内容:月吹く風と紅の王 番外
彼らの務めのひとつ。ほのぼの。
花青宮の一部ではあるが、一の宮、二の宮、と分けて呼ばれるそれぞれの住まいは独立した営みを行っている。
花青官だけでなく、料理人や洗濯女に至るまで、宮内の仕事に携わるものはすべて専任という形をとり、他の宮とは行き来しない。
大抵のことが共有場所である本宮でなく、人形が住む宮内で済むようになっていた。
「ツィーツェ花青補。今月の収支です」
「ありがとう」
部下から書類を受け取り、ツィーツェは書きものをするときにだけかけている細い縁取りの眼鏡を指先で直した。
人形の世話以外にも、花青官の仕事は多くある。
そのひとつが宮の管理で、修繕や調度品の買い換え、立ち働く人員の調整など、こまごまとしなければらないことが山積みになっていた。
「やはり人形がひとりだと、楽ですね」
ツィーツェは届けられた収支報告書を見て、独りごちた。
ちょっと他の宮では考えられないような、簡潔で余裕のある内容である。
一の宮の主人、第1王子エルシェリタは私費で人形に希少な鉱石や装飾品を買い与えるし、人形が欲しがるものといえばせいぜい本か術用の気石。
どこに予算を使えば、と少し悩むぐらいである。
むろん、ないよりはあった方がいいので、無駄なくきっちり使うのがツィーツェの方針であった。少々溜め込んでいた余裕分もあることだし、そろそろここで思い切るべきかもしれない、とツィーツェは思う。
「やはり、寝具でしょうね」
「花青補。決定ですか」
部下らが一斉に視線を向ける。
ツィーツェは重々しく頷いた。
「模様替えをします。至急手配を」
「はい!」
勢い余って破顔する勢いで、花青官らははりきって応える。
彼らにとって、人形を飾り立てるのがいちばん楽しいひとときだが、宮の主人を愉しませ、より人形を美しくさせることなら、なんだって楽しいのが実情であった。
「気をつけて、床に傷など付けないように」
「カジュリッティドのランプが届きました。どちらに置きましょう」
「もう少し右へ、あ、寄りすぎです。もう少し左へお願いします」
主寝室に大勢の人々が忙しく出入りしては、あれやこれやと次々ものを運び込む。
「なに…してるの」
午睡あけで眠そうな顔をしながら扉の前に立つ人形に気付き、ツィーツェは天蓋の幕を張り替えていた手を止めた。
寝癖でやわらかな月色の髪がほつれているのを、胸もとから取り出した櫛で梳き、午睡衣の乱れを整える。午睡から目を覚ましているのは気付いていたが、まさかここに足を運んでくるとは思わなかった。
ルシエはされるがままだ。ツィーツェはうとうとと瞼を落とすルシエを両腕で支え、部下に目配せをしてその場を離れた。
昨日もずいぶんと長く主人のもとにいた人形は、睡魔が拭いきれずにふらふらしているので、目が離せない。どうも夢うつつで歩いてきたらしい。
「ルシエさま。申し訳ありません。うるさかったですか?」
「ん…んん?……」
もごもごと口もとではっきりしないことを言っている。
これはもう1度、寝せておいた方がよいと判断して、ツィーツェはルシエを午睡室に連れて戻る。
寝惚けているときのルシエはいつも以上に無防備でいとけない。
「花青補。ルシエさまのそばにはわたくしが」
「頼みます」
鈴白湯に体力の回復によいセキリーシアを混ぜて飲ませるよう指示をし、部下のひとりにその場を任せる。
模様替え中の部屋に戻りながら、ツィーツェは主人宛てに伝文を送った。
人形の体調を整えるため、休息を求める簡潔な文章である。
夜伽のお召しは主人の意向がすべてと思われがちだが、そこは花青官も一枚噛んでいる。これではつとめは果たせないと思われれば前もってその旨を伝えるし、無理なお召しは断った。
複数人形がいる場合、誰それを夜伽に呼ぶようにとは指示しないし、それはしてはならないが、夜伽相手を花青官側から選ぶことはある。
人形は主人の所有物だが、人形を管理するのは花青官である。
花青官は王族であっても自由に出来ない。花青官は主人の指示を拒む権利を有しているのだ。
ツィーツェとエルシェリタのやりとりは思念文という、特殊な伝令法を使っているので、伝令士は通さない。直に会話はできないが、思念文を受け取った者はすぐにそれを感じ取ることが出来るし、好きなときにそれを読むことが出来る。
すぐに返信が戻ってくる。
「それは少し、おおげさというものです…」
羅列された治療法やら健康法やらに一応すべて目を通してから、ツィーツェはその気持ちだけありがたく受け取る。
病ひとつあまり得たことがない第1王子は人形が不調だと聞くと、あれやこれやと考えずにはいられないようだった。
「花青補。ルシエさまはお休みになったそうです。ですが、少し気になることを…」
「気になるとは。なんです」
「はい。花砂糖菓子はもういやだ…とか」
恐るべき主人と人形である。
花砂糖菓子は滋養があっていいので今日のおやつに出すのはどうだろう、と今し方主人からの返信で届いたばかりだった。
「あまりお好きではないようですね。違うものを用意させましょう」
「はい」
「あ、お待ちなさい。そちらの敷物は、そう、そちらのものを使いますから」
出来上がった主寝室はツィーツェら、花青官たちの満足のゆくものだった。だが、部屋の主人らがここを使うのは、もう少し後、夜になってからである。
湯殿に隣接した小部屋で花青官たちはいつも念入りに人形の手入れをする。
手のひらで丁寧に圧して血の巡りを良くしながら、香油を丹念に塗り込み、肌に馴染ませる。
月色の髪には特別に取り寄せた髪油をたっぷりまぶして、熱く蒸らした布を巻いたり、指先で頭皮を揉み込んだりと、とても時間がかかった。
湯を終えても、爪を整えたり髪を梳ったりと、人形の身には色々と必要なことがある。
ルシエはこうした手入れの時間が苦手で、やれくすぐったいの疲れたのと文句を言いつつ、いつもうとうととまどろみ出すのだが、今日も例によって手入れの最中に眠り込んでしまったルシエを、ツィーツェはやさしく揺り起こした。
「ルシエさま、終わりましたよ」
「うー、ん…ん…。本…読みかけの本…」
「いけません。今日はもうお休みになりませんと」
放っておくと夜更けまで本にかじりついているので、ツィーツェは主寝室に本を持ち込ませないようにしている。
人形の美貌を守るためにはなるべく早寝早起きをさせ、栄養の整った食事を食べさせて、適度な運動と、たっぷりの睡眠をとらせることが大切だ。
突き詰めすぎると夜更かし過度の運動、深夜の美食など、主人のお召しほど厄介なものはないことになってしまうので、ある程度ほどほどにしなければならないが。
「さ、まいりましょう」
やんわりと、しかし文句は聞かないつよさで促し、ツィーツェは人形の手を引いて進む。
華奢な手のひらがツィーツェの手に乗せられて、ほんのりと温もりを伝えた。
きれいに整えた爪先と、ほっそりとした指。
ささくれはもちろん、傷ひとつない手は花青官たちがいちばん心を込めて手入れを施したものだ。
人形になったばかりの頃、渡り風のひとりとして、水仕事は勿論、繕い物や狩り、家屋の設営などなんでもこなしていたルシエの手は、お世辞にもきれいとは言い難かった。
爪は割れていたし、傷だらけでささくれをたくさんこしらえていた。
それはルシエが一人前の渡り風の証。
今は違う。白く整えられた手は人形の証であった。
「少々部屋の模様替えをいたしましたので、お気を付けて」
「ん…。ん、…!え、ああ?」
主寝室に足を踏み入れた人形は素っ頓狂な声を上げて、じりと後退る。
「な。なにこれ。ツィーツェ!?」
「何と申しましても。南方風初夏の装い、森の香りのそばに。といった感じです」
「森。森でしょう。これっ。なんなのこの室内植物、それに蔓草のごとき薄布の山っ」
「……お気に召しませんか?」
「むり。むりだって。こんなのエルシェリタが見たら、変なこと考える」
「変なことですか?ルシエ。それはどういったことでしょう」
「……ひぇッ」
満面の笑みをうかべた第1王子は、寝台の上に人形をずるずると引きずり込んで、綿ではなく水を詰めた寝台の感触を楽しむようにやや体を弾ませた。
模様替えを伝えたところ、こちらに来ると連絡を受けていた花青官らは、主人の意を速やかに汲んでわずかに灯りを落とす。
「たまにはこういうのも気分が変わって良いですね」
「ありがとうございます」
第1王子は模様替えした部屋をたいへん気に入ったようで、天井から下げた薄布を人形に肌に巻き付けたり、室内植物に変化の術をかけたりといろいろ活用してくれたのだが、あんまりにも利用度が極端に高かったせいで、一晩の幻と消えることになった。
が、これに花青官たちが懲りることはない。
「予算に余りが出ました」
「それでは、…!」
花青官たちは今日も生き生きと働く。
人形と主人の幸いが、彼らの喜びである。
人形に言わせればそれには少々行き違いがあるが、ともかく、彼らのおかげで一の宮がまわっているのもまた事実であった。