲がると近道になる」
どの道を通ってきたんだ?と聞いてきた父さんに答えると、オレでも分かるように近道を教えられた。オレの行動範囲がそれほど広くないって父さんにもばれているから、すごく丁寧に道を辿って言葉にしてくれる。地図で書かれると余計分からないこともあるけど、言葉は覚えられる。
「うん、分かった。じゃあね」
「気をつけて帰れよ」
灰色の雲が太陽を隠して、まだ昼すぎだというのに辺りは薄暗い。
近道だという通りは今まで1度も歩いたことがなく、軒を連ねている小さな商店も閉まっているものが多いせいか、どことなく寂しかった。自然と速まる足を途切れがちな息が阻む。
額ににじむ汗を手の甲で拭って、シャッターが降りた店先の端に逃れた。雨脚が少しだけつよまる。
傘も持ってくれば良かった。少しだけ後悔が過ぎったけれど、これぐらいの雨ならすぐに止むかもしれない。
そうやって雨宿りをしていると、弾んだ鼓動がおさまるのと一緒に血の気も戻ってくる。それにほっとしながら軒先から空を見上げた。
「雨、やまないね」
「…っ」
「あらら、ごめん。驚かせた?」
いったいいつのまにそばに来ていたのか、店番らしいこざっぱりとしたエプロン姿が目に入る。
長めの髪を後ろでひとつにまとめた女の人だ。
「ちょっとごめんね」
後ろの方でかがんだと思ったのも一瞬、勢いよくシャッターがあげられた。シャッターがあげられるところを初めて間近で見て、そのけたたましい音にあっけにとられる。これ、旧型で重いんだ、とナギ姉より幾らか年上だろう女の人は言った。
状況について行けないままのオレの顔をぐっとのぞきこんで眉を寄せる。
「君、ちょっと顔青いなぁ。店の中で休んで行きなよ」
「え、や、…平気です」
「そ?じゃあこれ持って」
ぽんぽん運ばれる会話について行けない。なんの店だろうとぼんやり視線をさまよわせていたオレの手のひらに、何か冷たいものが触れる。
「瓶…?」
「蜂蜜さ。うちの人、転地養蜂しててね。花を追いかけてどこまでも行っちゃう」
「…蜂蜜…?」
戸惑っているあいだにてきぱきと店支度を続けるおねえさんがにっかりと笑みをうかべた。
「料理に混ぜてよし、飲み物にもよく合う、もちろんパンにつけても良い百花蜂蜜だよ。サービスだから遠慮なく持って帰ってよし。あ、雨が小降りになってきた。帰るなら今だね」
パンに…つけても合う…?
そうか、蜂蜜なら…っ。
「あっ、ありがとう!おねえさんっ」
「またのご来店、お待ちしてます」
ちょっと気取って言うのが妙におかしい。つられて笑みをうかべてから、蜂蜜の入った小瓶を持ってオレは最後のパンのもとへと帰った。
パンにはジャムを塗るものだと思っていたけれど、蜂蜜だって合う。そう気づくと居ても立ってもいられず、さっそくもらったばかりの蜂蜜をひとさじ、パンの上に塗りつけた。
「おいしいっ」
信じられないぐらいおいしかった。
パンには蜂蜜が合う。
そして蜂蜜にはパンもなければ。
「ごちそうさまでした」
仕事から帰ってきた父さんと一緒に残していた切れ端を食べる。
そろって頬をゆるめ、パンと蜂蜜を楽しんだ。
「たまにはパンもいいな」
「うん」
あれ以降、69円の食パンを食べる機会はなかったけれど、オレは今でもそのパンのことを思い出す。
もちろん、あの店の蜂蜜が家の棚に常備され、欠かせないものになったことは言うまでもない。