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拍手御礼10

   内容:唄う花番外。
       蓮と父とがふたりで暮らしていた頃のお話です。


   

 火曜特価市!食パン69円(5枚切・6枚切)

 そんなちらしを見たなら、行かねばなるまい。
 幸いにもその日は午前中までで授業が終わるから、たとえ朝に売り切れてしまっても、午後の品だし時に間に合う。行きつけのスーパーだから、だいたいのタイムスケジュールというか、売れ行き具合とかは把握済みだ。
 ちょっと足を伸ばせばお買い得な商品がそろっておまけもつく商店街があるけど。
 おばちゃんごめん!今日はパンのためにスーパー行くよ。
 パン、ちょうど切れてたし、というのは言い訳で。
 お米があれば日々の生活は事足りる。オレにとってのパンはちょっと特別なものだ。
 別にパンが嫌いとかごはんが嫌だというわけじゃない。
 ふだんはやっぱりお米がいちばん。調節も効くしバリエーションも豊富だし、なんと言っても舌に合う。父さんもオレも断然ご飯派だから、お米を切らすなんてことはあり得ない。
 でもだからこそ、たまにはパンに憧れる。
 朝は専用のトースターで焼いた食パンにさっとバターをのせて、トマトとレタスのサラダとか、ハーブ入りのソーセージとか、エッグスタンドにゆで卵とかさ。そういう絵本があったんだ。大人の飲み物はコーヒーで、子どもはホットミルク。
 それをトオ兄たちに言ったら、翌朝そのまんま朝ご飯としてでてきたのは懐かしい思い出だ。なんと食パンにはうさぎが焼き付けてあって。うさぎの顔がおっきく入ったすごい可愛いやつ。あ、でも、コーヒーは限りなく牛乳で薄められたコーヒーだった。ホットミルクに蜂蜜を入れたのを夜に飲んだりするから、それと区別するためのコーヒー牛乳だったのだろう。
 とにかく。
 どうしてもってわけじゃないけど。明日はパン。パンごはんに決定。
 なんたって69円。すっごくお買い得。
 ついでにジャムも欲しいな。たまに使うだけなのに勿体ない気もするけど…瓶ジャムは保つもんな。マーガリンはあったし、たまごもある。きゅうりを足してサンドイッチとかもいいなぁ。


「親父、朝飯」
 まだ真新しい中学の制服の上からエプロンを着けて、トースターから出したばかりのパンをお皿に移す。
 予算の都合上、食卓に並んでいるのはキュウリとレタスのサラダ。ベーコン。ジャムは止めておいた。次いつパンが安いか分からないし、イチゴかマーマレードで悩んでさ。オレ、イチゴ派。父さんマーマレード派なんだ。
 ちょっと思っていたのと違う感じに仕上がったけれど、それでもパンごはんに変わりはない。
「お、めずらしいな」
「安かったんだ。なんと69円だぞ」
「ふくふくベーカリーは旨いけど、高いからってあんまり買わないもんな」
 父さんの言うとおり、商店街行きつけのパン屋は旨い。旨いんだけど毎日買うのはちょっと困るお値段で。それ相応ってやつだとは思うんだけどさ。でも、あんぱんとかすっごくいいんだ。遠くから買いに来る人もいるぐらい。
「うん、たまにはパンもいいし。…いただきます」
「いただきます」
 手を合わせてこんがりきれいに焼けたパンにかぶりつく。
 ふわぁと来る小麦粉の味っ。薄く塗ったマーガリンの心地よい匂い。
 歯ごたえはさくっ。
 喉ごしはもきゅもきゅ。
 ほんのり甘くて、それで…、………。
「んん?」
「…………」
「…………」
 どうしてだろう。ちょっぴりへん?
 いやいやまさか、うすうすとほのかに…、まずいような…。
 そんなたいそうな舌は持ち合わせてないし。青色斑のパンだって食える。…てきめんに腹を壊して父さんに叱られるけど。いや、青色斑と買ったばかりのパンを比べるのはちょっと。
「ふくふくベーカリーはすごいなぁ…」
 オレはぽつんと呟いて、楽しみにしていたパンを噛みしめる。
 おいしいゆえの高さもあるけれど、あり得ない安さにはそれ相応の理由があるんだなぁと、オレは知った。
 それを言ったら、そんなことはない、おいしいぞ、と父さんが付け加えた。自然と無口になったオレにそれ以上何を言ってもむだだと思ったのか、父さんの口数もだんだん減っていく。まあ、食事時には静かになりやすい家だけど。黙って朝食を終え、オレは洗いものを引き取った。
 まずかったからって残すことはしない。昼ご飯はサンドイッチがいいな、という父さんの誘いにオレは首を振った。残りの4枚はオレが責任を持って引き取る。
「お弁当用のごはんなら炊いてあるから」
「…無理するな?」
「してないよ」
 小さく笑って、仕事に出かける父さんを見送った。


 卵と砂糖、ちょっぴり牛乳でフレンチトースト。
 卵とマヨネーズでかんたん目玉焼きパン。
 卵と砂糖、牛乳を多めでマグカップにパンプディング。
 卵が多いのは、特売で多めに卵を買っていたから。
 甘いのが多めのはその方が好きだから。

「最後の1枚…どうしよう……」

 袋に入ったままのパンを眺めながら、食卓に頬杖をついて思い悩む。
 正直、おいしくないことぐらい我慢すればいい。
 しょっちゅう体調を悪くして、おいしいはずのものもおいしくなくなることも多いから、多少まずくたって食べられるだけ良いはずなのだ。
 口に入れて、噛んで、飲み込む。じんわりと広がる味と舌触りと、病み上がりのときは特に食べられることだけがうれしくて、食べるもの、口にするものぜんぶがいとおしくなった。
 ただだからこそ、おいしいものを食べたいという気持ちもある。まずいものを作ろうと思って台所には立たないし、どうにか片付けようとつくった最初のフレンチトーストが思いの外おいしくできたから、できれば最後までおいしく終わらせたかった。
 けれど、普段パンを食べ慣れないせいもあって、ちっとも良い案がうかばない。
 手持ちの料理の本にはパンを使った料理は載ってなくて、どんなふうに食べているのか聞ける相手もいなかった。
 こんなことなら5枚切りにすれば良かった。でも5枚だと2人で割り切れない。

 悩んでいるうちにパンを買って3日目の朝陽が昇りきる。
 今日は日曜で家にはオレしかいない。父さんは仕事だ。
 一時期残業も休日出勤もまったくしなかった父さんは、オレが中学校に上がってから残業をする日が増えた。たまたま忙しい時期なんだよ、と言っていたけれど、小さな子どもがいるからって無理していたのだと思う。
 桜朱恩を卒業した今はどんなことでも父さんとふたりでがんばっていかなくちゃいけないし、オレはきちんと家計をやりくりして、なるべく父さんの負担を減らすようにして、学校のこととかで悩むことがあっても、ナギ姉たちに迷惑をかけないようにして、やれるだけやっていかなくちゃいけない。
 少なくともこの頃は、そういきごんでいた。

 食卓に頬杖をついたままうつらうつらしていたオレは鳴り響く電話の音に飛び起きた。りりりりん、という古い電話機特有のはじけるような音に耳がわななく。
「もしもし」
「俺だ」
「親父?」
 珍しいなと思ったら、なんと忘れ物をしたようだった。言われるまま部屋をのぞくと、いかにもな茶封筒が置いてある。
「悪いが、どうしても必要でな。持ってきれるとありがたい」
「うっかりしてるなー。いいよ、どこ?」
 言われた場所は商店街の裏側。今日は仕事の都合でそこへ行っているらしい。あんまり行かないところだけど、聞けばなんとなく分かる。
 憎まれ口をちょっと叩いてから、軽く請け負った。父さんの忘れ物なんか1度も届けたことがない。急いで届けなくちゃと意気込んだのを見透かしたみたいに、のんびり来るようにと付け加えられた。
 外を見るといつのまにか雨が降り出していて、茶封筒を厳重にビニールで包んでから肩掛け鞄につめこみ、その上からレインコートを着る。まるっと大きな釦がついたお気に入りのレインコートに長ぐつを履いて、家の戸締まりをした。
 空の中から真っ直ぐに落ちてくるこまかな雨の中を歩いて40分。忘れ物を渡すと父さんは嬉しげに口もとをつりあげ、どことなくほっとした感じもある。すっかり濡れていた顔を父さんのタオルで拭われて、休んでいくかと言われたけど、大丈夫だと拒んだ。
 見知らぬ大人たちに囲まれた父さんはいつもと少し違って見えて驚く。わずかな気後れを覚えて、たとえ人見知りしない質とはいえ図々しく長居はできなかった。
「最初の道を右に曲がると近道になる」
 どの道を通ってきたんだ?と聞いてきた父さんに答えると、オレでも分かるように近道を教えられた。オレの行動範囲がそれほど広くないって父さんにもばれているから、すごく丁寧に道を辿って言葉にしてくれる。地図で書かれると余計分からないこともあるけど、言葉は覚えられる。
「うん、分かった。じゃあね」
「気をつけて帰れよ」
 灰色の雲が太陽を隠して、まだ昼すぎだというのに辺りは薄暗い。
 近道だという通りは今まで1度も歩いたことがなく、軒を連ねている小さな商店も閉まっているものが多いせいか、どことなく寂しかった。自然と速まる足を途切れがちな息が阻む。
 額ににじむ汗を手の甲で拭って、シャッターが降りた店先の端に逃れた。雨脚が少しだけつよまる。
 傘も持ってくれば良かった。少しだけ後悔が過ぎったけれど、これぐらいの雨ならすぐに止むかもしれない。
 そうやって雨宿りをしていると、弾んだ鼓動がおさまるのと一緒に血の気も戻ってくる。それにほっとしながら軒先から空を見上げた。
「雨、やまないね」
「…っ」
「あらら、ごめん。驚かせた?」
 いったいいつのまにそばに来ていたのか、店番らしいこざっぱりとしたエプロン姿が目に入る。
 長めの髪を後ろでひとつにまとめた女の人だ。
「ちょっとごめんね」
 後ろの方でかがんだと思ったのも一瞬、勢いよくシャッターがあげられた。シャッターがあげられるところを初めて間近で見て、そのけたたましい音にあっけにとられる。これ、旧型で重いんだ、とナギ姉より幾らか年上だろう女の人は言った。
 状況について行けないままのオレの顔をぐっとのぞきこんで眉を寄せる。
「君、ちょっと顔青いなぁ。店の中で休んで行きなよ」
「え、や、…平気です」
「そ?じゃあこれ持って」
 ぽんぽん運ばれる会話について行けない。なんの店だろうとぼんやり視線をさまよわせていたオレの手のひらに、何か冷たいものが触れる。
「瓶…?」
「蜂蜜さ。うちの人、転地養蜂しててね。花を追いかけてどこまでも行っちゃう」
「…蜂蜜…?」
 戸惑っているあいだにてきぱきと店支度を続けるおねえさんがにっかりと笑みをうかべた。
「料理に混ぜてよし、飲み物にもよく合う、もちろんパンにつけても良い百花蜂蜜だよ。サービスだから遠慮なく持って帰ってよし。あ、雨が小降りになってきた。帰るなら今だね」
 パンに…つけても合う…?
 そうか、蜂蜜なら…っ。
「あっ、ありがとう!おねえさんっ」
「またのご来店、お待ちしてます」
 ちょっと気取って言うのが妙におかしい。つられて笑みをうかべてから、蜂蜜の入った小瓶を持ってオレは最後のパンのもとへと帰った。
 パンにはジャムを塗るものだと思っていたけれど、蜂蜜だって合う。そう気づくと居ても立ってもいられず、さっそくもらったばかりの蜂蜜をひとさじ、パンの上に塗りつけた。
「おいしいっ」
 信じられないぐらいおいしかった。
 パンには蜂蜜が合う。
 そして蜂蜜にはパンもなければ。

「ごちそうさまでした」

 仕事から帰ってきた父さんと一緒に残していた切れ端を食べる。
 そろって頬をゆるめ、パンと蜂蜜を楽しんだ。

「たまにはパンもいいな」
「うん」


 あれ以降、69円の食パンを食べる機会はなかったけれど、オレは今でもそのパンのことを思い出す。
 もちろん、あの店の蜂蜜が家の棚に常備され、欠かせないものになったことは言うまでもない。

拍手御礼09

   内容:拍手オリジナル
       父×子。両性具有風味。鬼畜エロです。花珠の別設定含む。


   


「ごめんなさい、ゆるしてください……、ひッ」
「わるい子だな、奏(そう)」
 男が握った細い鞭が剥き出しの背中に振り下ろされる。
 細く悲鳴を零して、奏は冷たい大理石の床の上に這いつくばった。


 肌を破かない絶妙な力加減で鞭を振るい、奏の背中を真っ赤に腫れ上がらせた男は、すすり泣く奏をやさしく宥めながら丁寧に薬を塗った。
「ごめ……ごめんなさい……」
「何を謝っているんだ?奏、何をしたと?」
 薬を塗りおえた手を拭い、震える体をベッドの上で抱き起こす。
 男の張りのある甘やかな声にびくりと熱をはらんだ背を凍えさせ、奏はからからに干上がった喉を震わせた。
「く、……薬、飲まなかった……」
「そうだ、奏。それはいけないことだ」
 痛みと恐怖で揺れる双眸を満足げに覗き込んだ男は、とめどなくあふれる涙を舌先に吸い取り、瞼や頬をついばむ。
 根気よく、ほっそりとした少年の体からこわばりがとれるまで、男は優しい動きで口づけをふらせた。
 髪を撫で、背に触れないようにまわした腕で肩を抱く。さきほどまでの残酷さは微塵もない。唇を重ねて丹念に口腔をなぶる男の舌におずおずと舌先を伸ばした奏に、男は笑みをうかべた。
 精悍な顔立ちに鍛え抜かれた張りのある体。切れ長の双眸と薄い唇から匂い立つような獰猛さ漂わせた男、深嶋井陣(みしまい じん)は腕の中にすっぽりおさまる体を愛おしげに抱き寄せ、花びらのように可憐な唇を潤すように何度も唇を重ね、小さく覗く皓い歯を丁寧に舌でなぞり、舌を絡めて吸った。
「ん…、ふ……」
 心地よさげに鼻から息をこぼし、自ら男の背に腕をまわす。
 よりいっそう抱き締める腕の力を込めた男は、耳もとに唇を移し、耳朶を甘噛みして、ゆっくりと舌先を舌へと落とした。
「奏」
「あ…、んん、…」
「奏。おまえは俺の子だ。だから分かるな?罰を与えるのはおまえが憎いからではない。おまえを思ってのことだ」
「………、はい……父様……」
 大きな瞳を潤ませたまま、こくんと頷く。
 そこにはわずかな怯えがのぞいていたが、従順な動きだった。男はよい子だ、と囁いてふたたび唇を軽くついばんでやる。
 奏は今年13になったばかりで、まだどこかしら稚い雰囲気を残していた。ほっそりとした手足にふっくらとやわらかな頬。折れそうに細い首筋には、淫らな紅い痕をつけていた。男が吸い付いた痕だ。
 鋭い双眸を細め、口もとの笑みを深くした男は、慈愛に満ちあふれた眼差しを少年にそそぐ。
 奏には男の視線を逃れ、抗う術は残されていなかった。


 本当は帰りたくない。
 屋敷に父が帰ってくる日。奏の足取りはいつも重くなる。
 屋敷からほど近いところにある軍の幼年学校に在籍している奏は、備え付けの寮には入らず、自宅から通っていた。
 幼年学校には貴族の子弟が多く通っており、だいたいの生徒が卒業後、上級士官学校に入る。奏は同級の子どもたちより線が細く、華奢で、熱を出すことも多かった。貴族の子弟向けのゆったりとした教育課程ですら体力が足りず、いつも苦労している。
 幸い学力の方では良い成績をおさめており、軍の中でも実際の戦場に出ることが少ない、研究科の方に行けば良いと言われていた。
 研究科は武器の開発や糧食の開発、医療技術の発展などに携わっている部門で、内勤が主だから、おそらく奏でもなんとかやっていけるだろう。
 奏は体力がないからといって、軍人ではない別の道に進むことは出来ない。
 深嶋井家が代々軍人を輩出してきた家系である、というだけでなく、奏の父、深嶋井陣が国軍の総司令だからだ。
 陣は国軍の総司令官という地位を足がかりにして、いずれは国防だけでない、国の中枢に携わっていくだろうと言われる大物貴族だった。国王の覚えもめでたく、彼の母は王家の血筋に連なるから、黙っていてもある程度の地位は転がり込んでくるという立場である。
 彼には3人子どもがいて、奏はその真ん中だった。
 長男はすでに国軍の中で働き、前途を嘱望された将校だ。
 ひとつ下の弟は優れた運動神経だけではなく、誰もが目を瞠る優秀な頭脳を持ったとても利発な子どもで、おどおどと言葉をつまらせることが多い奏の方が弟だと思われてしまうほどである。
 そのふたりの間に挟まれた奏はいつも人の顔色を伺いながら、息を殺すようにして日々を過ごしている。奏には秘密がある。どうしてもそれを知られるわけにはいかなかったから、どうしても慎重に、身をひそめて生きていかねばならなかった。

「奏。おまえがこっそり捨てた薬は何包だ?」
「………っ」
 鞭で打ち据えられただけで罰が済んだと思っていた。父の腕の中でうとうとと微睡みかけていた奏ははっと体を起こした。
 その動きで背中がぴりと痛んだが、それさえ分からなくなる怯えが全身を貫く。
 思わずそむけた顎を指先でつまみ、男は息子の顔を自分の方へと向けさせた。
「正直に言ってみなさい」
「……、さ、3包……」
 1度に1包ずつ飲む。日に決められた数があるわけではなく、専属の薬師が藍葉の体調をみながら回数を決めた。
 うろたえながらも正直に答えた奏の頬を撫で、陣はベッドの傍らにあるサイドテーブルに手を伸ばし、引き出しの中から白い薬包を取り出した。
 1回分の粉薬が入れられた包みが6つ繋がったものだ。
 無言で差し出されたそれを見つめ怯えた顔を晒しながらも、受け取らない限りゆるされることはないだろう。奏は意を決して手を伸ばし、半分の包みを切り取ろうとする。その手を陣の視線が薙ぎ払った。
「何をしている?」
「え……」
「誰が半分で良いと言った?全部飲みなさい」
「で、でも。飲まなかったのは……3回分……で…す…」
 弱々しく訴える奏を冷ややかな眼差しが捉える。
 怒りを含んだ視線にはぞっとするほどの威圧感があり、酷薄さが漂う。ごく一瞬のひと睨みは、奏を震え上がらせるに充分なものだった。
 陣は奏の手のひらに薬包を持たせ、サイドテーブルに用意された水差しからコップに水を注ぐ。
 コップいっぱいに満たされた透明な水を泣きそうな顔で見つめていた奏は、促されて、ゆっくりとひとつずつ白い包みの中身をコップの中に溶かし込んだ。
 手もとが狂ってこぼしたら、叱られる。それが分かっている奏の動きはひどく慎重になり、ひどいのろさだったが、陣は黙っていた。どうにか最後のひと包みまで入れ終えると、水割りをつくるための用意された細い棒を使って、丁寧にかき混ぜる。
 6包の薬を溶かし込んだ水は次第に透きとおり、やがてはどこにも白い粉が見えなくなる。
 そうなってからおもむろに差し出されたコップを前に、奏の顔は青ざめていた。
 受け取るために伸ばされた指先が震え、こわばる。それでも奏はそれを受け取り、ためらいを振り払うように一気に飲み干した。
 父を待たせるだけ、あとでひどい目に遭う。それが分かっているから、奏はそうするしかない。
 最後の一滴が喉を通っていく。舌先に苦みと痺れが残っていた。
 ふだんはこの後、頭がぼうっとして眠り込んでしまうことが多い。だが、1度に多くを飲めば、別の効果をもたらすことを奏は知っていた。
 そしてそれはほどなくして現れる。
 どくりと心臓が震え、体中に焔の雫を落としたような熱が広がっていく。
 その熱は下腹部に奇妙な疼きをもたらし、つい最近精通を迎えたばかりの幼い陰茎をささやかに固く張り詰めさせた。
 その下の窄まりは小さく喘ぎ、まるで何か待ち望むようにひくつく。
 変化はそこだけに留まらない。
 奏の下肢には秘密があった。陰茎と後肛の間。
 ふだんはうっすらと古傷のような痕を残すだけのそれが、みるみるまに口をひらいて、やわらかに綻び出す。
 シーツにそこが触れるのがいやで、わずかに腰をうかせた奏は足を取られて横倒しになり、大きく片足をひろげた形で押さえ込まれた。
「いっ、いや…っ」
「ひらいてきているな」
「さわらないで、…や、…ぁ…っ」
 ぐちゅ、と濡れた音が響き、紅く割れた箇所に指を埋められた奏は全身をわななかせ、抗ったが、鍛え抜かれた男の体がますますきつく奏を押さえ込んだ。
 そうしている間も薬によってもたされた熱は奏を蝕む。
 こらえきれずに息をあげ、熱っぽく瞳を潤ませた奏は、父の指の動きによって浅く悲鳴をこぼし、体の奥底からわきあがる快楽のうねりにすすり泣いた。
「たっぷり蜜をだして。ここまで濡れているぞ」
「……や、…ぁ、っ」
 切れ込みの柔らかさを確かめるように蠢いた指が呆気なく抜かれたのも束の間、姿を現したばかりの花裂をなぞり、そこからあふれた分泌物を絡めた指先が奥の窄まりへと触れた。とっさに力を込める奏のささやかな抗いなどものともせずに、つぷりと埋め込まれる。
 淫らな動きで抜き差しを繰り返し、襞を圧し広げるように蠢いた指は、奏にどうしようもない嫌悪感と悦びの両方をもたらす。
 奥へ奥へと侵入する指を恐れて腹に力をこめれば、甘く痺れるような快感が背筋を駆け抜ける。それで思わず力を抜けば、指を足され、内奥を犯す動きはますます烈しさを増した。
「ゆるして、…、ゆるして、父様……っ」
「そのように締め付けるな。指を持って行かれそうだぞ」
 涙に煙る視界のなかで、父が口もとにうかべた笑みが見える。
 奏は自由になる腕をよじらせ、シーツを掴んでわきおこる衝動を懸命に逃そうとした。
 固く張り詰めた陰茎はすっかり勃ち上がり、先端からつやつやとした雫をあふれさせている。
 指は3本に増やされ、内臓を圧し潰されるような不快感や苦しさは相当なものになっていた。
 指の腹や折り曲げた関節を使って、陣は丁寧に固く窄まった後肛を解していく。
 恥ずかしい水音が耳を灼き、熱をはらんだ吐息に甘さが混ざり出し、頬の火照りは涙を乾かしそうなほどだった。
 父に淫らなことをされている。
 そしてそれに感じている。
 羞恥と、絶望と、それを上回るような体の歓びが奏の頭の中をぐちゃぐちゃにして、焦りと動揺をもたらす。
 半ば恐慌状態の中、埋め込まれた指がずっと避けていた固いしこりをひっかき、抉って、快感のフタが外されたみたいに全身がわななく。奏は鼻から抜けるような甘い吐息をこぼした。
「そこ、…や、…だめ……っ」
 とっさに力を込めて指を追い出そうとした奏の反応は、逆により指を感じる羽目になり、奏を追い込んだ。
「あ…、ぃぁ…っ」
「1度達け」
 シーツをつかんだ握り込んだつよさで白く青ざめ、それと反比例するような目尻の朱色が奏が感じている快感のつよさを物語る。
 こらえようも、逃れようもなく、やがて奏の先端からぱたぱた精がこぼれた。

「もう…、もう…、ゆるして……お願い……」
「どうした、奥孔だけで達したのがそんなに辛かったのか?」
 どこでが問題なのではない。達かされたそのこと自体が辛かった。
 しかし涙に喉をつまらせた奏にはそれを伝える術がなく、腹にかかった白い飛沫を拭われている間すすり泣くことしかできないでいた。
「奏。何がいやだ?花珠を孕むのが恐いのか?」
「それ、それも…、……」
「奏は俺の花珠を孕みたくないと?」
「ちが、違う…、でも、明日も学校が……」
 父の眼差しに青ざめながらも、奏は1度達してもおさまることがない火照りに細かく肌を震わせていた。
 陣は奏の体を引き寄せ、後ろから抱きかかえて小さく尖った胸の粒に手のひらを這わせた。
 声を震わせながらもどうにか口をひらこうとする奏に、陣の指がきゅぅと、粒をつねる。それだけで奏は言葉を奪われ、こねられながら爪を立てられると、過敏になった肌がいつもよりもつよい痛みを発した。
「と、父…、様……」
「それでは、孕みたくないと言っているようなものだ」
「い、ぁあ…ッ」
 返答を間違えた、と感じたが、弁解はゆるされなかった。
 首筋に歯を立てられ、引きちぎらんばかりに小さな粒を捻られる。
 あまりの衝撃にがたがたと震えた奏の瞳から大粒の涙があふれて落ちた。
 陣は痛々しく腫れた紅い粒をゆっくりこねまわし、奏の体をまわして正面を向かせ、膝の上に抱きかかえる。
「痛かったか?ン?」
 薬によってふだんより敏感になった奏にとって、薄く血がにじみ、腫れ上がるほどの責めなど酷い拷問でしかない。
 鞭で傷ついた痛みさえも吹き飛んだ様子で青ざめ震える奏に、陣はやわらかな笑みをうかべてみせた。
「大丈夫だ。ちゃんと乳首は残っている。ねじきってなどいないよ。血もほんの少ししか出ていない」
 傷の浅さを分からせるように舌でくるんで、そっと舐めなぞる。
 あやすように膝を揺らし、奏の顔に少しずつ血の色が戻るのを待って、陣は猛り高ぶった自身をそっと奏の腹に押し付けた。
 その硬さと熱に、奏の目がぎょっと見開かれる。
「と、父様…っ」
「奥孔はいやだと言うなら、花裂を使ってみようか?奏?そうすれば花珠は孕まずに済むかもしれんぞ」
「だ、だめ…っ」
 慌てて奏はかぶりを振った。
 今もぬめりを滴らせ、浅く唇を綻ばせた花裂で男を受け入れるなど到底考えることが出来ない。
 奏は花人だ。後肛に精を注がれることで花珠と呼ばれる透きとおった丸い珠を孕み、それを花裂から生み落とす。
 王侯貴族の中でも一握りの人々の中で受け継がれてきたのが花人という存在で、彼らが孕む珠は怪我を治す妙薬とも、あるいは若さを保つための秘薬にもなると言われている。
 誰もが花人をつくれるわけではなく、誰もがなれるわけでもない。
 特別な薬効をもった花からつくった薬を定期的に摂取するだけではダメだ。花師と呼ばれる特殊な技能を持った人々から丁寧な管理を受けてやっと、花人は誕生する。
 花人の証でもある花珠を通すための花裂は、ふだんはその姿を隠していて、指で触れても分からないぐらいぴったりと口を閉ざしていた。
 花珠を孕んだ時にその姿をあらわすものだが、今回のような薬の飲み方をしたり、あるいは体調によってはあらわれる。そうして姿を見せた花裂に直接精を注ぎ込むと、稀にここでも花珠ができた。
 だがそれは通常のものとは違って歪だったり、あるいは花人の気が触れるほどの快楽をもたらしたりする。
 通常の花珠さえ苦痛を覚えている奏が、そこので交接を受け入れるはずがない。
 それを十分承知した上での陣の問いかけは、もはや罠とも呼べない定められた仕掛けだった。
「なら、どうする?奏」
「こ…、…ここに、して……」
「ここ?」
 意地悪く尋ね返す相手に頬を強張らせながら、奏は差し出された手を指し示す場所に導かなくてはいけなくなる。
「ここだな」
「ん…、そこに、そこに…して…」
 こくりと頷く奏の双眸から、つう、とひと筋涙が伝う。
 その雫を愛おしむように舐めとり、男は己の高ぶりを指し示された場所にあてがった。
 凶器のようなそれが容赦ない勢いで後肛に突き立てられる。奏は全身を灼きつくすようにあふれる歓びに身悶え、夢中でそれを受け入れた。

拍手御礼08

   内容:air seed 番外
       ラトルリアスの里帰り。


   


  真っ白な雪がどこまでも続いている。
 薄灰の厚い雲の切れ間から、明るい日差しが降り注いで白色が目に痛い。
 積もった雪の上に枝ばかりになった木の天辺が、ぽつりぽつりと顔をのぞかせてどれだけ雪が深いんだろうと考える。
 足を踏み出したら体全部が沈んでしまうだろうか。
 上も下も横もすべて真っ白に包まれて、目も開けられないくらい眩しいだろうか。
 白い大地は冷たさや寒さで満ちているはずなのに、恋しくて愛しくて胸がぎゅっと締め付けられた。

「ユマリエ。わたしと一緒に来る?」

 そうラトルリアスが言ったのは、フォーレペルゲの一部で雪が降り出した頃だった。
 僕は1度もラトの国に行ったことがない。
 それには様々な事情があるけれど、やはり1度ぐらいは足を運んでみたい。ここのところそういう気持ちになっていたのを見透かしたみたいなラトの誘いに、僕は一、二もなく頷いた。
 兄さんたちに言うと騒ぎになるといけないし、ちょっと覗きに行ってすぐ帰るだけならバレないだろう。
 そう思って兄さんたちには黙っていてとお願いし、母さまに話した。
 母さまは特別製の道をつくってくれて、ふわふわとした肌触りが心地よいコートも用意してくれた。トルットラの白い綿毛でつくったとても暖かなコートだ。
「お気を付けて」
 シュシュに見送られて道を通り抜ける。
 するとそこは一面の雪野原だった。
「すごいっ、すごいよ、ラトっ」
「ユマリエ、その雪は固まっていませんから……、あ」
 前もって注意を受けていたけれど、しょっぱなから雪の中に埋まってしまった。
 ラトは笑いながら引き上げてくれて、髪やら服やらについた雪を丁寧に払ってくれる。
「だから言ったのに」
「すごいね、ラト。これ全部ラトの国の人が降らしているの?」
「ユマリエ。わたしのあれは特異体質のようなもの。この土地に雪が降るのは、自然の摂理です」
「…へえ?」
 良く分からないけど、ラトがつくっている訳じゃないらしい。
 でもきっとこの国で生まれ育ったから、ラトにはああいう力があるんだろうな、と僕は納得した。
 この国の雪は、ラトが降らせる雪とすごく似ている。
「王子殿下。小后殿下。お待ち申しあげておりました」
 雪に埋め尽くされた道なき道を進むと、1軒の家が見えてくる。
 その扉の前に立っていたおじいさんが、ラトと僕を見て丁寧に頭を下げる。
「彼はポルー。この地の番人です」
 森の生きものでつくった茶色の服にはずいぶんと年季が感じられ、丁寧に繕ったあとが分かる。
 ひげに囲まれた顔の表情はよく見て取れなかったけれど、薄茶色の瞳にはどこかあたたかな色が覗いていた。
 彼はラトが幼い頃、この場所に遊びに来ていたときに知り合った人で、この辺り一帯の番人をしているらしい。番人とは何をしているのだろう、と思って尋ねると、おじいさんの稲穂みたいな眉が驚いたように上下した。
「小后殿下の国には番人がおらんのじゃな」
「番人は国の境目にいて、不法に立ち入ってくる人がないよう見張っている人のことですよ」
「…ふうん」
 フォーレペルゲには番人がいない。そもそも国の境目がない。
 大きな国はいろいろあるんだな、とだけ思った。
 ポルーさんは、雪の中を来た僕たちのために温かいスープを料理してくれていた。部屋の中央に囲炉裏があって、天井から伸ばした釣り針状のものに鍋がかけられるようになっているのだ。
 豆を葉乳で煮込んだスープは思ったよりもしっかり味が付いていて、美味しかった。
 豆のスープはあまり好きじゃないけど、これなら何杯でも食べられそうだ。
「小后殿下」
「はい。…あの、でも、ユマリエでいいです。正式にはそうじゃないですし…」
「そう呼ばせておくれ。王子殿下がお選びになった方なのだから、誰が何といおうと、あなたさまは小后殿下であられる」
 ラトは薪が足りないから、と言って、ひとり外へ出て行ったあとだ。
 あのラトが薪割りをするんだろうかと思って付いていこうしたけれど、やんわりとポルーさんに引き留められた。ラトの薪割りはやっぱりなんというか結構危険で、そばにいると破片が飛んでくる恐れがあるらしい。
 僕を見るポルーさんの目はどこまでも穏やかで、やさしい。
 余所の国の、それも素性もはっきりしない僕を自分の国の王子さまがそう言って連れてきたら、不信感だとか、嫌悪感だとか、そういうものを抱くんじゃないかと思ったけれど、彼は違うみたいだ。
 それが嬉しくて、でも気恥ずかしくもあった。
 ラトがそう呼んだら違うと言ってやるけど、ラトの国の人にそう言って貰えるのはありがたかった。ラトのそばにいてもいい、って言って貰えているみたいな気がする。
「僕はこことはずっと違うところで…生まれ育って、今日はこんなふうに来られたけれど、すぐに帰らないといけなくて…」
「…………」
「ちゃんとしたラトの小后にはなれないけど、でも…、ラトと一緒にいたくて…」
「一緒にいたいと思って下さるだけで良い。それだけで、あの方はあんなにも幸せそうだ」
 はじめてだ。
 そんなふうに言われたことも、そんなふうにラトを思いやる人と出会ったことも。
 ここにはラトを知っている人がいて、ラトを大切に思う人がいるのだ。当たり前だ。だってここはラトの生まれ育った国の中なんだから。
 けれど胸がじんわりとあたたかくなって、ほっとして、涙腺がゆるみそうになる。
「ユマ。ちょっとだけ空を見て貰えますか?」
「う、うん。どうしたの」
 扉から顔を覗かせたラトに応えて外に出る。
 ちょっと変な顔になったかもしれないけど、僕の顔がそんなふうになるなんていつもだから、きっと大丈夫だ。気づかれていないと思ったけれど、ラトの口もとにちょっとだけ笑みがうかんでいる気もする。
 外に出て空を見上げると、わずかに銀色がかった厚い雲が見えた。なんだろう、と思ったあとに気づく。
「雪幻花の群れだ…っ」
 降り出したばかりの雪に混ざって、仄かな光を放つ薄青の花びらが舞いはじめる。
 それは地上に降り積もるまでに雪と重なり合い、融けて、ただの雪に変わっていくけれど、ごく稀に小さな花の形を残したまま雪とひとつになる。
「めずらしい」
 外に出てきたポルーさんも空を見上げて、青く輝く花びらと雪を見つめていた。
「雪幻花が降った場所には春になると、ごく稀に小さな青い花が咲いていて、それを見つけたら願い事が叶うって言われてるんです」
 フォーレペルゲの言い伝えではそうなっている。
「この国もですよ」
 ラトが教えてくれる。知らなかった。なら尚更嬉しい。
「本当?じゃあ、見つかるといいな。ポルーさん、きっとあの辺りとか良いんじゃないかと思います。僕、こういう勘ってけっこうあたるんです」
 家のそばで降るなんて、ポルーさんはとても運がいい。
 大抵雪幻花は人のいるところでは降らないから、たまたま行き合ったとしても春に咲く花を見つけるのは難しいのだ。
 でもそれを言うと、ポルーさんはなぜかゆるく首を横にふった。
「ありがとう。だが、あの花はあんまりにも小さい。きっとわしでは見逃してしまうだろう。小后殿下。申し訳ないが、春になったら、見つけにきてくれないかね」
「………っ」
 驚いてポルーさんの顔をまじまじと見てしまった。
「で、でも…」
「ユマは目も良いから、きっと見つけられますよ」
「じゃ、じゃあ…、願い事はポルーさんの担当だからね。僕はその、見つけるだけ。…だから、また、その…来ても良いですか?」


 フォーレペルゲにも雪は降る。
 窓の中からうっすらと雪がかぶった外を眺めてほほえむと、後ろからやってきた母さまが肩掛けをかけてくれた。
「今年の雪は少し多そうですね」
「うん」
 雪に覆われていく外の景色は、あの場所の景色と少しずつ似ていく気がする。
 それを眺めるのがとても嬉しかった。


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   内容:月吹く風と紅の王 番外
       ルシエが見つけた思い出。


   

 古い本を調べていると、思わぬものに行き当たることがある。
「ルシエさま?いかがなされましたか」
「……ううん、なんでもない」
 開いていた本を手もとの本に重ねて、ルシエは立ち上がった。
「お持ちします」
「……うん」

 花青宮の図書館には豊富な蔵書があるが、その殆どはルシエには興味のないものばかりである。
 それでも退屈しのぎにだいぶ目を通していたので、ルシエは本好きだと思われていた。間違いではないが、どれもこれも楽しく読んだわけではない。幸いにも司書官たちは読書の結果を求めてきたりしないし、その辺は何が好きでそうではないのか、分かっている節がある。
 物怖じしないルシエは司書官らと他愛ない話もするし、わりと仲が良かった。たまたまの話の流れで、閉架の整理をするので、処分してほしくない本があれば持っていって良い、というお墨付きを貰えたルシエは、さっそく本を見に行っていたのだった。
「では、こちらに置いておきますね」
「ありがとう」
 一緒に本を運ぶのを手伝ってくれた司書官に礼を言って、ルシエはふっと周りを見渡した。
「………うん」
 周りに誰もいないことを見て取ってから、積み重ねられた本を崩し、最後に手にしていた本を取り出す。
 なんでもない顔をして天蓋から薄布が下がった寝台に上がり、布越しの淡い光の中で、そっと手にしていた本を見た。
 くすんだ灰色の本は飾り気もなく、日に灼けているうえ、全面に使った粗めの布はすり切れて毛羽立っている。けれどこれまでずっと大切に扱われていたことが伺えた。角の綻びには補修した痕があるし、糊を付けなおしたところもある。
「……………」
 本の中身も気になったが、それよりも確かめたいことがあって、ルシエは古くなった紙を傷めないよう気をつけて本をひらいた。
「ああ、…」
 小さく息をこぼす。ルシエが見つけた時のまま本に挟まれていた写し絵は、良く見ると斜めに破れていた。
 この本を書庫でひらいた時に、どこかへ切れ端を落としてしまったのかも知れない。ページをすべてめくってみたが残りを見つけることができず、ルシエはうなだれながら手もとに残った写し絵に目を落とした。
「…やっぱり、似てる……」
 小さな子どもを抱き上げて微笑む女性は、腰元がふくらんだ少し古い形のドレスを着ている。豊かな髪を結い上げて、その大部分を背に流していた。
 色は褪せてしまっていて、どんな色の髪や瞳をしているのかは分からない。けれどきりっとした口もとや、すっ、と弧を描く眉の形など、驚くほどエルシェリタと似ていた。
 抱き上げている子どもの顔は残念ながら破れていて、確かめることは出来ない。けれどそうだという確信がルシエにあった。
「王后ユィシアン。…エルシェリタのお母さん」
 精霊王オルディーアの唯一の正后である。彼には多くの后がいるが、王后を名乗れるのは彼女だけであり、彼女亡き後、空位のままになっている席である。
 王宮には彼女の肖像画が飾ってあるが、ルシエは見に行ったことはないし、広く一般にそういったものが出回ることはないから、王族の顔を知らない者も多い。ルシエもそのひとりだった。
 だった、というのは、王本人から生前の王后について少なからず聞かされているからだ。王のことは好きではない。むしろ恐い。いつもルシエにひどいことをするし、たくさんの后がいるのに、息子の人形に手を出すなど理解できない。
 それでも、王が見せる穏やか顔まで嫌っているわけではなかった。エルシェリタがいなくなった後、寝台の上で目を覚ましたルシエに王は子守唄代わりだと言って聞かせることがある。それはエルシェリタの幼かった頃のことや、彼の母のこと。
 王后ユィシアンは、大貴族の娘である。精霊王の后になるために生まれたような娘だったと、彼女を知る者は口を揃えて言う。けれどオルディーア王は変わった娘だったと、ルシエに言った。
「"あの女は人形になった日の寝所で、余の睦言をそれが義務か何かのように大人しく聞いていた"」
 従順な女性だったといえば、それではない。
 ひとしきり聞いた後は、あっさりと寝台から出て別れの挨拶をきっちり述べていたのだという。はじめて主人の寝所に上がった高揚も恥じらいもない。形式じみた態度だった。
「"なんと冷たい女だと思ったよ。壱の人形には彼女を据えることが決まっていたし、変えるつもりはなかったが、幾ら甘い言葉を囁いても眉ひとつ動かさない"」
 つまらない、と王は思った。その時はまだ王ではなく、王子のひとりであったが、いずれ壱の人形が自らの王后になることは分かっていた。
 王の義務として寝所に上げ、優しい言葉を囁きかけていたが、そんなふうに味気ない振る舞いをするのは彼女だけで、大抵はすぐに整った王の顔立ちに見惚れ、低く甘やかな声にのぼせてくれる。
 王はそれに満足していたわけではなかったが、そういうものだと思っていた。
「"余が嫌いなのだろうと思ったよ。けれどそれは間違いだった"」
 正しくは、"大嫌い"だった。
「"きっかけは何だったか忘れたが、珍しくあれから触れても良いかと言うから許すと言ったら、こぶしで殴られた。それで、止めに入る花青官とでもみあってな。ああ…、余の方が"」
 花青官立ちによってすぐに取り押さえられたが、彼女は抗いもしなかった。
 殴られた頬は正直痛かったが、彼女が感情をあらわにしたところをはじめて見た王は驚いて、花青官を下がらせて話を聞こうとした。それでややもめたのである。王を傷つける者を傍に置けない花青官と、何とかしてそれを追い払おうとする王とでは話が合わない。
 それでもどうにか花青官をひとり置くことで妥協した王は、はじめて彼女に尋ねた。
「"余が嫌いか?"」
「"いいえ。大嫌いでございます"」
 王はめげなかった。食い下がった。
「"言ってみよ。どこが嫌いだ"」
 全てと言われるかも知れない、王はそう思った。
 甘く優しい言葉は幾らでも吐いたが、そこに実が籠もっていないと詰られればそれまでだ。
「"では、言わせていただきます"」
 そうして彼女が語ったのは、王子宮にある彼の花園についてのことだった。
 そこには彼の名の下でつくられた庭がある。
「"庭の管理がなっていないと怒られたのだよ。余は。まったく信じられないだろう?より多くの花が咲いていれば良いと思って華やかにしていたものを、四季にそえと、花と花との相性を考えろと、そこは余の庭ではあったが、庭師任せにしていなかったことを褒められこそしても、どうして詰られると思おう"」
 王子宮は内部で分かれており、それぞれの王子が独立した生活を営めるようになっている。だからそこは彼の庭で間違いはなかったのだが、自分のものだと確かに思ったこともない場所でもあった。
 しかし、彼女の意見に従って花を替えてみると、驚くほどしっくりくる。人受けも良く、花木はより健やかになったようだった。
 王后ユィシアンは、相手が誰であっても物怖じすることなくはっきり意見を言う女性だったのだと、ルシエは思う。
 そして王はそれを好もしく思ったのに違いない。ルシエが彼女の息子の人形だから、というだけでなく、王は彼女のことを語って聞かせるのが好きなようだった。
 それでもオルディーア王は王后のことを最も愛していたとは言わない。少なくともルシエの前でそれを言ったことはなかった。彼には彼女の他に后がおり、ひとりのみを選び取ることは王ゆえにしない。寝所においては誰であっても平等に扱うことを固く守ってきた王である。
「……すごく、幸せそう」
 そう見えるのはルシエの思い込みかも知れない。
 少なくともあの王があれほど気に入っていた女性なら、そうに違いないと思う勝手な想像。
 けれど、彼女の顔は見慣れたものととても似ているから、ルシエには何となく分かるのだ。
 写し絵の中ににじむ心の底からの微笑み。喜びと愛おしさ。
 腕に抱えた幼子と、ユィシアンの双眸の先にあるものと。そのふたつにユィシアンの微笑みは向けられている。

「ルシエ?」
「ふ、わ、わ、……ああー…っ」
 儚い音をたてて、写し絵がふたつに裂ける。
 声の主から隠そうと慌てた拍子に無残に裂けてしまったそれを、ルシエは呆然と見つめた。
「どうしました?そんなに泣きそうな顔をして」
「………ごめん、…ごめんなさい、エルシェリタ。これ……」
 写し絵にあった美しい顔が見る影もなく千切られてしまっている。
 もともと破れていたとはいえ、勝手に持ってきてこっそり見ていた罪悪感と、目の前の人の母親の写し絵を台無しにした後悔で、ルシエの顔は紙のように白く青ざめていた。
 怒るなり眉をひそめるなりすると思われたエルシェリタは、差し出された写し絵と人形の傍らにある灰色の本を見て、やわらかな微笑みをうかべる。
「懐かしいですね。これ、私が破いたんですよ」
「………僕。勝手に……え?」
「王にいただいたものですが、ある日弟に見つかって、取り合いになりましてね。力加減を誤って、斜めに破れてしまって。私も幼かったものですから」
 自分よりも弟の方があまりに泣くものだから、急いで近くにあった本に切れ端を隠したのだと、エルシェリタは話す。それ以来、すっかり忘れていたとも。
「新しい写し絵を王からいただきましたし、ルシエがそのように気にすることはありませんよ」
「……でも、エルシェリタ。勝手に見ていてごめんなさい、それに破いてしまって」
「ありがとう。私の大切なものだと思ったのですね」
 切れ端を握りしめた手のひらごと手に包み、エルシェリタはルシエの目もとに口づけを落とす。
「これはもういいのです。私はルシエをひとりにはしません。だからルシエも、私を置いて行かないでください。そのことの方が大切ですよ」
 人の死を予測することは出来ないし、そんなことは分からない。
 そう言おうとした唇を言葉ごと奪われて、抗おうとした手からひらりと写し絵の切れ端が落ちる。
 あ、とそれを追いかけようとしたルシエをエルシェリタはやんわりと押し止め、その身体を寝台の上に倒した。
「約束できますね」
「………、わ、分かった」
 はっきりとした約束ではなかったが、それで満足したようだ。
 エルシェリタの微笑みを、ルシエはしばらくの間ぼんやりと見つめた。
 それは、写し絵の中の微笑みと良く似ている。
 腕の中に包んだルシエに向けるエルシェリタの微笑みと、それは良く似ていた。


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   内容:andante -唄う花- 番外
      蓮父と秘書の攻防。


   


「社長がいません!」

 もたらされた報告に秘書室の面々は全員、動きを止めた。
 まるで走馬燈のように罵りの言葉が胸を過ぎりながら、穏やかな面持ちで手にしていた書類を片付ける。
 いついかなる時も、仕事は迅速かつ丁寧に。
 通常の数倍で手にしていた仕事を片付けた彼らは、前もって決めておいた配置につき、パソコンの画面を切り替えた。
「作戦コード、SSS、開始します」
 社長を捜して仕事をさせる、通称スリーエスと呼ばれるチームがそこにあった。


 ビルの最上階に社長室があり、隣接する形で秘書室がある。
 秘書室を通らなければ誰も出入りできない。…はずだった。
「いったいどうやって…」
 日常業務においては、優しい物腰と切れのある頭脳で信頼の篤い秘書たちも、この難題にはすぐに答えが出せない。
 はめ殺しの窓からは良く晴れた空が一望でき、いっそ清々しいほどである。
 この辺りのビルと比べてもかなり高く、まともに考えて、窓から抜け出すなんてことは有り得なかった。
 だが窓を使わず、秘書室も通らず、脱出を果たした男がいるのだから、何らかの方法があって然るべきである。
「それは後で追求するにせよ、まずは見つけ出さなければなりません」
「新しく忍ばせていた発信器は?」
「……ここにありました」
 秘書のひとりが社長室のゴミ箱から拾い上げた小さな発信器は、彼ら秘書の目にほくそ笑む社長の姿を思い起こさせる。
 社長秘書には3人の代表秘書がいる。第1、第2と割り振ることを面倒がった社長によって、筆頭秘書が3人選ばれ、外出時などは必ずそのうちのひとりを伴うことになっていた。
 だが、それがきちんと実行されたことはあまりない。なぜならその社長が勝手に出歩いてくれるからである。
 難しい顔をうかべた代表秘書の後ろで、少しのんきを顔をした他の秘書たちは、新しく雇われた者たちであり、前社長には仕えていない。ただ彼らは現社長のことに関しては良く知っていた。
「社長は変わりませんねえ」
「ほんとにちっとも」
 小さい会社だったものの、男はその時から社長だった。ここにいる者たち全てが、前の会社から付いてきた者たちで、中には学生時代からの友人、昔々に近所に住んでいた隣人、などもいる。
「ここは大きな会社だから、抜け出さなくなるかと思ったんだが」
「あの人は昔からのガキ大将で、人の言うことなんて聞かないんですから」
「防犯カメラの映像、出たわ。10分前よ」
 警護室から引っぱった映像に社長が映っているのを見つけたひとりが、全員に見えるように天井から下げたモニタにそれを映し出す。
「掃除のおばちゃんとお茶か?」
「…お茶だな」
「お茶ね」
 3人の代表秘書は顔を見合わせ、湯飲み茶碗を持って大きく口をあけ、満面の笑みをうかべた社長の姿を熱心に見つめる。
 社長とは高校時代、同じ弓道部に所属していた香野(こうの)は眉間にシワを寄せ、いかつい顔に考え込むような色を乗せた。清掃控え室での光景、それはありふれた団らんをしているように見えるが、香野にはどうもしっくり来ない。
「鷺沢、どう思う?」
 水を向けられた鷺沢(さぎさわ)は端正な面差しの青年である。
 優しい人、と彼を見た十人のうち、少なくとも9人は思いそうな穏やかな目もとに、ふんわりとした笑みがよく似合う口もと。社長が大学時代、ひとり暮らしをしていた時の隣人である。
「解せないな」
 鷺沢もまた眉をひそめ、薄い唇に指先をあてた。
 映像に映る姿は秘書室に居た時と同じスーツ姿である。
 社長が他の従業員に声をかけることなどいつものことだが、それは大抵休み時間にありふれたスーツ姿でまざりこんだり、あるいは、まるで通いの営業のような他人顔でのこと。
 社長らしい姿で出れば威厳もあり、理知的な表情に見惚れられることも多いが、ちょっと雰囲気を変えただけで、殆どが自社の社長を見分けられなくなるぐらいの姿になる。むろんわざとそうしているのだ。社長業は堅苦しくて、たまには息抜きしたいというのが本人の言い分である。
「島江、拡大できるか?社長の口もとだが」
「どこからどこまで?」
「最初から頼む」
 手早くキーを叩いて鷺沢に応えた島江(しまえ)は、凛とした美女である。
 さして大柄でもない島江は、恐らくここにいる秘書の中で最も強い。もとは要人警護をしていた彼女は、蓮の母について来た女性だった。
 映像を処理し、社長の口もとだけを拡大して表示する。
「今日も良く晴れていますね。このお茶、どこのですか?そうなんだ、おいしいんで息子に教えてやろうと。そうです、息子がいてね」
 読唇術を駆使し、鷺沢が社長の台詞だけを読み上げる。
「え。そうはみえない?嬉しいなあ。うんうん。じゃ、そろそろ行きます。また乗せてください」
「…そういえば、社長室に清掃が入ったわね」
「30分ぐらい前だな。大ぶりの清掃ワゴン付きで中へ」
 大の大人でもすっぽり収まれる形のワゴンの中に入り込み、まんまと外に出たのだろう。防犯カメラを確認すると、清掃員の服を借りて歩く姿が確認できた。
「まだ社内にいると思うか?」
「思わないな」
 彼らの会話に従い、新しい画面を再起動させる。
 社内捜索用から社外捜索用へ。
 秘書室には社長捜索用ツールがみっしり用意されていた。

「社長。秘書室から再三の応答要求が来ています」
「社長はよせ」
 清掃服を脱ぎ、ありふれたスーツ姿に着替えた男が嫌そうな顔になるのを、第三警護隊隊長はいつもと変わらない無表情で見つめた。
 彼の務めはこの男を守ることである。誰かにおもねることではない。
 よって、逃げ出す男を止める義務も、それを隠す必要もなかったが、行き先をこちらから伝えるのは護衛対象を危険に晒す可能性があるため、彼らは黙秘する。護衛対象がふらふら出歩くなら、それについて行くのみ。
「社長は社長です。第五隊に連絡を取りますか?」
「ああ」
 彼らは逃走を手伝おうと思っているわけではない。だがその安全を守るために結果的に補助にまわることもある。
 社長を回収、運搬中のボックスカーの中で、第三警護隊隊長は隊長同士が連絡を取るための回線に繋ぎ、他の世儀家主要人物についた警護隊長を呼び出す。第三から第五へ、繋ぎ慣れている彼の作業に戸惑いはない。
「本日の蓮様について、3分語れ」
「"また3分ですか。全く足りないんですが"」
「我々は忙しい」
「"分かりましたよ。本日の蓮様はですね"」
 己の警護対象についてのみ、語り出したら止まらない第五警護隊隊長はきっちり3分で本日いかに感動する出来事があったかを述べた。その端々にきちんと必要な情報も混ぜているのだから、相当な高等技術である。
 回線を切ると、沈黙が降りる。ただの報告を聞いただけなのに、ひどく疲れた顔になった第3警護隊長を、男は少し慰めるような顔で見やった。
「今日も元気だな、彼らは」
「…お恥ずかしい限りです」
「ああ、そういえば、もと君の部下だったか」
 そこに警護対象の父親がいることを知ってか知らずか、普段より熱の籠もった報告を受けた第三警護隊隊長はしかめ面をうかべる。
 その存在を知られてからも、下手なプレッシャーを与えたくない一心で再び隠密行動に徹している第五警護隊は彼らと同じ要人警護のプロだが、警護対象に関することになると、少々気合いが入りすぎるきらいがあった。
「悪い奴ではなないんですが」
「助かってるよ。俺はダメな父親だからな」
「社長、人は誰しも、得手不得手があるものです。そのようなことを言っては、蓮様だけでなく、あなたの部下たちも悲しみますよ」
「お前も?」
「……社長、おふざけは程々になさってください」
 社長とともに捜索の手から逃げ延び続ける第三警護隊に対し、お前たちも同罪だと思っている人々がいるとしても、彼らは全く気にしない。
 しかめつらで黙々と動く彼らは、結局のところ第五警護隊とあまり変わらない。彼らの根底にあるのは、警護対象のことだけである。

「第3隊、応答しません」
「ああそうでしょうとも、期待などしていませんよ。第五警護隊に連絡は入りましたか?」
「あ、今入りました」
「発信元を探って」
「はいっ」
 玄人はだしの逆探知技術は彼らが彼らの社長を見つけ出すためだけに学び、考え出したものである。
 正直、情報の共有をすればいいだけなのでは、とか、法律は…とか言う話は、ここでは関係ない。大切なのは糸が切れた凧の回収なのである。
「でました」
「島江たちにデータを送るんだ。香野、聞こえたか?」
「"ああ"」
 社屋を出た島江にデータを送らせ、通話回線を開いたままにしておいた香野にインカムで話しかける。島江は逃走社長を推測をもとに追いかけ、香野は推測をもとに特定のポイントでの待ち伏せをしていた。
「向こうもバカじゃない。偽データを紛れ込ませられる可能性もある」
「"まったくな。だが"」
「そうだ。必ず学院周辺に1度は寄る。そこを叩け」
「"了解"」
 これは情報戦だ。
 様々な情報を得て、社長の行動を類推し、先手を打たねばならない。
 そして秘書たちには守らなければならない時間制限がある。
「次の会議までには必ず連れ戻すんだ」
 そう、これがあった。

「いつも重要な用までには戻っているだろ?」
 悪びれたところがない社長を代表秘書たちは冷ややかな目で見やる。
「ああ、いつも直前にな」
「そう。まったく心臓に悪いことに」
「わたくしどもとの打ち合わせも必要だとは思いません?」
「いやあ、ぜんぜん。みんな優秀だから。信頼しているよ」
 無事会議前に社長を発見、回収した秘書室の面々は晴れがましい笑顔で彼らを見送っていた。
 左右と後ろを固めて秘書室を出て歩きながら、代表秘書である彼らは社長に目を通して欲しい書類を次々と受け渡す。目を通すのを待っていられないので、傍らから別件の内容を報告しつつ、決済が必要な書類に判を捺させ、会議室に突き進んでいた。
 社長が紡ぐ甘やかな台詞に、彼らが惑わされることはない。
「そりゃどうも。次これ見ろ」
「ありがたいお言葉涙が出ます。次はこれです」
「社長、次はこれですわ」
 三者三様に微笑みながら、毅然と処理を促す。
 その人を思う気持ちは誰にも負けない。
 けれどそれとこれとは別だった。
 秘書の仕事は社長が仕事をしてこそである。甘い言葉に酔いしれるのは後でいい。
 それにそんな台詞がなくても、彼らには彼らの生きがいがあった。


「社長がまたいません!」
「そうですか。では、新しく入れた例のものを使いましょう」

 SEGIグループ社長秘書室。
 本日も逃げる社長、追いかける秘書の戦いがはじまる。


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   内容:andante -唄う花- 番外
      腐れ縁のふたり。15禁。


   

 なんでこいつが。
 俺はいつも、その呟きからはじまる。


「いいか、恭吾。男女交際には節度を持て。男男交際もだ」
「征一郎って古いよなあ、そのへん。旧時代?」
 人のベッドの上で雑誌をめくりながら、鼻歌交じりで猫を片手でつついている男には反省の色はない。俺は全身の血に広がる過剰な熱量を逃すため、両手でシーツの端を掴んだ。
「うぎゃっ」
 シーツを引き抜くと面白いぐらいごろごろと男が転がる。
 右手に雑誌、左手に猫を抱えて床に顔から落ちた男は、それでも両手のものを手放さない。
「ふん」
 運動神経は人並み以上に良いのだから受け身を取るとか、逃れるとか出来そうなものだが、口ではぶつぶつ言う癖に無抵抗なんだよな、こいつは。
「にーあにあーにあ」
「来い、真鈴」
 飼い猫には悪いことをした。
 ふわふわの毛並みを持つ白猫真鈴は、俺が腕を出すと甘えた声を出しながら肩に飛び移ってくる。恭吾につつかれても知らん振りをしていたが、さすがにいきなり中空に持ち上げられて驚いたらしい。シーツを引き抜いたぐらいなら、ひょいと飛び上がって難を逃れるぐらいの機転の良さを持つものの、恭吾の素早い動きには対応できなかったのだろう。
「ああ、真鈴ちゃん…」
 名残惜しげな声を出した男を見て、俺は小さくため息を吐く。
 さっさと床から起き上がれ。みっともない。まあ、俺が落としたのだが。
 隣人で幼馴染み。親同士が仲が良くて、子どもの頃俺たちが使っていた塀の抜け穴にはご丁寧に表札まで付いているぐらいのばかばかしいぐらい親しい間柄である。
 この男は子どもの頃からたらしだった。
 忘れもしない。あれは幼稚園の遠足の日。
 もも組のくるみちゃんとりんご組のはやしさん。
『くるみちゃんもはやしさんも可愛いよ。だからけんかしないでね』
 この男と手を繋ぎたいあまりに、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、殴り合い蹴り合ったくるみちゃんとはやしさんは、もはや遠足どころではないひどい有り様だった。
 そのふたりのおでこにちゅっとキスをして場を収めた、若干5才。
 彼女たちの王子さまだったらしい彼の微笑みは効果絶大だった。ぽうっと頬を染めたふたりは、大人しく列に戻ったものである。
 両手があるんだからふたりともと手を繋げばよいものだが、必ず2列になって進まなければならないため、ひとりの席をふたりで争うことになったのだが、もともとどちらも恭吾とは別に手を繋ぐ相手がいた。
 手持ちぶさたに顔を見合わせていたもも組とりんご組の男ふたりは憧れのくるみちゃんとはやしさんと手を繋げて嬉しそうだ。
 そんなに重要なことか?たかが手が。
 その頃から少々冷めた考え方をしていた俺は、その一部始終を呆れた眼差しで見つめていた。
 誰と手を繋ごうが、そんなものあっという間に終わってしまう。実際、徒歩10分で着くぞうさんの森に辿り着くなり、彼女たちはあっというまにちりぢりになって、誰かと手を繋いでいるなんて面倒でやってられない、そんな雰囲気さえ見せたのだから。
 ちなみに両隣から腕をしっかり握られて引っぱられるという、古典的拷問を受けていた男自身はけろりとしたもので、妙ににこにこしていた。
 まあこいつの笑顔っていうのはなかなかくせ者で、こいつなら仕方ないと思わせる気安さと愛嬌がある。まあ、ようやく無事、入り口を通ろうとしただけで発生した問題も解決して、一安心だ。
 順調に他の園児たちが手を繋いで入り口を抜けていく。
 その中で動こうとしないのが先ほどの問題児がひとり。そいつはぬっと片腕を伸ばした。俺の方に。
「せいくん。手ぇ、つなご」
「………はあ?」
 おまえは先生の説明を聞いていなかったのか。
 隣の女の子と手を繋ぎましょうね、って言っていただろうが。
 俺は男だ。おまえの手なんかいるもんか。
「おれ、せいくんがいい」
 が、を使った。がを使ったぞ。
 保育園児にして日本語の深くて広い使い分けを覚えている俺は、そのてにをはに鋭く反応した。
 どうして、が、なんだおまえは。
 もも組とりんご組の憧れの人をさくっと振った癖に。
「なんでおれがお前と手をつなぐんだよ」
 と、俺もはっきり言ってやったのに、ぞうさんの森でも、ライオンの丘でも、こいつは俺の手を離さなかった。
 その間中、俺の胸は妙な不整脈を訴え、息苦しさと喜びでごちゃごちゃだった。どうぶつを見て喜ぶような歳でもなかったが、きっと見られて嬉しかったのだろうと思うが、どうしてあんな動悸がしたのか今でも不思議だ。
「おーい、征一郎~、大丈夫かあ?」
「大丈夫だ。…いや、何しているんだ、おまえは」
「真鈴ちゃんごっこ」
 俺の髪をかきまわし、ぐちゃぐちゃにするのがか?
 それともおまえの膝に俺を乗せているところがか?
「恭吾。覚悟は出来ているな?」
「いいえ?」
「そこになおれ!」
 成敗してくれる。


 せっかくの休日に見たくもないこいつの顔を見ているかといえば、俺が呼び出したからだ。
 先ほど恭吾がめくっていた雑誌をベッドの端に座ってめくりながら、俺はそっとため息を吐く。まったく内容が頭に入ってこない。
 ベッドの上であぐらをかき、新しい雑誌をめくる幼馴染みの顔を俺はねめ付けてやる。
「とにかく、浅く付き合う相手に深い手を出すのはやめろ」
 こいつは先日もまた下級生に手を出し、それより少し前に出していた下級生同士が揉めるという事件を相も変わらず引き起こしてくれたのだ。
 揉めた彼らはことの張本人であるこいつの取りなしを受けると、なぜかお互い仲が良くなってしまって、こいつのことなどどうでも良くなったようだが、原因にはひと言注意をしなければいけないだろう。
 いい加減いつもいつも、面倒ごとばかり引き起こす男だが、幼馴染みではある。放置していて他人様に迷惑をかけていては面目が立たない。
「みんなかわいいからさ、つい、こう、盛り上がるでしょ、ふつう」
「知らん」
「征一郎はさあ、顔も悪くないし、眼鏡なんてお約束アイテムをつけなくても充分冷ややかな雰囲気があって格好良くて、もてもてなのに…なんか固いんだよな」
「…それがどうした。余計なお世話だ」
「蓮みたいな洗い立てのシーツ、真っ白ふわふわです、みたいなのを持てとは言わないって。でも損していると思うんだよ」
「損?」
 おまえといること以上に人生の損失はないと思う。
「わ、ひどい」
「何も言ってない」
「言ってる言ってる。顔が」
 それがひどい言いようだと思うが。
 そう思ったが、口には出さない。しかし読心術でもあるのか、まあね、と簡単に頷いた恭吾の表情はずいぶん大人しい。
 明るくはっちゃけすぎるところもない、静かな顔だ。こういう顔も人を魅了するんだろうと思わせる、雰囲気のある顔だった。いつもこんななら大人しくて良いが、それはどれでこいつらしくもない。
「征一郎自身はすごく可愛いところがあるのに、カチカチでガチガチの鎧付きっていうか。でもそんなふうまでして身を守る必要なんてないだろ?」
「…………っ」
 どうも時々妙に鋭い恭吾の物言いは胸に突き刺さるものがあった。
 兄弟同然に育ってきた俺たちはお互いの性格など、隠しようもなく知られている。ここでの俺はなるべく穏便に話を受け流すべきだったんだろう。だがとっさに、そうすることができない。
「誰が…可愛いって?」
 問題はそこだ。
 しかしこの切り返しはまずかった。この手の話題は良くない。何のてらいもなく恥ずかしい台詞を吐ける男。それが一ノ瀬恭吾であることを俺は忘れていた。大失態だ。
「どんなに不機嫌でも真鈴には甘い顔を見せるところだとか、冷ややかさを装いながら、相手を立てようとするところとか、お気に入りのお菓子が出た時に無意識に笑みをうかべているところとか、ぜんぶ可愛いって」
「…………」
「…………」
「まあ、それはともかく」
 なんでこう失言はすぐ我が身に返るのか。
 俺の失言はともかく、重要なのは恭吾、おまえの不特定多数の異性及び同性交遊。
 危うく話をすり替えられるところだった。
 俺は呆けそうになる意識を叱りつけて話を戻す。
「だいたいな、おまえは良いかもしれんが、中には本気になる者だっているだろう。そういった者を悲しませるつもりか?」
「そうならない子を選んでるって」
「本命ができたらどうするんだ」
「うーん、どうするって?」
「浮ついたおまえを信頼するまでに時間がかかるだろうし、おまえだって思い悩むんじゃないのか」
「相応しい人間じゃないから?」
「そこまでは言わないが、…そう誤解されることにもなりかねない」
「それは大丈夫。だって俺のこと分かってくれてる」
「いや、だから…?、……」
 俺は自分の顎を指でつまんで、ぴたりと口を閉ざした。
 今の話からすると、もう本命がいるってことか?
「………、なら、尚更……」
 知らなかった。本命がいるのか?
 俺は妙な戸惑いを覚えて言葉をつまらせる。
 どうしてこんなふうに言葉が詰まるのか分からない。
 こいつに本命がいるというなら、喜ぶべきことだ。
 今はふらふら、ふらふらと蜜を求める蝶のように落ち着かない腰も、次第に座ってくるってことだろう。歓迎こそしてそれを拒むいわれはない。
 そうに違いないというのに、俺の気分はざわついて困ってしまう。
 ここでうまい冗談など言えれば良いのだろうが、何もうかんでこなかった。
「わー。どうしてそこで黙っちゃう?」
「どこで黙ろうが、俺の勝手だろうが」
「な、征一郎。俺の本命知りたくない?」
「…………」
 朝から晩まで、家でも学校でも一緒にいるのに、俺はこいつの本命が誰なのかちっとも分からないなんて、幼馴染みの沽券に関わるだろうか。
 C組の美少女とはもう分かれたようだし、B組の美少年はどうだったろう?
 こいつが今まで、あるいは今も付き合っているだろう相手なんか多すぎていちいち思いうかばなかいのが正直なところで、考えれば考えるほど苛ついてくる。本当に本命なんかいるのか?つい先日も下級生に手を出した挙げ句、もう興味もない男が?
「いや、別に」
「教えてあげるって」
 妙に甘ったるくて優しい笑みをうかべた恭吾が俺にのし掛かってくる。
 どうして本命を言うだけで俺をベッドの上に引き倒し、あまつさえ俺が起き上がれないよう自分の体を重しとして使うのか。
「どけ」
「どかない」
「重いぞ」
「そりゃ、征一郎より筋肉在るしな。な、征一郎。これいやか?」
 いやに決まっているだろう。
 その文句がこいつの口の中に奪われる。
 ………これは、キス?
「き、…きょう、ご…ッ」
「うっ、下半身に来るなあ。おまえの声って」
 ふくらみを押し付けるな!
 もう1度唇を合わせてくるな!
「離せ…ッ」
 のし掛かってくる体を押しのけようとするが、びくともしない。
 そうだった。
 こいつは俺の攻撃をいつも避けもしないが、実際には俺よりずっと鍛え抜かれた体と優れた格闘センスを持つのだ。
 頭の中にかっと血が昇る。
 全身の血が煮えたぎるような、激しい怒りで目の前が白くなった。
「おまえの本命に密告してやるぞ!」
 それが誰かは知らんがな。
 堂々と高圧的に言いのけると、こいつは妙にきょとんとした顔になり、ぷっと吹きだしてから、懲りもせず俺の唇をついばむように浅い口づけを繰り返した。
「俺が好きなのはあんただよ」
「…はあ?ばかも休み休み言え」
「だから、あんた。遠見征一郎が本命だって言ってるわけ」
 冷ややかな眼差しにかけては誰にも負けないと自負している俺?
 不本意ながらいじめられたい先輩ナンバーワンの俺が?
「好き?」
「そうだとも」
「おまえ…まだ、保育園の頃の好きとの区別がつかないのか?」
「いや?その頃からすでに俺はあんたを愛してたぜ?」
 いや、それは勘違いだ。
 そうに違いない。
 だというのに、真っ白になっていた視界がどきまぎと赤く染まる。
 どう。どういうことだ?
「ふ。服を脱がすな、おまえは…っ」
「しちゃおうぜ。告白ついでに」
「ついでにするもんじゃないだろうが」
「ずーっとしたかったんだ」
 俺は服を脱がされ、再び深い口づけを受ける。
 口だけでなく、首筋から、胸もとから、淡く兆した前も、全て。
「きょ、…恭吾…っ」
 丹念に解した後ろに、熱の固まりを押し付けられる。
 あんなに長く一緒にいたのに、体の中に圧し込まれ、挿れられる圧倒的な存在感も全身を融かすような熱量も、未知のものだった。
 俺は喘がされ、大きさに呻き、迸りで白く体を汚したが、こいつとするその行為がそれほど嫌でもないことを知った。ことを終えた後にきちんと殴っておいたが。物事には手順とか順序とかあるだろう。いきなり襲うな。

「おまえはまたどうしてそう、世儀に構おうとするんだ」
「いやあ、だって可愛いからさ」
「だってじゃない」
「でも愛しているのはおまえだけだぜ?」
「………っ」

 ああ、そうだとも。
 それを言うのがこいつでなければ許さない。
 俺はいつもこいつに気持ちを乱され、こいつのひと言で収まる。
 俺もまた、こいつにたらされたひとりだと言うことなんだろう。
 呟きは声なく胸の中で呟かれる。
 
「……俺も」
「え?何か言った」
「何でもない!何も言ってない!仕事をしろっ」
「ええ~?」

 のし掛かるな、耳に息を吹きかけるな、世儀に迷惑をかけるな、やたら他人をたらすな。ああもう。
 なんでこいつは、こうなんだ。
 俺の今日もまた胸の中で埒もないことを呟く。
 好きになった方が負けだと世間ではまことしやかに囁かれるが、こいつとの場合。
 恐らく生まれたその日から、どちらか先も後もなく。
 こんなふうになったのかもしれなかった。


拍手御礼04

   内容:andante -唄う花- 番外
      一所懸命、お守りしています。


   

 我々は第五警護隊。
 通称、蓮様お守りしますの会。


 我々は要人警護のスペシャリストとして厳しい訓練を受け、その中から特に選び抜かれた精鋭として、世儀家の主要人物の警護にあたっている。
 蓮様ご誕生時に結成された第五警護隊は、男性のみで構成されている。皆かなりの蓮様フリークを自認しているが、我々の行動は常に秘密裏に行われていた。
 なぜなら蓮様は、己の素性をお知りにならないからである。

 1410。
 蓮様は学校帰りのスーパーでお買い得商品を吟味中。
 蓮様がお通い中の公立中学は本日昼過ぎまでの授業で、部活に所属されていない蓮様は制服姿のまま買い物に来られていた。
 "WからRへ。蓮様がお買い物メモを落とされた。至急見やすい位置に配置せよ"
 "了解"
 陳列棚の物陰に落ち込んだ紙切れを素早く確保し、蓮様が気づいて戻ってこられる瞬間、的確な位置に置く。
 これは要人警護の仕事ではない?
 いやいや。
 第五警護隊にとっては重要かつ重大な任務。これないがしろにするべからず。
 やむにやまれない場合は、変装済みの隊員が蓮様にお声をかけることがゆるされる。我々にとっては緊張する瞬間だった。
 もし今回がそうなら、「これ、落とされませんでしたか?」になるだろう。
 この上ない至福の瞬間である。

 我々は日陰の集団であり、表だって動けないだけではなく、その存在を知られるわけにはいかない。
 そのことに不満はないが、小憎たらしい相手はいた。

「あら、第五の皆さん。ご精が出ますこと」
「…どうも」
 男ばかりのこちらに対し、向こうは女性のみ。
 すらりとしたパンツスーツ姿の女性たちは、白いボックスカーに乗り込んだ我々を見て、艶然とした微笑みをうかべた。
 入ったばかりの若い隊員などはぽおっと彼女らを眺めて、誰ですか、なんて聞いてくる。
「三ツ原家警護隊の皆さんだ…」
 選考基準は顔と言われるぐらいの美女揃いだが、油断してはならない。うっかり隙など見せたら、頭からばりばり喰われかねないからである。蓮様護衛の座を死守すべし。
「あら、怯えた仔羊ちゃんがいるわ。かわいいわね」
「…………」
 こっちを見て言うな。誰が仔羊だ、誰が。
 というか口に出していないのに。…そんなに分かりやすい顔をしていただろうか。気をつけねば。
 彼女たちのつよみは、何と言っても蓮様に面識があること。
 女系優先の三ツ原家ではとにもかくにも女がつよく、彼女たちもまた同様である。
 色々あって女の園である桜朱恩に通うことになった蓮様は、三ツ原家のご息女と行動を共にされることが多くなった。
 当時の蓮様はちょっとひと言では言い現せないぐらいのお可愛らしさだった。
 こぼれ落ちそうなほど大きな瞳いっぱいに涙をうかべて、従姉である三ツ原家のご息女の後について歩く様や、にこっと笑って、ちょこまか跳ね回る様など、永久保存版、癒しの図。
 ひとりでおつかい、蓮様編。
 など、ちょっとひと言では言えないぐらいの感動巨編である。
 今でも充分愛らしくお綺麗な蓮様は、かつてはよりいっそう純粋かつ無垢でいらっしゃって、従姉を守る彼女たちに対しても、尊敬と憧憬がこもった瞳を向けていた。
 しかしこればかりは、出来ることなら声を大にして言いたい。
 違うんですっ、危険なんです!と。
「あ、護衛のお姉さんたちだっ。こんにちは。ナギ姉待ち?」
「あら、お早いお戻りでしたわね」
 蓮様!
 我々は三ツ原家警護隊を壁にしながら速やかに移動を開始。
 意識は常に蓮様の周囲に張り巡らせているから、多少離れても会話ははっきり聞こえた。音声良好、改良に改良を重ねた集音マイク異常なし。
「ナギ姉ね、白か朱色かで迷っているの。どっちも似合うと思うんだけど」
「それは重大な問題ですわね。蓮様、今日は陽射しがきついですし、外ではお帽子をかぶりませんと」
 少々難しいお年頃になってきた蓮様のお気持ちを損ねず、さっと帽子をかぶせてくれたことにほっとしながら、日陰に連れて行く手際の良さに、さすがだとも思う。
 我々もあちらも子守りに関しては一家言あるが、直接的に関わり合うことが多い彼女たちの方が、言葉巧みに蓮様を誘導できる。
 今日は三ツ原家のご息女に付き添い、三ツ原家の車で買い物に出かけられたので、正直我々の出番はないのだが、それならお任せします、などど言っては第五の名が廃るというものだ。
 我々は蓮様がお休みになれるまで、いや、寝ても覚めても、つねにお守り続けます。

 あれから数年。
 今、蓮様は世儀家に入られ、我々とも直接言葉を交わされるようになった。
 世儀家に入られても隠密行動を続けるつもりであったのだが、蓮様は屋敷中を駆け回って我々をお捜しになったため、恥ずかしながら自己紹介をさせていただいた。
「レッドです」
「ホワイトです」
「ブルーです」
 我々のコードネームは色である。
 本名をお伝えするわけにはいかない、と言ったところ、蓮様は可愛らしく小首を傾げて、
「じゃあ、赤井さんと白川さんと青野さんね」
 と、その他全員の名も決めてくださった。
 全員の胸が感動に打ち震えたのは言うまでもない。
 だが、蓮様は我々が蓮様が世儀家に入られた時から結成されたと思われているようだった。それも無理はない。我々はずっとそっとお守りさせていただいてきたのだ。
 上手にハイハイされるところ、はじめてお立ちになったところも、我々は影ながら見守らせていただいている。
 蓮様の存在に我々がどれほど癒され、力づけられてきたのか。
 それは1度語り出したら止まらなくなるぐらいだ。


 第五警護隊。
 我々は数々の困難に立ち向かい、打ち勝って、これからも蓮様を守り続けることを誓おう。


 どうか本日もお健やかに。
 我々は常に蓮様のお側に付いています。
 陰に日向に。
 いついつまでも、お守りさせて下さい。

拍手御礼03

   内容:月吹く風と紅の王 番外
      彼らの務めのひとつ。ほのぼの。


   

 花青宮の一部ではあるが、一の宮、二の宮、と分けて呼ばれるそれぞれの住まいは独立した営みを行っている。
 花青官だけでなく、料理人や洗濯女に至るまで、宮内の仕事に携わるものはすべて専任という形をとり、他の宮とは行き来しない。
 大抵のことが共有場所である本宮でなく、人形が住む宮内で済むようになっていた。
「ツィーツェ花青補。今月の収支です」
「ありがとう」
 部下から書類を受け取り、ツィーツェは書きものをするときにだけかけている細い縁取りの眼鏡を指先で直した。
 人形の世話以外にも、花青官の仕事は多くある。
 そのひとつが宮の管理で、修繕や調度品の買い換え、立ち働く人員の調整など、こまごまとしなければらないことが山積みになっていた。
「やはり人形がひとりだと、楽ですね」
 ツィーツェは届けられた収支報告書を見て、独りごちた。
 ちょっと他の宮では考えられないような、簡潔で余裕のある内容である。
 一の宮の主人、第1王子エルシェリタは私費で人形に希少な鉱石や装飾品を買い与えるし、人形が欲しがるものといえばせいぜい本か術用の気石。
 どこに予算を使えば、と少し悩むぐらいである。
 むろん、ないよりはあった方がいいので、無駄なくきっちり使うのがツィーツェの方針であった。少々溜め込んでいた余裕分もあることだし、そろそろここで思い切るべきかもしれない、とツィーツェは思う。
「やはり、寝具でしょうね」
「花青補。決定ですか」
 部下らが一斉に視線を向ける。
 ツィーツェは重々しく頷いた。
「模様替えをします。至急手配を」
「はい!」
 勢い余って破顔する勢いで、花青官らははりきって応える。
 彼らにとって、人形を飾り立てるのがいちばん楽しいひとときだが、宮の主人を愉しませ、より人形を美しくさせることなら、なんだって楽しいのが実情であった。


「気をつけて、床に傷など付けないように」
「カジュリッティドのランプが届きました。どちらに置きましょう」
「もう少し右へ、あ、寄りすぎです。もう少し左へお願いします」
 主寝室に大勢の人々が忙しく出入りしては、あれやこれやと次々ものを運び込む。
「なに…してるの」
 午睡あけで眠そうな顔をしながら扉の前に立つ人形に気付き、ツィーツェは天蓋の幕を張り替えていた手を止めた。
 寝癖でやわらかな月色の髪がほつれているのを、胸もとから取り出した櫛で梳き、午睡衣の乱れを整える。午睡から目を覚ましているのは気付いていたが、まさかここに足を運んでくるとは思わなかった。
 ルシエはされるがままだ。ツィーツェはうとうとと瞼を落とすルシエを両腕で支え、部下に目配せをしてその場を離れた。
 昨日もずいぶんと長く主人のもとにいた人形は、睡魔が拭いきれずにふらふらしているので、目が離せない。どうも夢うつつで歩いてきたらしい。
「ルシエさま。申し訳ありません。うるさかったですか?」
「ん…んん?……」
 もごもごと口もとではっきりしないことを言っている。
 これはもう1度、寝せておいた方がよいと判断して、ツィーツェはルシエを午睡室に連れて戻る。
 寝惚けているときのルシエはいつも以上に無防備でいとけない。
「花青補。ルシエさまのそばにはわたくしが」
「頼みます」
 鈴白湯に体力の回復によいセキリーシアを混ぜて飲ませるよう指示をし、部下のひとりにその場を任せる。
 模様替え中の部屋に戻りながら、ツィーツェは主人宛てに伝文を送った。
 人形の体調を整えるため、休息を求める簡潔な文章である。
 夜伽のお召しは主人の意向がすべてと思われがちだが、そこは花青官も一枚噛んでいる。これではつとめは果たせないと思われれば前もってその旨を伝えるし、無理なお召しは断った。
 複数人形がいる場合、誰それを夜伽に呼ぶようにとは指示しないし、それはしてはならないが、夜伽相手を花青官側から選ぶことはある。
 人形は主人の所有物だが、人形を管理するのは花青官である。
 花青官は王族であっても自由に出来ない。花青官は主人の指示を拒む権利を有しているのだ。
 ツィーツェとエルシェリタのやりとりは思念文という、特殊な伝令法を使っているので、伝令士は通さない。直に会話はできないが、思念文を受け取った者はすぐにそれを感じ取ることが出来るし、好きなときにそれを読むことが出来る。
 すぐに返信が戻ってくる。
「それは少し、おおげさというものです…」
 羅列された治療法やら健康法やらに一応すべて目を通してから、ツィーツェはその気持ちだけありがたく受け取る。
 病ひとつあまり得たことがない第1王子は人形が不調だと聞くと、あれやこれやと考えずにはいられないようだった。
「花青補。ルシエさまはお休みになったそうです。ですが、少し気になることを…」
「気になるとは。なんです」
「はい。花砂糖菓子はもういやだ…とか」
 恐るべき主人と人形である。
 花砂糖菓子は滋養があっていいので今日のおやつに出すのはどうだろう、と今し方主人からの返信で届いたばかりだった。
「あまりお好きではないようですね。違うものを用意させましょう」
「はい」
「あ、お待ちなさい。そちらの敷物は、そう、そちらのものを使いますから」
 出来上がった主寝室はツィーツェら、花青官たちの満足のゆくものだった。だが、部屋の主人らがここを使うのは、もう少し後、夜になってからである。


 湯殿に隣接した小部屋で花青官たちはいつも念入りに人形の手入れをする。
 手のひらで丁寧に圧して血の巡りを良くしながら、香油を丹念に塗り込み、肌に馴染ませる。
 月色の髪には特別に取り寄せた髪油をたっぷりまぶして、熱く蒸らした布を巻いたり、指先で頭皮を揉み込んだりと、とても時間がかかった。
 湯を終えても、爪を整えたり髪を梳ったりと、人形の身には色々と必要なことがある。
 ルシエはこうした手入れの時間が苦手で、やれくすぐったいの疲れたのと文句を言いつつ、いつもうとうととまどろみ出すのだが、今日も例によって手入れの最中に眠り込んでしまったルシエを、ツィーツェはやさしく揺り起こした。
「ルシエさま、終わりましたよ」
「うー、ん…ん…。本…読みかけの本…」
「いけません。今日はもうお休みになりませんと」
 放っておくと夜更けまで本にかじりついているので、ツィーツェは主寝室に本を持ち込ませないようにしている。
 人形の美貌を守るためにはなるべく早寝早起きをさせ、栄養の整った食事を食べさせて、適度な運動と、たっぷりの睡眠をとらせることが大切だ。
 突き詰めすぎると夜更かし過度の運動、深夜の美食など、主人のお召しほど厄介なものはないことになってしまうので、ある程度ほどほどにしなければならないが。
「さ、まいりましょう」
 やんわりと、しかし文句は聞かないつよさで促し、ツィーツェは人形の手を引いて進む。
 華奢な手のひらがツィーツェの手に乗せられて、ほんのりと温もりを伝えた。
 きれいに整えた爪先と、ほっそりとした指。
 ささくれはもちろん、傷ひとつない手は花青官たちがいちばん心を込めて手入れを施したものだ。
 人形になったばかりの頃、渡り風のひとりとして、水仕事は勿論、繕い物や狩り、家屋の設営などなんでもこなしていたルシエの手は、お世辞にもきれいとは言い難かった。
 爪は割れていたし、傷だらけでささくれをたくさんこしらえていた。
 それはルシエが一人前の渡り風の証。
 今は違う。白く整えられた手は人形の証であった。
「少々部屋の模様替えをいたしましたので、お気を付けて」
「ん…。ん、…!え、ああ?」
 主寝室に足を踏み入れた人形は素っ頓狂な声を上げて、じりと後退る。
「な。なにこれ。ツィーツェ!?」
「何と申しましても。南方風初夏の装い、森の香りのそばに。といった感じです」
「森。森でしょう。これっ。なんなのこの室内植物、それに蔓草のごとき薄布の山っ」
「……お気に召しませんか?」
「むり。むりだって。こんなのエルシェリタが見たら、変なこと考える」
「変なことですか?ルシエ。それはどういったことでしょう」
「……ひぇッ」
 満面の笑みをうかべた第1王子は、寝台の上に人形をずるずると引きずり込んで、綿ではなく水を詰めた寝台の感触を楽しむようにやや体を弾ませた。
 模様替えを伝えたところ、こちらに来ると連絡を受けていた花青官らは、主人の意を速やかに汲んでわずかに灯りを落とす。
「たまにはこういうのも気分が変わって良いですね」
「ありがとうございます」
 第1王子は模様替えした部屋をたいへん気に入ったようで、天井から下げた薄布を人形に肌に巻き付けたり、室内植物に変化の術をかけたりといろいろ活用してくれたのだが、あんまりにも利用度が極端に高かったせいで、一晩の幻と消えることになった。
 が、これに花青官たちが懲りることはない。
「予算に余りが出ました」
「それでは、…!」
 花青官たちは今日も生き生きと働く。
 人形と主人の幸いが、彼らの喜びである。
 人形に言わせればそれには少々行き違いがあるが、ともかく、彼らのおかげで一の宮がまわっているのもまた事実であった。

拍手御礼02

   内容:air seed 番外
      ユマリエの里で、ラトルリアスと一緒に過ごす夏の一コマ。


    

 空を覆う梢をすりぬけて、夏の陽射しがふりそそぐ。
 サンダルの足もとに下草がふれてこそばゆい。
「ほら、ふくふく蝶が」
「ほんとうだね。ユマリエ、頼める?」
「うん」
 ラトから花かごを預かって、軽く地面を蹴った。フォーレペルゲには素力が満ちているので、風をつかまえなくても容易く体をうかせることができる。銀の幹と淡い緑の葉を茂らせたリーデリーロウの木は、天に向かって真っ直ぐ伸びているけど、目的地は天辺でなくその途中。
 木の半ばほどに群れていた黒に蒼の斑点をつけた蝶は突然近寄ってきた僕にふわりと広がって、警戒した様子を見せたけれど、木のうろに花を置くとひらひらと集まっていくる。
「ラト、大丈夫だよ」
「ありがとう」
 地面からふわりと浮かび上がったラトが、冷気をはらんだ風を起こして急上昇する。
 花に惹かれて集まった蝶たちは寒さに弱いので、風よけをはっていた。ラトが通り過ぎても花の蜜を吸うのに夢中だ。
 ラトはリーデリーロウの天辺までのぼって、鳥の巣から耳飾りを摘み上げると僕を呼ぶ。
「ユマ、解いていいよ。おいで」
「ありがとう」
 ふくふく蝶にお礼を言って、ラトのところへ向かう。
 ラトが手にしているのは母さんに貰った耳飾りで、小さな貝殻で花の形を象っている。沈んだ色合いの草貝を使ってつくってあるので、日影にひらいた草の葉のような色をしていた。
「よく似合う」
 これで両耳そろった。
 空遊びをしている最中に落として無くしてしまったのを、耳飾りに移った僕の気配で探し当ててくれたラトは満足そうに僕を見る。
「ラトもありがとう」
「どういたしまして」
 学院の夏休暇。僕とラトはフォーレペルゲに戻ってきていた。
「夜会」
「ん?」
「夜会ってどんなの?」
 空の中を駈けながらふと訊ねた僕にラトは目を細める。
 ラトには夜会の招待状がたくさん来ているんだって兄さんたちが言っていた。
 夜会ってなんだろう。
 たくさんの人が来て、食べたり踊ったりするんだって聞いたけれども、母さんが催す食事会とは違うらしい。知らない人も来るし、お見合いみたいなこともするんだとか。余所の国のお姫さまがたくさんラトを目当てに会いに来るなら、きっと華やかな催しなんだろうなと思う。
 空を飛びながら、ラトがふっと空のただ中にとまった。
 僕を振り返り、手を取って腰に腕をまわす。
「夜会はね、こんなふうに踊るんだよ」
 そういってラトはくるくると僕ごと廻った。
「ほんとう?」
 ものすごく良く廻った。風がゆったりうずを巻いて離れていくのを見送って首を傾げる。これじゃ目をまわすよ。絶対違う気がする。
 ラトは頷いて僕を離し、恭しく手を取る。
「一曲踊っていただけませんか?わたしの可愛いユマリエ」
「?まわりすぎないでね」
 僕の言い方がおもしろかったのか、ラトはふっと薄い笑みをうかべると僕を勢いよく上空に向けて放り投げた。まるで玉転がしの玉になったみたいにぐるんぐるんと廻る。
「ユマは好きだよね。空遊びでいつもまわっている」
「まわってるんじゃないし、どうしていきなり投げるかな」
「ユマの空遊びっていつも楽しそうだよね」
「あれはこうするの」
 突飛なラトにあきれながら、いつものように風の中に体を落とす。
 コツは風に身を任せること。でも流されないように良く見極めること。
「力を抜いて、ラト」
「こうかな?」
「抜きすぎっ」
 ぐんと落ちかけた服の端っこを掴んで引き留め、こうだよ、と見本を見せる。
 風の帯に飛び込んで跳ねあがり、一回転してから素早く姿勢をかえて斜め下へ滑り落ちる。全身に風をうけて再び舞い上がり、空に散る花びらのように廻る。
「やっぱりまわってる」
「さっきとは違うよ」
「そうかな。でも、分かった。こうだね」
「ラ、ラトっ」
 上昇気流を掴まえるのはいい。でもそれは突風だから。
 いきなり雲の上まで飛ばされていくラトを見送って、僕は空中で小さく廻る。
 さっきラトが踊ったみたいに。
 足取りは軽やかに、弾むようだった。
「あれ、戻ってこないな」
 不思議に思って空を見上げると、ちらちらと落ちてくるものがある。
 それは指先に触れて、融けた。
 夏の空に雪の影。
 雲の中で心地よさそうに瞼を閉ざしていたラトを引っ張り上げ、僕はしっかりラトの手を掴む。
「帰るよ、ラト」
 ひんやりしたラトの指先が僕の手をくるむ。
 僕を見つめたラトは幸せそうに唇を引き上げ、顔いっぱいをつかって微笑んだ。


拍手御礼01


   内容:青く沈む 番外
      尚人の学校生活。

       
「おーい、榊、プリント運ぶの手伝ってくれ」
「…プリント?」
 教室の窓から手を振る同級生を見て、尚人は足を止めた。
 名家の子弟ばかりを集め、品行方正を絵に描いた生徒ばかりが揃った中で、彼、見広木(みひろぎ)の姿はとても目立つ。
 長身の強面で、ただ立っているだけでも人を威圧しているように見えるからだ。話し出すと太い筆で鋭く線を引いたような眉尻が緩み、少し愛嬌がでるものの、まともに目を合わせるとどこか獰猛さを孕んだ眼光の鋭さに肝を冷やす。
「次の授業は自習なんだってよ」
「どうして見広木が?」
 数学準備室のプレートが掲げられた部屋に入ると、プリントの山が用意されている。
「学年主任に目を付けられてな」
「教室に運べばいい?」
 応えが返る前にふた山にまとめ、そのひとつを抱えた尚人は教室の外へ出た。
「待てよ。榊、そりゃ持ちすぎだって」
 尚人の後ろを追いかけた見広木はふたつかみ分のプリントを自分の方に移し、隣に並んだ。
 榊尚人は学内ではちょっと知られた存在である。
 凛とした面立ちに隙のない身のこなし、ふだんあまり表情を変えることがないが、物憂げに窓の外を眺めている姿など絵になりすぎて正視できないと訴える男もいる。清廉かつ端麗な少年。
「聞いたか?園芸部の3年が品種改良した薔薇」
「…………」
「黄金に輝いて見えるらしい」
「黄金?」
「金粉を散らしたみたいに光って見える」
「……そう」
 興味なさげに進行方向に視線をむける尚人に、見広木は困ったように視線を上に逃した。
 この取っつきにくさがなければ、お近づきになりたい生徒はたくさんいるのだが、誰に対しても素っ気ないのでみんな距離を置いている。しかし見広木も負けてはいない。黙って歩くのは性に合わないと、すぐに新しい話題を見つけた。
「榊はどうして別館に?」
「呼び出し」
 授業の殆どを行っている本館とは渡り廊下で繋がっているものの、だいぶ離れたところに建つ別館は教師用で、授業用の資料が置いてある準備室、研究室などがある。
「呼び出し?」
「学年主任に」
 会話とは主語と述語があれば良いというわけではない。
 そりゃ足りないなと呟いた見広木に気がついたのか、たまたまなのか、尚人はくるりと方向を変えた。
「おい、榊…?」
「こっちを行こう」
「遠回りになるって」
「いい」
 中庭をまわる道へと出た尚人を追いかけ、からりと晴れた空を見上げた見広木はそれとなく進行方向を修正した。わざと日陰を伝って歩く。
「で、学年主任に呼び出されたのか?何で?」
「…………」
 成績優秀で授業態度も良い尚人が呼び出される理由などあるようには思えない。多少欠席は多いようだが、家庭内の事情に対する欠席、社内パーティに出席するなどの理由を認めてしまう学院では大したマイナスにはならない。
 これが見広木に対してであれば、なるほどと頷かれることだろうが。屋上の鍵の無断使用、授業中の外出、校外での乱闘騒ぎ。数え上げれば切りがなかった。すぐに暴力をふるうというよりは飄々としているので学年主任が目を付け、こまごまと仕事を押し付けてはせめて授業に出席するよう促してくる。
「進学しないから」
「榊、前の中間考査で4位とか…それぐらいだろ」
「見広木は首席でも、進学しないって聞いた」
「お?まあ、してもいいんだが、おれの場合はな。親父の会社を継ぐだけなら、今だって幾つか手伝ってやってるんだし」
「学校は羽を伸ばせる場所だって…言うけど。進学しなければ仕事ばっかりの毎日になるのに、それは嫌じゃないの?」
 この学院の生徒は殆どが親の仕事の後を継ぐ。そうでない場合ももちろんあるが、親のためにそれに相応しい学業を修める、そのひとつがこの学院の卒業である。
 自分から積極的に話してくれたことに喜びを覚えながらふむふむと相槌を返した見広木は、あっさりと首を振った。
「おれはむしろ、さっさと卒業して好きなように好きなだけ時間を使いたいって思っているからな。進学して没頭したい学術もないし、それならむしろ世界を飛び回る方が性に合っている」
「見広木コーポレーションって、手広いよね」
「性格だな。血ってやつだよ」
 見広木は苦笑いをうかべて、少々まとまりのない事業展開を続けていることを認めた。失敗を恐れるより冒険を楽しめ、それが家訓である。
「榊んとこもアパレルから新薬研究まで割と手広いだろ」
「僕はあまり関係ないから」
「そうか」
「見広木、そこから出て」
「ふお?」
 何が起きたのか分からない。
 急に腕を引かれて日陰からこぼれ出た見広木は日向の道をずんずん進む華奢な背を追いかける。
 また遠回りだ。
「おーい、榊。どうした?」
「…あの道はだめ」
「ふーん」
 何がだめなのか見広木にはさっぱり理解できないが、この方向を行くなら先に話した品種改良の薔薇が咲く温室がある。
 温室の前で見広木は足を止めた。
「な、見ていかね?黄金の薔薇」
「休み時間が無くなる」
「大丈夫だって」
「電子錠がかかってる」
「平気平気」
 プリントを片手で抱えたままパンツのポケットを探った見広木は、薄っぺらいカードを取り出すと、何のためらいもなく温室の入口に差し込んだ。パネルのふたを開けて、13桁に及ぶパースワードを打ち込むと、あっさりと解錠を示す灯りが灯る。
 呆れた表情で尚人は傍らの男を見上げた。
「見つかれば停学どころの騒ぎじゃない」
「見回りは25分に1回。今は行ったばかりだって」
 悪びれた様子もなくさっさと中に入ってしまう見広木を追いかけて、尚人も温室に足を踏み入れた。不法侵入男のことなど放って先に行っても良かったが、少し興味があった。園芸部の温室は一般生徒は立ち入れない場所である。
 植物の知識がない尚人にはふつうの花木と区別はつかないものの、施錠付きの温室にあるのだから色々と変わった植物なのだろう。国内ではここだけの希少種も植えられていると聞く。
 温室といっても硝子張りの外から見える形ではなく、白い壁に覆われ人工灯に照らし出された室内はあまり土の香りも緑の匂いもしない。
 大きく枝を広げた葉も幹も白い木を眺め、隣り合わせに植えられた牡丹らしいこんもりとした固まりを横切って、奥へと進む。
「榊、これだ」
 小さな植木鉢の前に立つ見広木がすっと体をずらすと、紅い花びらが見えた。
 固そうな葉と枝を覆う棘、その中に数個花が咲いている。
 ふんわりと花びらが広がる八重咲きの小さな花は細かな斑が入っており、花びらの色よりも深い黒だと思えたが、良く見れば光を弾く金色の斑だ。
「光ってる」
「この1本しか成功していないって話だが、すげえな」
 黄金の薔薇というから、てっきり花びらが金色に染められた薔薇を想像していたものの、それよりずっといい。
「星が入っているみたい」
「お、なかなか言うな。…っと、行くか」
「ありがとう、見られて良かった」
「どういたしまして。ん」
「…あ、予鈴」
「いけね、警備員だ」
 温室から離れて数歩分で、向こうから歩いてくる制服警備員の姿が見えた。
「おまえたち!ここは立ち入り禁止区域だぞ!」
「はいはーい。走れ、榊」
「見回り行ったところって」
「ランダムに変わるんだった」
 プリントを抱えたまま全速力で走り出した2人を警備員が追いかける。
 さすがに見広木は捕まるような真似はしない。あっちこっちと扉を抜けてあっという間に本館に入ってしまう。
 揃って荒く肩を上下させながら、顔を見合わせて吹きだした。
「さてと、たまには授業にでるか」
「見広木、変わってるね」
「ああ?」
「でも、楽しかった」
「そりゃ良かった」
 ちょうど良く教室前に辿り着き、チャイムが鳴る。
「自習だ、おまえらプリント持っていけ」
 声を張り上げて教壇にプリントの山を置く見広木につき、持ってきた山を元通りの形に直した尚人は、自分の分をとって席に戻る。
 教室に戻った2人の視線が合うことはなかったが、たった1本咲いた黄金の薔薇がそのまま枯れてしまったと聞いたとき、2人は別々の場所でそれを少し寂しく思った。


  
     
  

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