内容:千鳥と美鳥は双子の兄弟。兄、千鳥は長く行方不明だったが、
たまたま訪れた病院で大けがを負った兄と再会する。
壁に大きく取った窓からは街が一望できた。
前に遮るものは何もない。病室から眺める外は広々として、どこまでも遠くへと続いている。曲がりくねった川の姿も、道沿いに並んだビルや家もすべてが一目で見渡せる。そうでなくても屋根の数を数えて退屈を紛らわすことができるし、たまには空をまわる鳥をずっと眺めていることも出来る。入院用の特別室のみがあるこのフロアの中で、ここは一番景色の良い部屋らしかった。川で花火があればその特等席に、冬の空気が澄んだ頃になれば星と街の明かりのどちらともを楽しめる部屋になるという。僕はそのどれもまだ見たことはないけれど、このフロアに長く勤めている人ほど窓からの景観を褒めた。口を揃えたように運が良いと言う。
怪我をして、運び込まれて、入院で、運が良いというのはなんだけれども、確かに僕は何かの運が付いていた。
「兄さん、こんにちは」
病室の引き戸を開けて入ってきた少年は、僕を見て顔一杯に笑みをうかばせる。
6年前、姿を消した僕が今この笑顔を前にしているのは、すべて一目で僕と気付いたこの弟がいたからだった。
たくさんの花を抱えて現れ、やわらかに微笑んだ弟は、後ろに付き従って来た男に持ってきた花を渡して、その男がベッド脇に用意した椅子に腰掛けた。
双子の弟ではあるけれども、僕とはまるで違う白く端正な顔はとても綺麗で、歳も性別もあまり感じさせない。体を起こそうとする僕を手伝ってベッドを起こし、背の後ろにクッションを置いてくれはするけれど、そういったことさえもどこか浮き世離れした感がある。弟は昨日とまるで変わりのない病室の様子を見渡して眉をひそめた。
「好きに使えばいいって言ってるのに、そのままにして」
「ん、…美鳥ちゃん、でも」
うまく使えないしと、僕はぼそぼそと言い訳する。
部屋の中には見舞いとして、小さな子ども用の玩具からとても高価そうな端末まで様々なものが届けられていたけれど、そのどれも届けられたそのままの様子で置いてあった。箱のまま棚にずらりと並べられた姿はいかにも詰まらないし、日がな一日、窓の外ばかりを見て過ごしていることを教えるようで気まずい。実際にそうだからどうしようもないんだけどもね。美鳥は僕の入院のはじめから、僕が外ばかり見るのを嫌った。でも、届けられるものはどれも余りにも高価で気が引けて、近寄りがたい。
「うまく使えなくたって、構わないよ。ただ壊れるだけ」
「や。うん、…でも」
壊れるというのはあんまり構わなくはないような。でもそもそも送られた品物に対してもあんまり興味もなかった。外を見ている方がずっと楽しいからね、ついそうしちゃうんだけどもね。それがいけないんだよね、たぶん。
「我慢してるんじゃないの、使いたくなったらありがたく使わせて貰うけど、でも今の僕には手が余るから。だってほら、美鳥ちゃん。僕は腕の骨も痛めているからうまく楽しめない」
「……、もっとましなものを贈れって言っておく」
「美鳥ちゃん、や、もう、足りてるから」
慌てて言って、僕は部屋の中を見回した。これ以上箱が並んだら不機嫌に拍車がかかってしまう。それは何としても阻止しなくては。美鳥には美鳥の一言で贈り物をしてくるような人が周りにたくさんいるから、そんなことを口にしては大変だ。
「あ、あ、そうだ、冷蔵庫に蜜柑があるから。今の時期に珍しいでしょう。美鳥ちゃん良かったら」
「兄さんが食べたいものあったら、そのお相伴させてもらうけど」
「そ、そう?…ええと、種なし西瓜もあるんだよ。フロアの皆さんで切り分けて貰った残りなんだけども、美鳥ちゃん紅い果物、好きだったよね」
肯く美鳥に花を生け終えた男が冷蔵庫から西瓜を取り出して、フォークで食べられるよう切り直して出してくれる。美鳥に常に付き従っている彼は一緒にと誘った僕に丁寧に断りを返して、残り物とはいえ2人だけで食べきってしまうのは申し訳ない気がしたけれども、あんまり強く勧めるのもなんだしで、ありがたくいただいてしまう。彼には他の果物を持って帰って貰ったらいいよね。お見舞いとして、果物もたくさんいただいているから。
僕と美鳥の姓を鳴縞といい、一部ではかなり名の通った一族になる。もともとが資産家の家系だったようだけれども、幾つかの富豪と婚姻を重ねたり名だたる企業を取り込んだりして力を付け、今ではその名で国を動かすと言われている。美鳥の付き人はその鳴縞が与えたもので、僕がいなくなった幾らか後に寄越されたのだという。
それだけ聞けば煩わしい監視役のようにも思えるけれども、細やかに面倒を見ていく様は不満げなものでも、束縛するようなものでもない。むしろ心地よく過ごせることに心を砕いているのが見て取れて、好感が持てた。美鳥はとても綺麗で、大切にする人は多いけれども、大事な弟だから、やっぱり本当に慈しんでくれる人に傍にいて欲しいよね。
「兄さん、フラウウェルが引き取りたいって言ってるけど、行かないよね」
「うん?」
「退院した後。どこに住みたいとか、ある?」
首を横に振る。僕は今、手と足の骨を痛めてしまっているから、快復まで行動に制約はあるけれども、もう退院しても良いぐらい治っている。本当はすぐにでもこの部屋を出て良いんだと思うんだけれども、なかなかそうなってくれない。だからあんまり先のことは考えない。予想が付かないことを案じるのは難しいし。退院した後のことなんて、範疇外だった。
「うちにおいでよ」
「…李さんのところ?」
「いや?」
「うんん、でももう美鳥がお世話になっているわけだし、それに、…イチ兄さんが、来るよう言っていたような」
僕の答えに美鳥は少しがっかりした様子を見せたけれども、すぐに納得したように肯いた。
「爽一が?…ふうん、なら、仕方ない。それでいいや」
あくまで僕の言ったのはたぶんなんだけれども、いいと云うならそれでいいやと思って僕は微笑んだ。
「美鳥ちゃん、お葡萄もあるよ。食べていく?」
「兄さんが食べるなら」
首を横に振る。僕は別に要らない。小さい頃は食べ物の好き嫌いが激しくて要らないものを美鳥に押しつけていたものだから、美鳥は僕が食べないと食べない。今でもその癖というのか反射というのか、そういうのがあるみたいだった。欲しいときは欲しいという美鳥だし、僕もそれならいいやと思ってこれ以上は勧めないでおく。
フラウウェルは僕がいなくなるその日まで預けられていた家のことだった。本当ならそこで成人までは過ごすはずだった。美鳥の場合はそれが李家ということになり、今もそこにいる。鳴縞の家の取り決めで、僕たち双子はそれぞれ生まれて直ぐに別々の家に預けられた。フラウウェルも李も、血縁関係はない。鳴縞の家は一族の子どもを他家で育てさせることがままあって、それが今の複雑で強固な組織を作り上げた一端だとも言われている。僕と美鳥が預けられることになった経緯は知らないし、実際そういうことをして何かになっているのか分からないけども、まあ、とにかく縁あってそうなっていた。
「ちなみに爽一と暮らす、って話は爽一自身が言ったこと?あれが見舞いに来てるの、見たことがないんだけど」
「たまに来てるよ、夜遅くとか」
「たまに?」
「イチ兄さんの忙しさを考えたら、とっても良く顔を出してくれてる。みんなそれを分かっているから、夜遅くでもいいっていうことになってて。たまにだけど、そのたまにがあるのが、すごいことだから」
「それなら良いけど」
美鳥は満足そうに肯いて、僕を微笑み見た。
イチ兄さんは顔を出してはくれるけれども、5分もいないと言ったらきっと怒るだろう。だからそれは言わないでおく。鳴縞の中央にいるイチ兄さんがここまで足を運んでくること自体、とても大変なことだった。イチ兄さんは僕たちと血の繋がった兄弟なんだけれども、どこに預けられることもなくずっと鳴縞の中で育った人だった。だからただ兄と言うよりは家の代弁者といったふうもあって、美鳥はイチ兄さんの挙動を気にする。6年も行方をくらましていた僕は家に信用がないので、蔑ろにされてはいけないと思うんだろう。そうやって目を光らせておいてくれているおかげか、幸いそんなふうなものを感じたことはないけれども。
その美鳥は僕が入院した当初、今日のようにベッドの傍に寄せた椅子に腰掛けていて目敏く見慣れないディスクを見つけた。止める間もなく自分の腕の端末に入れてしまったそれから浮かび上がる映像に綺麗な眉が歪められて、あれでたぶん、余計家を気にするようになったんだと思う。あの時の美鳥はちょっと怒っていた。
「何これ」
「…んと、報告書」
「そういうのは、見て分かるから」
腕に嵌めていた輪っか型の小さな端末を半透明のヴィジョングラスに変えて次々中身に目を通していく美鳥の顔は恐ろしいほど冷え切っていった。隠していた訳じゃないけれども、目立たないようにはしていたそれは僕と美鳥の兄弟関係を調べた鑑定書。家が調べて、イチ兄さんが置いていったものだった。
「…ぼくが兄さんを見間違うと思うの」
「…保険だって、言ってたよ。一族の大半は僕が僕だと分かっているけれども、僕は鳴縞の中から消されていたから。偽物だって言われることもないだけのものを用意しておけば、ばかなことが起こることもないだろうからって」
「兄さん自分の名前を言ってみてよ、今は幾つ」
「…鳴縞千鳥、今年で16」
「それだけで充分。赤ん坊の頃に生き別れたわけじゃなし、僕の兄さんなんだよ。それも双子の。こんな報告書、見るだけ不愉快」
しょうがない、僕は一人勝手に姿を消して、また不意に現れたのだから。
宥める僕に肯きながらも美鳥はぶつぶつと文句を言ってヴィジョングラスを解き、元の形に戻してから、体の力を抜いて椅子に背を預けた。あの時は僕は苦笑いで収めて、それ以来、美鳥が怒りそうなものは貰わないことにした。
美鳥は訊かない。なぜ僕がいなくなってしまったのかも、今まで何をしていたのかも。連絡1つ寄越しもせずにいたことさえも一言も詰らず、ただ毎日僕の顔を見に来て、昔と同じに振る舞う。でもそうはいかない人たちの方がずっと多くて。僕が鳴縞の意志の下、フラウウェルに預けられた美鳥の双子の兄、千鳥であることを証すことは必要だった。
「もう少し暖かくなったら」
「うん?」
余所事を考えている間に何か話しかけてくれていたみたいなんだけれども、聞いていなかった。首を傾げた僕に美鳥は優しい目を向けて、僕の髪の跳ねに手を伸ばす。
「ぼくの所にも来て。もうすぐ温室の外でも花がたくさん咲くから」
李家はたいへん花を愛でる一家なので、屋敷中緑と花に溢れている。かつて何度も訪れたそこを思い描けば、桃源郷のような姿がうかぶ。花に囲まれた美鳥を見るのが、僕は好きだった。
「とても綺麗なんだよ、薫りも良い」
「うん覚えているよ、すごいよね」
「案内したいところがたくさんある、来てよね、兄さん」
「………、ん」
こういう場面で、すぐに肯けばいいのに言葉に詰まってしまう。
「…兄さん?」
「う、うん?」
「どうして、詰まるの」
「それは…」
途端美鳥は不機嫌な顔になる。うまく答えられない僕に美鳥はたたみ掛けるように口を開く。
「爽一と暮らすのが嫌なら、…ぼくのところも、フラウウェルのところだってあるにはある。新しく1人住まいをはじめてもいい。たとえ誰が反対しても、ぼくがそうする」
「イチ兄さんが嫌なことなんて、全然ない」
「でも喜んでない、爽一とは暮らさないって顔に書いてある」
「………」
「また、書き置き1つで出て行くつもりなの」
「や、それは、しないけど」
「それは?」
「イチ兄さんは好き。フラウウェルのみんなも好きだし、美鳥ちゃんも可愛い僕の弟だし。でもなんだかうまく想像できないんだよ」
イチ兄さんと暮らすと云うことは、今までいた場所に帰らないということなんだろうから。たとえそうなることがあっても、長くは続かないようなそんな気がして。
美鳥たちをこれ以上悲しませない為には、もうずっとここにいると、心配しなくていいよ、と言えなくちゃいけないんだけれども。でも。
「…珍しいものがとても好きな男」
イチ兄さんから聞いたのだろう。
それは唯一答えたこと。この病院に運び込まれるまで一緒にいた相手のことを訊かれて、唯一答えたこと。僕は肯いた。
「その人と一緒にいてはダメ?」
美鳥の答えは小さく左右に振った首の動き。
名前さえ分からない相手にそんなことを許すわけにはいかない。イチ兄さんはそう言った。逆の立場だったのなら僕だってそう言ったかもしれない。それなら正体を明かしてしまえばいいようなものなのだけれども、…善人か悪人かと訊かれればどっちかというと、後者なような。そんな人なので迂闊なことは言えなくて、結局何も答えられない。
押し黙った僕を美鳥はベッドを倒して元のように寝かせてくれてから、そっと額を撫でてくれる。そうしてから部屋の隅に佇んだ男に言ってロールカーテンを落として、席を立った。夕日が遮られて薄暗くなった室内に見える横顔はどこか寂しげで、でもすぐに灯った明かりの下で向けられたのは静かないつもの顔だった。
「…その話も含めて、また明日にしよう」
最後に部屋の中を丁寧に見て回って整えてくれて、帰ろうとする背にうんと肯くときれいな顔に嬉しそうな笑みがうかぶ。
「明日また来るから」
誰にも何も話さずにいなくなってしまった僕が悪いんだけれども。
そっと向けられた言葉と暖かにうかべられた微笑みに、僕はもう1度うんと肯いて、小さく振られた手にひらひら手を振り返した。
前に遮るものは何もない。病室から眺める外は広々として、どこまでも遠くへと続いている。曲がりくねった川の姿も、道沿いに並んだビルや家もすべてが一目で見渡せる。そうでなくても屋根の数を数えて退屈を紛らわすことができるし、たまには空をまわる鳥をずっと眺めていることも出来る。入院用の特別室のみがあるこのフロアの中で、ここは一番景色の良い部屋らしかった。川で花火があればその特等席に、冬の空気が澄んだ頃になれば星と街の明かりのどちらともを楽しめる部屋になるという。僕はそのどれもまだ見たことはないけれど、このフロアに長く勤めている人ほど窓からの景観を褒めた。口を揃えたように運が良いと言う。
怪我をして、運び込まれて、入院で、運が良いというのはなんだけれども、確かに僕は何かの運が付いていた。
「兄さん、こんにちは」
病室の引き戸を開けて入ってきた少年は、僕を見て顔一杯に笑みをうかばせる。
6年前、姿を消した僕が今この笑顔を前にしているのは、すべて一目で僕と気付いたこの弟がいたからだった。
たくさんの花を抱えて現れ、やわらかに微笑んだ弟は、後ろに付き従って来た男に持ってきた花を渡して、その男がベッド脇に用意した椅子に腰掛けた。
双子の弟ではあるけれども、僕とはまるで違う白く端正な顔はとても綺麗で、歳も性別もあまり感じさせない。体を起こそうとする僕を手伝ってベッドを起こし、背の後ろにクッションを置いてくれはするけれど、そういったことさえもどこか浮き世離れした感がある。弟は昨日とまるで変わりのない病室の様子を見渡して眉をひそめた。
「好きに使えばいいって言ってるのに、そのままにして」
「ん、…美鳥ちゃん、でも」
うまく使えないしと、僕はぼそぼそと言い訳する。
部屋の中には見舞いとして、小さな子ども用の玩具からとても高価そうな端末まで様々なものが届けられていたけれど、そのどれも届けられたそのままの様子で置いてあった。箱のまま棚にずらりと並べられた姿はいかにも詰まらないし、日がな一日、窓の外ばかりを見て過ごしていることを教えるようで気まずい。実際にそうだからどうしようもないんだけどもね。美鳥は僕の入院のはじめから、僕が外ばかり見るのを嫌った。でも、届けられるものはどれも余りにも高価で気が引けて、近寄りがたい。
「うまく使えなくたって、構わないよ。ただ壊れるだけ」
「や。うん、…でも」
壊れるというのはあんまり構わなくはないような。でもそもそも送られた品物に対してもあんまり興味もなかった。外を見ている方がずっと楽しいからね、ついそうしちゃうんだけどもね。それがいけないんだよね、たぶん。
「我慢してるんじゃないの、使いたくなったらありがたく使わせて貰うけど、でも今の僕には手が余るから。だってほら、美鳥ちゃん。僕は腕の骨も痛めているからうまく楽しめない」
「……、もっとましなものを贈れって言っておく」
「美鳥ちゃん、や、もう、足りてるから」
慌てて言って、僕は部屋の中を見回した。これ以上箱が並んだら不機嫌に拍車がかかってしまう。それは何としても阻止しなくては。美鳥には美鳥の一言で贈り物をしてくるような人が周りにたくさんいるから、そんなことを口にしては大変だ。
「あ、あ、そうだ、冷蔵庫に蜜柑があるから。今の時期に珍しいでしょう。美鳥ちゃん良かったら」
「兄さんが食べたいものあったら、そのお相伴させてもらうけど」
「そ、そう?…ええと、種なし西瓜もあるんだよ。フロアの皆さんで切り分けて貰った残りなんだけども、美鳥ちゃん紅い果物、好きだったよね」
肯く美鳥に花を生け終えた男が冷蔵庫から西瓜を取り出して、フォークで食べられるよう切り直して出してくれる。美鳥に常に付き従っている彼は一緒にと誘った僕に丁寧に断りを返して、残り物とはいえ2人だけで食べきってしまうのは申し訳ない気がしたけれども、あんまり強く勧めるのもなんだしで、ありがたくいただいてしまう。彼には他の果物を持って帰って貰ったらいいよね。お見舞いとして、果物もたくさんいただいているから。
僕と美鳥の姓を鳴縞といい、一部ではかなり名の通った一族になる。もともとが資産家の家系だったようだけれども、幾つかの富豪と婚姻を重ねたり名だたる企業を取り込んだりして力を付け、今ではその名で国を動かすと言われている。美鳥の付き人はその鳴縞が与えたもので、僕がいなくなった幾らか後に寄越されたのだという。
それだけ聞けば煩わしい監視役のようにも思えるけれども、細やかに面倒を見ていく様は不満げなものでも、束縛するようなものでもない。むしろ心地よく過ごせることに心を砕いているのが見て取れて、好感が持てた。美鳥はとても綺麗で、大切にする人は多いけれども、大事な弟だから、やっぱり本当に慈しんでくれる人に傍にいて欲しいよね。
「兄さん、フラウウェルが引き取りたいって言ってるけど、行かないよね」
「うん?」
「退院した後。どこに住みたいとか、ある?」
首を横に振る。僕は今、手と足の骨を痛めてしまっているから、快復まで行動に制約はあるけれども、もう退院しても良いぐらい治っている。本当はすぐにでもこの部屋を出て良いんだと思うんだけれども、なかなかそうなってくれない。だからあんまり先のことは考えない。予想が付かないことを案じるのは難しいし。退院した後のことなんて、範疇外だった。
「うちにおいでよ」
「…李さんのところ?」
「いや?」
「うんん、でももう美鳥がお世話になっているわけだし、それに、…イチ兄さんが、来るよう言っていたような」
僕の答えに美鳥は少しがっかりした様子を見せたけれども、すぐに納得したように肯いた。
「爽一が?…ふうん、なら、仕方ない。それでいいや」
あくまで僕の言ったのはたぶんなんだけれども、いいと云うならそれでいいやと思って僕は微笑んだ。
「美鳥ちゃん、お葡萄もあるよ。食べていく?」
「兄さんが食べるなら」
首を横に振る。僕は別に要らない。小さい頃は食べ物の好き嫌いが激しくて要らないものを美鳥に押しつけていたものだから、美鳥は僕が食べないと食べない。今でもその癖というのか反射というのか、そういうのがあるみたいだった。欲しいときは欲しいという美鳥だし、僕もそれならいいやと思ってこれ以上は勧めないでおく。
フラウウェルは僕がいなくなるその日まで預けられていた家のことだった。本当ならそこで成人までは過ごすはずだった。美鳥の場合はそれが李家ということになり、今もそこにいる。鳴縞の家の取り決めで、僕たち双子はそれぞれ生まれて直ぐに別々の家に預けられた。フラウウェルも李も、血縁関係はない。鳴縞の家は一族の子どもを他家で育てさせることがままあって、それが今の複雑で強固な組織を作り上げた一端だとも言われている。僕と美鳥が預けられることになった経緯は知らないし、実際そういうことをして何かになっているのか分からないけども、まあ、とにかく縁あってそうなっていた。
「ちなみに爽一と暮らす、って話は爽一自身が言ったこと?あれが見舞いに来てるの、見たことがないんだけど」
「たまに来てるよ、夜遅くとか」
「たまに?」
「イチ兄さんの忙しさを考えたら、とっても良く顔を出してくれてる。みんなそれを分かっているから、夜遅くでもいいっていうことになってて。たまにだけど、そのたまにがあるのが、すごいことだから」
「それなら良いけど」
美鳥は満足そうに肯いて、僕を微笑み見た。
イチ兄さんは顔を出してはくれるけれども、5分もいないと言ったらきっと怒るだろう。だからそれは言わないでおく。鳴縞の中央にいるイチ兄さんがここまで足を運んでくること自体、とても大変なことだった。イチ兄さんは僕たちと血の繋がった兄弟なんだけれども、どこに預けられることもなくずっと鳴縞の中で育った人だった。だからただ兄と言うよりは家の代弁者といったふうもあって、美鳥はイチ兄さんの挙動を気にする。6年も行方をくらましていた僕は家に信用がないので、蔑ろにされてはいけないと思うんだろう。そうやって目を光らせておいてくれているおかげか、幸いそんなふうなものを感じたことはないけれども。
その美鳥は僕が入院した当初、今日のようにベッドの傍に寄せた椅子に腰掛けていて目敏く見慣れないディスクを見つけた。止める間もなく自分の腕の端末に入れてしまったそれから浮かび上がる映像に綺麗な眉が歪められて、あれでたぶん、余計家を気にするようになったんだと思う。あの時の美鳥はちょっと怒っていた。
「何これ」
「…んと、報告書」
「そういうのは、見て分かるから」
腕に嵌めていた輪っか型の小さな端末を半透明のヴィジョングラスに変えて次々中身に目を通していく美鳥の顔は恐ろしいほど冷え切っていった。隠していた訳じゃないけれども、目立たないようにはしていたそれは僕と美鳥の兄弟関係を調べた鑑定書。家が調べて、イチ兄さんが置いていったものだった。
「…ぼくが兄さんを見間違うと思うの」
「…保険だって、言ってたよ。一族の大半は僕が僕だと分かっているけれども、僕は鳴縞の中から消されていたから。偽物だって言われることもないだけのものを用意しておけば、ばかなことが起こることもないだろうからって」
「兄さん自分の名前を言ってみてよ、今は幾つ」
「…鳴縞千鳥、今年で16」
「それだけで充分。赤ん坊の頃に生き別れたわけじゃなし、僕の兄さんなんだよ。それも双子の。こんな報告書、見るだけ不愉快」
しょうがない、僕は一人勝手に姿を消して、また不意に現れたのだから。
宥める僕に肯きながらも美鳥はぶつぶつと文句を言ってヴィジョングラスを解き、元の形に戻してから、体の力を抜いて椅子に背を預けた。あの時は僕は苦笑いで収めて、それ以来、美鳥が怒りそうなものは貰わないことにした。
美鳥は訊かない。なぜ僕がいなくなってしまったのかも、今まで何をしていたのかも。連絡1つ寄越しもせずにいたことさえも一言も詰らず、ただ毎日僕の顔を見に来て、昔と同じに振る舞う。でもそうはいかない人たちの方がずっと多くて。僕が鳴縞の意志の下、フラウウェルに預けられた美鳥の双子の兄、千鳥であることを証すことは必要だった。
「もう少し暖かくなったら」
「うん?」
余所事を考えている間に何か話しかけてくれていたみたいなんだけれども、聞いていなかった。首を傾げた僕に美鳥は優しい目を向けて、僕の髪の跳ねに手を伸ばす。
「ぼくの所にも来て。もうすぐ温室の外でも花がたくさん咲くから」
李家はたいへん花を愛でる一家なので、屋敷中緑と花に溢れている。かつて何度も訪れたそこを思い描けば、桃源郷のような姿がうかぶ。花に囲まれた美鳥を見るのが、僕は好きだった。
「とても綺麗なんだよ、薫りも良い」
「うん覚えているよ、すごいよね」
「案内したいところがたくさんある、来てよね、兄さん」
「………、ん」
こういう場面で、すぐに肯けばいいのに言葉に詰まってしまう。
「…兄さん?」
「う、うん?」
「どうして、詰まるの」
「それは…」
途端美鳥は不機嫌な顔になる。うまく答えられない僕に美鳥はたたみ掛けるように口を開く。
「爽一と暮らすのが嫌なら、…ぼくのところも、フラウウェルのところだってあるにはある。新しく1人住まいをはじめてもいい。たとえ誰が反対しても、ぼくがそうする」
「イチ兄さんが嫌なことなんて、全然ない」
「でも喜んでない、爽一とは暮らさないって顔に書いてある」
「………」
「また、書き置き1つで出て行くつもりなの」
「や、それは、しないけど」
「それは?」
「イチ兄さんは好き。フラウウェルのみんなも好きだし、美鳥ちゃんも可愛い僕の弟だし。でもなんだかうまく想像できないんだよ」
イチ兄さんと暮らすと云うことは、今までいた場所に帰らないということなんだろうから。たとえそうなることがあっても、長くは続かないようなそんな気がして。
美鳥たちをこれ以上悲しませない為には、もうずっとここにいると、心配しなくていいよ、と言えなくちゃいけないんだけれども。でも。
「…珍しいものがとても好きな男」
イチ兄さんから聞いたのだろう。
それは唯一答えたこと。この病院に運び込まれるまで一緒にいた相手のことを訊かれて、唯一答えたこと。僕は肯いた。
「その人と一緒にいてはダメ?」
美鳥の答えは小さく左右に振った首の動き。
名前さえ分からない相手にそんなことを許すわけにはいかない。イチ兄さんはそう言った。逆の立場だったのなら僕だってそう言ったかもしれない。それなら正体を明かしてしまえばいいようなものなのだけれども、…善人か悪人かと訊かれればどっちかというと、後者なような。そんな人なので迂闊なことは言えなくて、結局何も答えられない。
押し黙った僕を美鳥はベッドを倒して元のように寝かせてくれてから、そっと額を撫でてくれる。そうしてから部屋の隅に佇んだ男に言ってロールカーテンを落として、席を立った。夕日が遮られて薄暗くなった室内に見える横顔はどこか寂しげで、でもすぐに灯った明かりの下で向けられたのは静かないつもの顔だった。
「…その話も含めて、また明日にしよう」
最後に部屋の中を丁寧に見て回って整えてくれて、帰ろうとする背にうんと肯くときれいな顔に嬉しそうな笑みがうかぶ。
「明日また来るから」
誰にも何も話さずにいなくなってしまった僕が悪いんだけれども。
そっと向けられた言葉と暖かにうかべられた微笑みに、僕はもう1度うんと肯いて、小さく振られた手にひらひら手を振り返した。