夏燐は湯から上げても起きなかった。仕方ないので二人がかりで寝間着にし、部屋に置くことにした。 「俺は帰るから、おいたなんかするなよ」 「さっさと帰れ」 「お前も夏燐も、もう少し利口になれないのかね」 「帰れ」 口の減らない男を追い出して、上の階にある自分の部屋に向かう。義晴は小さく肩を竦めて苦笑してみせてから、夜灯の燈る外へと消えた。 舗の奥、裏通りに面した方は従業員用になっている。煤けた煉瓦造りのその建物はもう大分古くて痛みも激しいことから、一階二階の全室合わせても数えるほどしか人がいない。でも、僕はこの古くてしんとした建物は好きだった。 立て付けの悪い扉を慎重に閉めて、昼に起きたまま放り出されたベッドの上に寝そべった。擦りきれたシーツに夜気が沁み込んで、ひんやりと心地よい。そろそろ暑い季節が訪れる時期だから、陽が昇ればこの部屋も温んでいくだろう。開けっ放しの窓の外は、ほんの少し白く光がかかりはじめている。夜が明け始めていた。朝陽と共に寝静まるのを肌に感じながら、僕はいつのまにかうつらうつらとしてしまったらしい。ヴン、という微かな電信音と静電気の発する音で目を覚ました僕は、晴天の空を見て驚いた。もう昼近くの陽射しだった。 「月緒、お目覚め?」 「!」 ぎょっと振り返る。部屋の隅に置いたシングルのベッドよりも大きな画面に、白衣姿の青年の笑みが映し出されていた。 受信専用の電信盤。窓からの陽があたらないよう部屋の隅に置いたそれに、明かりが燈っていた。 「こちらを向いて寝ていて欲しかったな」 「薫留、」 あるじ。 そこにいるのは、僕のたった1人のあるじだった。 「か、かお、る…?」 「どんなに信じられなくても良いから息をして」 驚き過ぎて息を止めていたのも気付かなかった。 僕は頷くのと息を吸うのと同時にして混乱し、胸からはじき出されそうなほどめちゃくちゃな様子の心臓を手で押さえた。 ほ、ほんもの。 僕はごくりとつばを飲み込み、そして慌てて手櫛で髪を梳く。ようやく肩につくぐらいまで伸びた髪。幾らか前…たぶん、薫留に会った最後の日、別れ際はさっぱりと思って短く切ったら不評だった髪。もうだいぶ伸びた。切り過ぎと言われる前のもとの長さはとうに超えてしまったけど…。 半端な長さの髪は寝癖で跳ねて、直そうとすればするほどおかしなところにいく。そういえば乾かさずに寝ていた。跳ねは直らない。焦れて引っ張ったがそんなことで寝癖が直るなら悩みなんて生まれない。胸元を見下ろすと釦が外れて真ん中のラインが斜めに歪んでもいる。それも慌てて直す。最悪だ。おかしなところすぎて、僕の手は虚空をさ迷った。どこから手をつけたらいいのか分からない。ひどすぎる。 「月緒」 「き、着替えるから!」 「つきお」 「顔も洗ってない!」 「…つーきーお、ぼくを追い出したいの?」 僕は驚いて勢い良く首を振る。とんでもない、飛び出すべきは僕で、こんな格好、見せられないし見て欲しくないから、隠れたいしどうにかしなくちゃいけないわけなんだ。立ちあがりかけた僕に、待て、と薫留が言う。 「ストリップするの?」 「…、え?」 「してくれるなら楽しく見るけど。それとも、まさかこの僕がここにいるのにどこかに行ったり隠れたりして身支度する気じゃないよね月緒?」 僕は我に返り、慌てて肯いた。薫留は怒ってるみたいだった。僕は一瞬訳が分からず、ただ動転した。動転しても、薫留を振り切り行動に移ってしまわなくって良かったと思う。そっと吐かれた溜め息を聞いたとき、泣きそうになった僕はつよくそう思った。本当に怒った薫留には、とっても怖いことを、される。義晴の前では勝気なことも言ったけど、本人の前じゃ絶対言わない。言いたくもない。気まずい静けさが部屋を過ぎた。恐る恐る顔を上げると、薄汚れた白衣の前で腕を組み、仁王立ちした善い人そうな笑みが見えた。 「月緒」 「…、はい」 「元気?」 「…、は、はい」 「研究が一段落ついたんだけど、今また新しい酵素を見つけてねそれがすごいんだよ」 「…、」 すごいんだ、…折角一段落ついてくれても。 呟きは声に出さず、嬉しさは一瞬のうちに掻き消える。 薫留が研究のために帰らなくなって、もう随分な長さになっている。こうして不意に、電信盤を使ってくれるときはあるけれど、それだけ。僕には決して行き先を教えてくれないし、電信盤の連絡先も教えてくれない。すべて秘密。それを訊くことさえゆるしてくれない。 薫留の淡い茶色の髪の毛が、室内燈の光に照らされている。後ろには題名も読めない黄ばんだ背表紙。そこはどこの建物の中で、どんなものがそこにあって、どんなものを聴いていて、どうして、そんなに遠くで笑ってるのか、僕には分からない。ちっとも、分からない。ごく、ごくたまに…義晴や夏燐のあるじから、薫留の噂話は教えてもらえるけれど、でも。そんなの聞いている一時、うれしい、ぐらいのもの。 「薫留」 ここにいるよう言われたし、居たい。 夏燐は可愛いし、義晴にも慣れた。 だけど、そうだけど、でも。 我慢しても我慢しようとしても、それがいやだと思ったりもする。 いやだと思って、どうしようもなく、なったりして。 「……、夏燐は」 「夏燐くんが?」 「頸に」 僕は言いかけて、緩く首を振った。 薫留がやりたくて研究をしに行っていることは知ってた。それがすごく楽しいんだって知っている。研究は薫留の生き甲斐で、僕と知り合う前からしていることだった。僕は薫留の生き甲斐を阻むつもりはないし、そんなことは決してしたくない。色々やな気分にもなったりするけれど、こうして連絡をくれるのは僕を気にかけてくれるということだし、直通で回線が通るこれをくれたのも薫留。思えばこの部屋をくれたのも、この場所をくれたものみんな薫留で、僕が薫留にすごく想われていることぐらい、分かってる。 くしゃりとシーツを掴んで、僕は俯いた。 言葉を飲み込み息を整えて、ゆっくり瞼を落とす。 体の底にあるものは、言ってはいけないもの。 言っては、薫留に嫌われるだろうから。 僕は居場所をなくすから。 そんなこと絶対いやだ。僕は決して薫留と別れ別れになりたくない。 僕はそのことを何度も確認すると、込み上げてきていたものはどうにか消えて、ほ、っと微笑んだ。 「…薫留、好きだから」 「うん」 「僕、ちゃんとここで待、っ」 溢れてくる涙に僕は驚いた。 堪えようとしたけれど、そのやり方が咄嗟に分からない。 僕は両手で瞼の上を押さえた。嗚咽が洩れた。 「ごめん、ごめんなさい」 涙が次から次へと溢れてくる。止まらない。 どうしたら良いのか分からなくて、また涙が溢れた。 この街は待つことしか出来ない僕を置いてくれる。何の代償もなく憂鬱な僕を抱え、時には喜びや幸せをくれる。僕のあるじが薫留。僕は何もかもに日が浅く、確かなものも何も持たないから、ただ好きと言うことしか出来ないけれど。けど、だけれど僕は、優しいのを切ないと思って、冷たくもないものを凍えそうだと思って。いつだってそんなふうに思って、…。 「聞くよ、言ってごらんよ」 「…………」 「叱られたいの」 声の端に本当に怒りを感じて、僕は泣き顔を画面に晒した。薫留のきれいな二重の瞼に、微かに力がこもっている。本当に怒っている。表情は優しいままだから気付かない人も多いけれど、僕は分かる。それだけ、叱られ慣れているということでもあるから全然自慢にならないけど…。あちらこちらに視線をさ迷わせて、僕は息を飲み込んだ。急いで泣いてなんかない、というふうに顔を取り繕ってみたけれども、遅い。薫留は恐ろしいほど愛らしい笑みをうかべ僕を見た。 「ほら」 零下にさがった薫留の微笑みに、僕は観念した。 「き、今日、か、夏燐の頸に痕があって、一緒に舗に出たけど僕は付けてないし、だから、それは、それで」 「ふうん、羨ましかったんだ」 有体に言われてしまい、僕は顔を紅らめた。多分耳から首筋から全部紅くしてしまったと思う。あからさまな言葉は、とんでもなく恥ずかしい。笑みを含むような薫留の声に、だって、と僕は言い訳をのぼらせた。 「夏燐は可愛いし、肌なんてつやつやだし、薫留はもうずっといなくて、僕がさみしくなったって」 「月緒はとても綺麗だし、愛らしいよ」 紅くした顔を更に紅くして、僕は俯いた。たとえ出任せだって、薫留の口から言われたのならとても嬉しかった。思わず本当?と訊ねて、もう1度聞きたくなるのを僕は堪える。そこで冗談さ、とでも応えられたらいやだ。 とても細かな光の粒子によって生み出された画面は、ほんの少し泡のように漂う光のつぶを表面に見ることが出来る。窓からの風にもそれは乱されることはないけれど、不規則的なその動きは見ていて飽きない。 僕はいつのまにか顔を上げ、ぼんやりと薫留を見つめていた。開けっ放しの窓からきつめの陽射しが射し込んで、煤けた木の床を白く照らしている。温められた空気がゆったりと昇り、部屋の中に真昼の気配が充ちる。外から聞こえるほんの少しのざわめきは、昼餉の支度をする音かもしれない。 ふいに、思い詰めてたものが形を失った。 薫留の微笑みに、温かさがこもるのが分かる。 何度かためらった後に口を開きかけた僕は、外からの音の中に聞きなれた声を聞いた。斜め後ろの窓を振り返って、ベッドから降りる。窓辺に寄り外を見下ろすと、裏門の辺りに黒い車と黒服の男たち、そして夏燐がいた。 「帰らないったらっ、向こうが勝手に連れてきたくせに、戻れなんて良く言う!」 「ごねないで下さい、オーナーの命なんですから」 「嫌なものは嫌っ」 捉えようとする手を振り払い、夏燐が車に連れ込もうとする男たちに抗う。それは、いつもの騒ぎだった。夏燐のあるじはいつも突然夏燐を舗に寄越し、また突然、迎えを寄越す。毎度のように繰り広げられていることなので、野次馬さえ出て来ない。せいぜい裏門のすぐ近くの部屋にいる僕がつい覗いてしまうぐらいだけれど、黒服の男たちは人目を気にしてか近所迷惑を考慮してか夏燐との悶着を長引かせる気はないようで。今日もそうだった。何度目かの抗いを見せた体が、ふっと崩れる。首に手刀が入れられたのに違いない。気を失った夏燐は瞬く間に車の中に運び入れられて、黒い扉の向こうに消える。車を出す前に一瞬黒服の一人が僕を見て会釈するので、僕は手を振った。夏燐に知られれば文句を言われるだけでは済みそうにないけれど、僕はあの黒服の人たちの邪魔をする気にはどうしてもなれない。夏燐はとても丁寧に抱えられ、寄せられる眼差しは温かかった。 「月緒」 振り返った画面の右上に、あと僅かでの時間切れを示す表示が小さく瞬いていた。僕はそれを見て、小さく目を見開く。 「…、薫留、」 この瞬間が、一番苦手だった。限界に到達すれば勝手に切れるけれど、そのあと少しの時間を、どうすればいいのか分からない。僕はその場に立ち尽くし、点滅する光と、薫留に目を向ける。 「か、おる」 あの画面が消えたら、もう見られないかもしれない薫留の顔。いつも薄く汚れた白衣。やわらかそうな茶色の髪。鳶色の目。 僕はここで待つしかない、待つことを止めたらもう二度と、薫留には会えない。 少し前の気持ちの揺れが、尾を引いていたんだろう。笑って見送れる時だってあるのに、喉が苦しかった。こんなところで泣いてはいけない。そう思うのに瞼の下がどんどん熱くなる。 「い、」 「…」 「…」 月緒、と名が呼ばれる。 僕は身を捩って、画面をきつく見つめた。 笑もうとして、体の中で、堪えていたものが弾けた。 「いやだ、行かないでよ、僕は待つばっかり、薫留は全然連絡くれないし、たまにだってこんなに短いし、僕は薫留を忘れそうなんだよ、薫留の感触も温度もすぐ傍の音の響きだって、全部違う感覚になってしまいそうで、そんなのいやだ、ぜったいいやだ」 「月緒」 「いやだ、このままじゃ薫留のこと」 「帰らないと誰が言った」 「…」 「焦れて夏燐に手を出したくなるのは分かるけど」 「え?だ、出してない未遂」 「未遂をしたと」 「…、あ、あの」 薫留が深くゆっくりと息を吐く。 戸惑う僕に、とても穏やかな目を向けた。 「悪戯はしちゃいけないってぼく言ったのにな。守れない人にはそれ相応のことをしないといけないよね。…そういうわけだから、月緒がぼくを忘れる前に帰ろうと思う。つまりは今日の夜、そっちに帰るわけ。迎えはいらないよ、夕飯は用意しておいて、あ、服なんて着ないでいるように。じゃあね、戻ってきてその顔が腫れてたら赦さないよ。すぐ洗いなさい。横着して拭いて済まそうとするの、わるい癖だ。それと」 短く息を吸い込んだ薫留が、僕を見つめる。 「ぼくは月緒をただひとりだと思っている。身代わりはないしさせる気もない。…ああっまったく月緒だけだよ僕にこんなことを明らかに言わせられるの」 とても早口に言いのけた薫留の姿が一瞬照れて怒ったようになり、そのままぷツンと消える。 画面を微かに漂う光の片をぼんやり目で追いながら、僕は言われたことを反芻し、やっと意味が分かって、真っ赤になって動悸を覚え、そうして頬を両手でぎゅっと抑えた。 「つ、つまり、だから、か、薫留が、帰ってくる」 蕩けそうな顔を必死に抑えたけれどだめだった。僕は満面の笑みでそう叫び、ベッドの上へと飛び込んだ。陽射しを含んだベッドはほんわり温かく、とてもやわらかで心地よい。初めて聞いた薫留の告白らしき告白と、帰宅の話を何度も胸の中で確かめて、僕は飛べそうなほどうかれた。 実際たぶん、舗に吉報を報せに行った僕の足取りは殆ど宙に浮いていたに違いなかった。 |